第003話 悪魔退治
◆ ◆ レティナ視点 ◆ ◆
記憶は定かではないけれど、私は4歳頃まで病気のためずっと入院していた。立ち上がって脚に筋肉をつけるのが遅れて、しばらくは身体を介助されなければ満足に外を出歩くことができなかった。小学校に上がり、ようやく自分の脚で動けるようになって、反動で私は好奇心の化身となった。気になる物があれば無理にでもそれを取りに行こうとするし、そうして手に入れた物がどういう性質を持っているのかをすぐに検証したがった。
体力というものを定量的に評価することは難しいけれど、そんな好奇心の旺盛さに反して一般人の2割程度の体力しかない。それゆえ、疲労で気を失うことが多々あった。父は行方不明となり母も知らずのうちに亡くなり孤独な存在となった私を、保護者としてずっと養ってくれた叔父は私に手を焼いていたと思う。
確かに周囲の目も憚らず熱中して倒れることがあった。そんなことが何度もあっても、この日までに生命の危機を感じることはなかった。今日こそは違うようだ。
2本のナイフを腰に据えたスキンヘッドの男がこの路地に入り込んでくる。身長は175センチほどで、身体は細くガッチリと引き締まった筋肉質だ。どう考えても、あの男がすれ違いざまに「あ、すみません。お先にどうぞ」と道を譲ってくれる未来は待っていないだろう。相手がこの路地に入り込んできた目的は不明だけれど、十中八九、金品は奪われ私の身体は傷つけられる。
どうする?
話し合う? 無理そう。
喧嘩する? 無理無理。
どこかに隠れる? 一理ある。
周囲を見回して隠れる場所を探す。私を取り囲むビルの窓は防犯対策のためか高いところに位置していて、私の身体能力ではとても登りきれない。また、透視して見る限り鍵がかかっているから、登れたとしても窓ガラスを割って鍵を開けないといけない。そうすると、ガラスを割った音があの男に聞かれてしまい、私の存在を勘づかれてさらに悪い展開になることしか予想できない。
路地に散乱している板材やゴミ袋に紛れるのが隠れる場合の最適解だろう。とても22歳になる年頃の可愛いらしい女性がやる行為じゃないけれど、確実に近づいてくる危険を避けるのに文句は言っていられない。暗視能力で手頃な板材を見つけて寄り集め、自然に破棄されたゴミらしく見せることを意識しながら、音を立てないように隠れられるスペースをさっと作る。昨日まで降り続いた雨が乾かずにこの路地に残っているため、服や髪に泥が付着してしまうけれど我慢する。
手早く作業を終えて、男の方を透視能力で確認する。男の手元が光って前方が淡く照らされている。リングフォンの空間投影ディスプレイの輝度を最高にして懐中電灯代わりに利用している。ここ数年のリングフォンであればもっと高輝度の照明機能があるので、男のリングフォンはずいぶんと古い型のようだ。
今、男は2つ目の角を曲がったところにいる。あと20秒程度で奴は3つ目の角に着いて、私の居るこの裏路地の終着点にやってくる。
もう準備はできている。このまま息を殺して隠れていればやりすごせるはず。
「おおーぅい。居るのは分かっているんだ。この道は行き止まりで、ビルに入る窓ガラスも高いとこにあってそうそう割れるもんじゃねえ。お姉さん、どっかに隠れてんだろ?」
かすれた下品な男の声が少し遠くから聴こえる。同時に、ゴミ袋や板材をガサガサバキバキと踏み荒らす音が響いてくる。
最悪だ。奴は明確に私をターゲットとして裏路地に入ってきたのか。私がこの路地に入ったところを監視していたのだろう。別の目的でこの路地に入りこんだのならいくらでも方法はあったのに。このまま隠れていてもいずれ発見されてしまう。
「この袋小路はなあ、俺の狩場なんだよ。よく酔っ払いとか男女の連れとかが入り込んでくるから、後から俺が入って追い詰めて金とか身体を頂くんだ。あ、狩場じゃねえか、女の場合は穴場か? ハッヘッヘ! しっかし、女が一人で入ってくるのは珍しいな~」
なるほど、典型的な社会の悪、という意味での悪魔がやってきたようだ。こんな奴に好き放題されるわけにはいかないね。
……対処法を考え直す必要がありそう。
話し合う? こんな奴と話し合えるわけがない。無理無理。
どこかに隠れる? 奴は手当たり次第ゴミをあさっている。無理無理。
喧嘩する? これしかない。
男がもう3つ目の角を曲がる頃だ。
今から始める喧嘩の勝利条件は、私が五体満足で路地から脱出すること。それを達成するには、あの下品な男と対峙して男の横をすり抜けなければならない。すり抜けるためには、男を一瞬でもいいから行動不能にしなくてはならないだろう。相手の武器はナイフ2本、それと男の筋力。私の武器はこの右眼、それといくつか検証に用意していた道具と周囲の環境だ。
身体を弄ばれて、最悪死んでしまいうる今の状況にあっても、私の思考回路は合理的に廻っていった。こんな状況は初めてだけれど、意外と私、肝が座っている性格なのだと気付いた。
「じゃじゃあーん! 後は行き止まりへの一本道だねえ。どこに隠れているのかな、お姉さーん」
奴が3つ目の角を曲がってきた。隠れている板材の隙間から、奴のライトの光がチラチラと差し込んでくる。
さて、悪魔退治、やりますか。
◆ ◆ 第三者視点 ◆ ◆
曇天の夜空、雑居ビルの隙間に入り込む光はほとんどない。ビルに挟まれた人工の暗闇の谷の中に、2人の男女がいる。1人の男は左腰から抜いたナイフを右手に持ち、左手に付けたリングフォンでその谷に一筋の弱い光を放っている。女はゴミを身体の上に重ねて息を殺して横たわって隠れている。2人の距離は7メートルほどだ。
隠れていた女はガサリと身を起こしてその姿を露わにする。
男は一瞬警戒して左足を1歩下げ、右手のナイフを軽く前に突き出す。左手用のナイフは右腰に差したままだ。
「おぉ、立ち向かうのかい? そんな女の子は初めてだな。もしかして武道とか護身術に心得がある感じか? 言っておくけど、俺そんな弱くないからね。そういう奴は何人も殺ってヤッてきてんだ」
この男の言っていることは強がりや脅しではなく事実である。この路地を狩場とする前は、国外のとある街の裏社会で名を馳せていた。今まで犯した窃盗や強姦の件数は数知れず、事件として取り扱われているだけで6件の強盗殺人を起こし、国際警察から重犯罪者として指名手配を受けている。犯罪に手を染めること、人を殺すことに躊躇のない倫理観に欠けた悪魔である。その右手に持つナイフには、乾いた血糊がかすれて付着している。
側面から淡くライトアップされた男の顔を対面して見てみることで、女は男の実力を悟ったようである。過去の犯罪歴は知るよしもないだろうが、女にとって男の実力は誤算であったようだ。
「た、助けて、やめてください。お金は差し上げますから、やめてください!」
女が恐怖に震えた声で求める。そのまま数歩だけ後ずさり、背中とお尻を行き止まりの冷たいコンクリートの壁に密着させる。女は震えたままその場を動かなくなる。その姿を見た男は口角を耳まで引っ張るかのように最大限に持ち上げて嗤う。女が後ろに下がった分だけ、男が前に歩み寄る。2人の距離は未だ7メートルほどだ。
「ヒッヒッ! いいよお、その声! 残念だけど、俺はお腹を空かせたアリジゴクなの。ここに落ちてきた蟻ん子を食べずに帰してあげるわけないじゃん。あーいやいや、よっぽど抵抗しない限り喰い殺しはしないから、アリジゴクより優しいよ? ほら、優しいお兄さんにお金もその身体も、全部委ねてよ」
「ひいっ、いやです!」
男は一歩進む。
「ハハヒッ! そんなふうに嫌々といいつつも、楽しいことを期待してるから立ち上がったんじゃないのお? ほらほら、自分の本能に従って行動しようよ、お姉さん。そうだ、お姉さん名前なんて言うの? 俺、クローブっていうんだよね。よろしくう」
「言いません!」
男はさらに一歩進む。二人の距離は6メートルともう少し。
「ゲッヒッヒッ! まあ名前なんてどうでもいいんだ。こんだけ暗いと顔もどうでもいいんだよ。用があるのはあんたの身体と財布だけなんだ。俺って無欲でしょ? いい男でしょ?」
クローブと名乗った男はすり足で数センチずつにじみ寄る。近づくたびに女が恐怖の短い叫びをあげるのを楽しみにしているようだ。この路地の入り組んだコンクリートの壁は、外の大通りには叫び声を届かせない。トスタの中央街に平然と潜む、最悪のトラップだった。
二人の距離は5メートル。
発泡スチロール片をギチギチと踏み砕く音に合わせて、悲鳴と嗤い声が響く。
二人の距離は4メートル。
「……わ、分かりました。乱暴しないでください。命だけは助けてください!」
女はとうとう折れてしまった。命乞いしながら、震える手で上着とシャツを脱ぎ始めた。男は喜色に富んだ声で笑う。何人もの女性を手にかけてきた男としても、こう従順な行動を取る女は初めてだった。歩みを止め、左手のリングフォンの光を女の身体に向けてその光景を楽しもうとする。
「ヒヒッ! こりゃあいいねぇ。……ん、なんだそりゃ?」
女がよりかかっていた壁に、膝の高さほどの長方形の物体が立てかけてあるのに男は気がついた。男にはそれが何なのかを同定する知識がない。
脱いだ上着を地面に置く素振りを見せて、女はその四角い物体に手を伸ばす。その一挙手一投足に男は注視していた。
人がビルを敷き詰めて作り上げた暗闇の谷に、光が吠えた。四角い物体は、一瞬にして男の視界を白く染め上げた。男は反射的に目を閉じたが、その光はまぶたの裏まで追いかけてきた。あまりの眩しさに、脳の中を乱反射する光が耳や口から飛び出るかと錯覚するほどだった。
◆ ◆ レティナ視点 ◆ ◆
「っがああ? あああ!?」
男が身体を激しく動かして悶え苦しんでいる。
はあ、まったく。くだらない演技させやがって。
今、私が起動させたのは夜間の工事現場などで使われる大光量の携帯式灯光器だ。最大照度なら数万ルーメンの光を照射できる。光を拡散して減光するディフューザを通常では装着することになっているけれど、それは取り外していた。
先ほどまでの実験の一環で、視力がどの程度良くなっているのかを測る指標として、単純に小さなものがどれだけ見えるのかという評価だけではなく、どの程度の光量まで耐えられるのかを評価することにした。そのために、この灯光器を中央街にあるホームセンターで買ってきたのだ。
明るすぎて公園のような開けた場所では使えないし、家で使ってもカーテンの隙間から光線が飛び出して近所から怪しまれる。だからこそ、わざわざこんな入り込んだ裏路地を実験場所にするために私はここに入ってしまったのである。早く試してみたい好奇心に負けて、治安の良くない場所を選んでしまったことは失敗だった。
ちなみにその実験の結果、晴天の真夏の正午の太陽光並みの明かりを灯すこの灯光器を直視しても、この右眼にはまったく異常を感じなかった。眩しいとは感じるけれど、眼の痛みを感じることはない。すぐさま高照度の光に順応し、HDR(ハイダイナミックレンジ)写真のように明るいところから暗いところまでしっかりと認識することができる。もちろん、左目は普通の目なので、瞳が焼き付かないようにしっかりとまぶたを閉じて上から手で覆い隠して実験していた。
暗い中でいきなりこの光線を網膜に受ければおそらく一時的な失明に陥るんじゃないのかな。さよなら、クローブさんとやらの視力。
「ああっ! 目が痛っ、見えねえ、ぐうううう!」
男は左手で両目を覆い、右手のナイフを上下左右に乱暴に振り回している。このままでは無傷で横を通り抜けるのは難しそうだ。
仕方ないか。ちょっと体力使うけど考えていた強行策を採りますか。
私は、落ちていた板材の中で上半身を隠すような大きさの面積のものを持ち上げる。軽くて薄いベニヤ合板で、普通のナイフなら垂直に当てて体重をかけて突き刺さない限り貫通しないだろう。丈夫で重いものだと、私の筋力では保持できないからこれがちょうど良い。
そのまま、ついでに購入していた作業手袋に包まれた手で板材の両端をホールドし、盾として抱え持った。常人なら正面が見えなくなるけれど、私ならこの盾越しに透視できる。相手の様子を観察しながら、下品な悪魔に走り込んでいった。
「ああ、クソ、目が、何も見え―っぶしへ!」
男の重心をずらすことを意識して胴体部分から突き上げるように板材ごとタックルした。非力な女の力といえども、目を潰されて気が動転した状態で不意に体当たりされたら、鍛えられた男でも倒れるのは仕方がない。
この眼の優れた動体視力はナイフの動きをまるでスローモーションのように追うことが可能だ。そのため、男が刃先を私の方に向けていないときにタックルのインパクトをぶつけることができた。板材に破損はない。男は板材と私の身体の下敷きになった。
よし、隙ができた。別にこの男と殺し合いをする必要はない。相手の目が光で焼き付いて潰れているとはいえ、体力と筋力で圧倒的に劣る私が返り討ちに遭う危険が高い。相手がひるんでいる間に素早く逃げ帰ろう。逃げるが勝ちだ。
そのまま起き上がり、私は大通りへの道へ駆け出そうとしたけれど、私の中の怒りが脚を止める。下品なセリフを吐きやがって。恥ずかしい演技させやがって。そう考えると、全身の血が怒りで沸々とわいてくる感覚を覚える。
ちょうど、男のほう見ると板材の隙間から坊主頭を這い出して転がって悶えている。タックルで倒されたときに持っていたナイフで自分の右太ももを切って立てなくなってしまったようだ。このままなら、もし男の目が無事でもすぐには追って来られないはず。その無様な様子を見ても、私の腹の虫は収まらない。
足元に一辺が5センチほどの角々しい小さな石があるのに気づいた。エアコンの室外機の台に使われていたコンクリートブロックの破片だろう。それを右手で持ち上げると、ずっしりと重量が感じられる。1キログラム弱はありそうだ。
手に持った石を男の顔めがけて下投げでゆるい放物線を描くように投げつけた。男のアゴのあたりに石はぶつかり、ゴッと鈍い音を立てた。暴れていた男は「ぴゅう」と可愛らしい声を出して手足の力を脱力した。意識を失ったようだ。
そのとき、気を失って首を横に向けた男の裏首筋に、炎のマークの刺青があることに気づいた。あのマーク、どこかで見たような気がするけれど……?
とにかく、マークのことはすぐに忘れて、ため息を深くつく。今日はもう疲れた。中央街からだとトスタ東部にある自宅はすぐ近くだから歩いて帰ろう。
ナイフを投げられた時に備え、絡め取って防御できるように事前に脱いでおいたシャツと上着を軽くはたき、ゴミや泥を落として着直す。あまり計算には入れていなかったけれど、シャツを脱ぐことで相手のスケベ心を煽情し灯光器に目を向けさせることができたのは僥倖だった。
手荷物の入った私のバッグは、男が通路に入ってきた時点で3つ目の角を曲がるところに放置していた。バッグを手に持ったり肩に担いだりしたまま奴と対峙するのは邪魔になると判断し、事前に隠しておいたのだ。自分で言って悲しくなるけれど、古いバッグなので男にはゴミに見えただろう。
充電の切れかけた灯光器がチカチカと光る暗い裏路地から、数百数千の街灯できらめく明るい大通りに向かった。
作業手袋をつけていたので、灯光器に指紋は残っていないはず。警察が来ても私にはそう簡単に結びつかないだろう。残した灯光器の購入歴などで足がついたとしても、そもそも私は正当防衛だから罪に問われないはずだ。奴とのやりとりはリングフォンで録画録音しているからその証拠もある。
「予想通り、上手く事が運べたね。ふふーん」
よし、悪魔退治完了だ。
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