第002話 見えないものはない
◆ ◆ レティナ視点 ◆ ◆
「あうっ!」
右眼を手のひらで押さえて上体を起こす。かっと開いた左目を上下左右にギョロギョロと動かし、辺りを確認する。白を基調とした部屋、ベッド、カーテン……。湿布薬のようなツンと鼻の奥にくる匂い、右手に包帯、全身に脂汗……。
胃が指先程度の大きさまで収縮するような感覚にさいなまれて、吐き気がこみ上げる。それに伴い、右眼を押さえる力が一層強くなる。
「おおっと、びっくりした。よかった、気がついたかい? ええと、お呼びするお名前はレティナさんで良いですかな?」
ベッドから身を起こした私に向かって不意に声がかかる。
「おや、頭がまだ痛むかい? 顔面を擦りむいていたから、ここでできる限りの処置は施しておいたよ。夜には医務室を締めてしまうから、そろそろ大学病院に連絡するところだったよ」
ピンとシワが伸びた白衣を着た60代くらいの男性が回転椅子に座って、身体をこちらに向けながら軽い口調に丁寧語を混ぜて話しかけてくる。そうか、ここは。
「いつもお世話になっています。レティナです。ええと、ここ、理学部棟の医務室、ですよね?」
トスタ大学には、主要な研究棟には医務室が設置されている。医師や薬剤師が雇われて朝8時から20時まで駐在しており、大学関係者であれば無料で利用できる。企業からの莫大な寄付金をもとにして運営されており、小規模のクリニック顔負けの病床と設備が用意されている。少し前にも、研究室で徹夜した明けの朝に体調を崩してしまってお世話になった経験がある。ここの医師先生とも顔馴染みだ。
「そう。30分ほど前にラグビー部の学生さんたちがレティナさんを担架に乗せて運んできてね。『中庭で気を失っている人がいる!』って慌てて駆け込んで来たんだ。ラグビー部でそういうケガ人には慣れているとはいえ、先に救急に連絡するか医務室の人間に知らせてくれと叱ったんだけどねぇ……」
「あぁ、はは。そうなのですか。いえ、連れてきてくれて助かりました。ラグビー部の人たちには感謝しないと。先生も手当てありがとうございます」
「いえいえ、これが仕事だからね。ええと、とりあえず意識ははっきりしているようだね。右眼を押さえているようだけど、頭痛はない? 一応、一筆書いておくから、何かあったら大学病院でこちらの書類を提出して診てもらってね。必要と思われる検査は済ませたけど、より精密な検査はそちらに行ってもらうことになるから。それと、持っていた手荷物はあちらの机に置いてるよ」
頭痛はない。けれども、押さえている右眼の奥が熱を帯びて、ドクドクと血流が波打つのを感じる。倒れた瞬間の記憶はほとんどない。ただ、私が拾ったあの透明の球体の行方に関して、悪い予感をひしひしと感じる。まさか……。
「あの、先生。私の意識がないときに右眼を診ましたか?」
そう言って右手を下ろし、閉じていた右のまぶたをゆっくりと開く。まぶたを開けるにしたがって、光が差し込む。
「んん、そうだね、無意識にずっと押さえていたから痛むのかなと思ったけど、右側の頬骨あたりの擦り傷以外には特に外傷は……」
私のまぶたの隙間を通った光が視細胞で電気信号へと置き換わり、医師の先生が話している言葉を遮って、私の脳へと激しく伝わる。
「うっ⁉」
「ハっ……、レティナさん⁉」
悪い予感というのは、あの球体が眼球を潰して失明してしまっていたらどうしよう、というものだった。現実は、その予想を何段階も超えていた。
まぶたを開いた瞬間に、まばゆい光を認識した。認識できた。何も見えないのではないかという恐れを抱いていた上での精神的な落差から、やけに明るく感じた。その光にはすぐに順応し、右眼を通して脳に情報が入り込んだ。
情報量が異常だった。
医師の先生の白髪の頭髪。顔面のシワ。焦点を合わせたあらゆるものが明瞭に見える異常な視力。ぐるりと周りを見渡しても、見えないと思えるものがない。10メートルは離れた壁にかかったカレンダーに書かれている数ミリ四方の文字もはっきり認識できる。
何度か瞬きをすると、サーモグラフィのように視界内の物体の温度が赤や青や黄色のグラデーションで表示される。先生の身体が暖かそうに赤白く光っており、机に置かれている氷水が入ったコップはいかにも冷たいと言わんばかりに青く輝いている。
また、よく目を凝らすと、先生の身体の後ろに隠れた本棚がぼんやりと見える。さらに意識して注視すると、机や本棚や壁をも透過して、廊下やその先の太陽が沈んだ空までもが見通せる。
何が起きている?
私はまさにこの眼を疑った。先生の掛け声に耳を傾けようとするが、どうしても視界に映る情報の洪水から逃れられない。眼を離せない。文字や色や形がひしめき合って脳に迫ってくる。
なんだ、この眼は?
「ああ、いえ……、何もないです、先生。急に叫んで、申し訳ありません」
この身に起きている状況に混乱する。理解の範疇を超えることを、目の前の医者に相談するか決めかねる。
何だ、何が起きている?
あの球体が何か私の身体に影響して……?
頭を打った衝撃?
視力が急上昇するという報告は今までにあったか?
いや、視力の上昇は眼球の筋肉や水晶体などの物理的な変化で説明が付くかもしれないけれど、サーモグラフィや透視は……?
これは夢?
いつから夢?
でも、この息苦しさや鼓動の激しさには現実感がある。何が起きている?
あの球体が何か私の身体に影響して……?
倒れたときに頭を強打したから?
待って、待て、考えが堂々巡りしている。頭の中を雑多な思念が渦巻く。
「……大丈夫かな? だいぶ汗かいているよ」
「ああ、えっと……。先生に面倒をかけるのも悪いですから、大学病院のほうを訪ねますよ」
「うーん心配だけど、レティナさんがそう言われるのだったら……。お大事に」
この部屋は適切に冷房が効いているようだけれど、汗で湿ったシャツがひたひたと肌に貼り付く。今日はあまり整えていなかった癖毛は、汗の湿気を吸ってより一層ぐるりぐるりとカールしている。先生が取り外しておいてくれていた私の首掛けタイプの身分証を手にして、バッグに受け取った書類を手早く詰め込んで医務室を後にする。
わけが、わからない。思考を、まとめなければ……。
リングフォンにアプリの通知が来ていたので確かめてみると、指定時間以内にタクシーに乗車しなかったので自動キャンセルされました、と連絡がきていた。キャンセル料がかかってしまったけれど、仕方ない。気を失っている間に脚が大分回復したようだ。この眼について試してみたいことがあるから、今日は中央街に寄って歩いて帰ろう。
理学部の研究棟から外に出ると、太陽のいない空がさらに暗さを湛えていた。
◆ ◆ 第三者視点 ◆ ◆
トスタの中央街はトスタ市最大の繁華街である。
トスタ大学をはじめ種々の専門大学校が並ぶ南部の学研地区、シンワダチ社といった国内屈指の大企業の本社とその関連企業がひしめく北部のオフィス地区、古城のある森林公園や大時計塔、近代美術館や大規模テーマパークなどの新旧の建造物が入り乱れる西部の観光地区、そして東部の住宅地区。
大きく分けてこれら4地区で構成されるのがトスタ市であり、その中心に位置するのがトスタ中央街である。
学研地区からの学生やオフィス地区からの社会人らが平日の昼に大挙して押し寄せ、中央街の飲食店は常に賑わっている。国際空港を有する隣のトーラス市からすぐの特急停車駅があるゆえに、休日は観光客で溢れ、よく整備された広い大通りですらスムーズに歩けなくなる。駅前の広場では、若い人たちが音楽のパフォーマンスを披露しており、観光客や通行人はちらほらと足を止めて見入ったり写真を撮ったりしている。
色とりどりの空間投影ディスプレイによる広告や店頭の看板が、昼間でも目を眩ますような光を放っている。トスタ中央街は、常に動き続ける街である。
平日の夜は、多くの人の往来でざわめいている。陽は落ちているが、街灯と看板と行き交う無人自動車のライトのおかげで大通りは明るい。しかし、トスタ中央街の明るさは、その影をより暗くする。
賑わう街中に似合わず、世間的には地味な容姿と形容されうる、黒髪でくるくるとした癖毛が肩まで伸びた女性がいた。彼女は独りでビルに挟まれた漆黒の路地奥に入り込んでいた。
「この右眼、便利すぎるんじゃない?」
その彼女、レティナは独り言をつぶやいた。ビルの狭い裏路地にその声が反響し、天からわずかにのぞく空に向かって響き昇っていく。
レティナが右眼の異常事態に対して最初に取った行動は、なんでも見えるこの右眼で何ができるのか実験することであった。レティナは自身が研究に携わる者として未熟であると自己認識している。しかし、その端くれとして、様々な方面から能力を行使し、その性能を探求し続けた。
「異常な視力といっても、電子顕微鏡みたいに分子スケールで物を見るのは難しい。分解能は詳しく調べてみないとわからないけど、個々の細胞を認識できる程度だ」
大学の研究室で抱えている素粒子スケールの観測が必要な実験に活用できるかもしれないという考えで視力の限界性能を試したが、彼女が期待するほどではなかった。
通常、1個だけの細胞のようにマクロな物質を撮像するには、ごく浅い被写界深度(ピントが合う領域が狭い状態)が必要になる。それを達成するには、長い焦点距離、大きなレンズ口径、被写体との適切な距離などが求められるが、眼球程度のサイズのレンズで光学的にそれを実現することは不可能である。
さらに、学術参考書で見るような細胞画像は、固定や染色等の適切な前処理を施すことでようやく観察できるものである。生体の内部で活動している細胞を可視光のもと肉眼で観察することなど不可能だ。
単に透視しているだけでなく、生体細胞に関する知識を複合させて脳が勝手に映像を見せているのではないかとレティナは仮説を立てた。この異常事態に対する検証のプランが次々と頭に浮かび、レティナの頭の中はそれを整理することに満たされていた。
「サーモグラフィの能力は、単純に赤外線や紫外線あたりの波長の光を認識できるというだけかな。私の普通の目と脳には可視光以外の波長を処理する能力がない。私の知識にあるサーモグラフィのようなカラーグラデーションで赤外線と紫外線が示す色を脳が勝手に色付けして認識しているのかもしれない」
熱輻射(物質から放たれる電磁波)を眼で見ることができることが何に役立つだろうか、と先ほどまで彼女は考えていたが、夜が深くなってその便利さに気づいた。街灯の届かない裏路地でも夜眼が効く。すなわち、暗視能力だ。
「透視能力をどうやって実現できているのかがまったく予想がつかないなぁ。物体を透過する放射線を認識しているのかな? グッと眉に力を入れて、焦点を遠くにあわせて透視したい対象物を意識すると、対象物の前方にある障害物が半透明になって透視ができる」
このように、レティナは考察した内容を口に出して整理していた。
「うーん、今のところはこんなものかな。集中して使い続けると、右眼の奥がジンジンと疼いてくる。無制限に使える能力ではなさそうだから、使い過ぎは禁物かもしれない」
1時間と少しをかけて、彼女は超視力・暗視能力・透視能力の現在の限界を把握していた。そして、彼女は超常的な特殊能力を得た多幸感に浸るとともに恐怖感を覚えていた。
「倒れた時はどうなることかと思ったけど、すごい力を手に入れちゃった。でも、こういう超常現象的な力を手に入れると、後から悪魔みたいな存在が交換条件として魂とかの対価を求めに来るのが昔ながらの創作のセオリーだよね……」
この国で普通に現代の教育を受けてきた人は、働くことなしに報酬を与えられることに引け目を感じる道徳心を備えている。彼女も一般的な道徳心をもつ人間の1人であり、急に異能力を手に入れた彼女は根拠のない不安感を覚えていた。
そんな不安感を契機として、ふと彼女は透視能力を行使して、周囲を見渡した。
暗視能力を試すために、街灯の届かないジメジメとした雑居ビルの隙間に入り込みすぎた。今、彼女が立っている地点がこの裏路地の行き止まりである。非常に視力が良くなったにもかかわらず、好奇心で周囲が見えなくなって妙なところに入り込んでしまった。
ビルを貫通して直線距離20メートルほど離れたところがこの路地の唯一の入口で、大通りの明かりがそこから入り込んでいる。大通りに出るためには角を3回曲がり、室外機などを避けながら途中で人ひとりがやっと通れる隙間を抜けなければいけない。裏路地自体の長さは延べて30メートルはあるだろう。
レティナの透視する眼には、この裏路地に1人のスキンヘッドの男が入り込んでくるのが映った。
両手をズボンのポケットに突っ込み、背中を曲げて気だるそうに歩いてくる。チンピラという表現がしっくりくる男だ。歩くたびに足元に落ちているゴミを蹴り散らし、ビルの壁に書かれた落書きを異様にギョロギョロと睨みつけている。
「え? なにあのチンピラ。この路地、別に何もないよね……」
この路地はトスタ中央街で乱立する小規模なビル群が産んだ偶然の産物であり、一般人が求めるものはこの空間にはない。
レティナはさらに透視能力を利用し、男の所持物を細かく覗く。刃渡り25センチほどのかなり長いナイフが2本、革製の鞘に収められて腰の左右に装備されている。すなわち、彼女がこの袋小路を出るには、ナイフを持った男と対峙しなければならない。
「うーん、早速悪魔がやって来ちゃったってわけ? 悪魔ってもっとカッコイイ存在だと思ったんだけど」
髪がクルクル細かくカールした頭を掻きむしりながら、レティナはため息をついた。
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