第1章 何でも屋

第001話 反転する世界

◆ ◆ レティナ視点 ◆ ◆


 2120年6月21日金曜日。


 100年前から20年ほど前まで、人類の科学技術はそれほど進展しなかった。

 たとえば、100年前に夢想されていた宇宙空間への軌道エレベータは数年前にようやく某国でプロトタイプの建設が始まったらしく、依然として宇宙へ行くコストは高いままだ。

 もっと日常に近い例を挙げると、自動運転に関しては大手自動車企業間での業界標準の策定における不和や標識等のインフラ整備の遅延により、主要な道路でしか利用できない。

 空飛ぶクルマもなければ、コールドスリープやタイムマシンや四次元ポケットもない。これが2120年の現状である。


 とはいえ、私達が住む国は技術先進国に位置づけられていて、インフラに強いことを売りにしている。山奥の道路や私道でなければ自動運転くらいは実現できている。

 実際に、私は平日に毎日通わなければならないトスタ大学への往来にはマイカーによる自動運転を活用させてもらっている。

 トスタ大学はトスタ市学研地区の中心に位置している。昔から土地を広く確保していて駐車場が広いので、学生も多くがマイカー通学だ。


 起伏が激しいトスタの地で自動運転車は大変ありがたい。けれど、運転席に座って常に手動運転操作に切り替えられる状態でなければ自動運転を利用できないのは面倒くさい。運転席に座る人は、自動運転であっても居眠りしてはいけないし、もちろんアルコールを摂ってはいけない。自動運転にも段階があって、完全に車任せにしてよいのは一部の幹線道路だけだ。


 今日は残念なことに、車のソフトウェア更新と整備のためにマイカーを車検工場に預けてしまっている。1日だけとはいえ、私の愛車を奪うとはまったくもって酷い。年に1回の車検も法律で決まっている。代車を手配したり整備の日程を変更したりすることはできるのだけれど、今週の週末にはどうしてもマイカーによる足が必要だったので、平日である今日に整備に行かせることにした。

 マイカーは無くとも、トスタ市には自動運転無人タクシーが街中に配備されている。アプリ経由で申請すれば数分で目の前まで自動でタクシーがやってくる。それに乗り込めば、申請したときに入力した目的地に自動で運んでくれる。ちなみに、無人タクシーは自動運転管理の責任が自動車会社とタクシー会社にあり、運転席に座る必要がないからとても楽だ。値は張るけれどね。


 ともかく、今朝は急いでいたので、ボサボサの癖毛を整えることもせずにタクシーに飛び乗った。

 さて、帰りはどうしよう。早くに大学の講義が終わったので、まだ外が明るいうちに帰れそうだ。今日は予定している実験もないので、研究室には教授に顔を見せるだけで良い。タクシーで帰ろうかな、という思考に傾きながら、ふと自分の細い脚を見る。


 自動運転車に座って家と大学を往復し、大学では講義室か実験室で常に座り、家ではベッドに横たわっている生活をもう数年間送っている。歩いて動く時間は1日で1時間にも満たないのではないだろうか。研究に没頭する以外の趣味はなく、身体を動かす機会もない。22歳のか弱い女性のこの身体は、華奢で頼りない。最近は偏食が酷いので、いずれ体調を崩すのは目に見えている。

 程よく筋肉が付いて引き締まった姿には憧れるけれど、熱しやすく冷めやすい性格だから筋力トレーニングは、きっと長続きしない。せめて最小限の体力は付けるべく、せっかく確保できた時間を活用して今日ぐらいはウォーキングで家に帰ろうと決心した。

 数十分後、その決心に後悔することになるとはつゆほども知らず。


◆ ◆


「フーッ、スゥー……、フーッ、スゥー……」


 我ながらこの体力の無さには脱帽するばかりだ。スポーツが不得意なわけではなく、周りの人から普通かちょっと運動オンチと言われる程度には身体を動かすことはできる。ただ、その動きが持続しない。


 大学から自宅まで地図アプリ上の情報で5キロメートルほど離れている。これは大学の中心点を起点とした距離だ。私が通う研究棟は自宅から見て大学敷地内で遠方に位置する。広い構内の移動を考えて、2キロメートルくらいを余分に見込まないといけない。私は大学構内からも未だに脱出できていないまま体力が尽きかけているのだ。

 トスタ大学の中も起伏に富むため、歩行者用の通路は坂や階段が多く入り交じっている。運動のためだからと太ももをしっかり上げながら歩こう、なんて馬鹿な考えをするんじゃなかった。既に脚全体の筋肉と関節がミチミチとギリギリと悲鳴を上げ始めている。今の私の命は、右手が握りしめている階段の手すりに預けられていると言っても過言ではない。


 数十分前のあの決心を後悔している。やっぱり、帰りもタクシーを使おう。いつも利用している格安のタクシー会社は大学構内への入場が認可されておらず、少なくとも門から出て公道まで歩く必要がある。

 もう限界だよ。さっきの決心はなかったことにしておこう。今日は門まで歩くだけで勘弁してほしい。


 そんなことを考えながら、左手中指に着けている指輪に付いている物理ボタンを親指でカチリと押す。そうすることで、手の上に直径8センチほどの円形の画面が音も立てずに浮かび上がる。


 100年前から20年前まで目ぼしい科学技術の発展はなかったけれど、この空間に映像を投影する技術は少ない成功例の1つだ。正式名称は非常に長く、一般に空間投影ディスプレイと呼ばれているこの技術は、任意の空間に任意の大きさで、解像度と色再現性が高く画面を表示させることができる。

 素早い応答が求められるゲームでもしない限り認知できないような表示の遅延はあるものの、設置に物理的な制約が少ないのが最大の利点だ。そのため、都会の街中の広告、掲示物、標識などの常に電力を確保できる媒体は、目覚ましい勢いで空間投影ディスプレイに切り替わってしまった。40年ほど前から一部の大学では講義室や講堂での映像投影に利用されており、今の私の世代にとってはもはや当たり前の技術である。トスタ大学の記念講堂にも大きな空間投影ディスプレイが搭載されている。


 空間投影ディスプレイは液晶や有機ELと比べて大きな電力を必要とするため、この技術は17年前まで一般家庭に導入されることはなかった。20年前に発見された革新的科学技術を元にして電力効率化と超大容量バッテリーの開発が進み、シンワダチというトスタ市に本社と研究所を置く会社が小型空間投影ディスプレイ装置と組み合わせて超小型デバイスの開発に成功した。その結果として、このリングフォンが産まれたのである。


 リングフォンは100年以上前に生まれたスマートフォンをようやく過去のものとした大発明である。

 チップの省電力化とバッテリーの小型化が進むことでスマートフォンは軽量化が可能となったが、情報を表示するディスプレイには物理的な制約がある。そのため、極端な小型化や大型化は達成できていなかった。

 空間投影ディスプレイの登場により情報を表示する領域の制限が実質的になくなったため、わずか直径数センチかつ重量数十グラムの指輪形状の情報端末というブレイクスルーが生まれた。指輪型のデバイスは何十年も前からあったけれど、ようやくスマートフォンの機能を完全に代替するものとなったのである。

 発売当初は、空中に浮かぶ画面の操作性は良いものではなかった。現在では視線トラッキングと手のモーショントラッキングの組み合わせがかなり洗練されており、直感的に操作できる。最新の空間投影ディスプレイでは画面の視野角を厳密にコントロールできるので、周囲の人間に画面の覗き見をさせないことも可能だ。


 リングフォンに搭載されているAIは、私の活動量やアプリの利用歴、位置情報等から私がタクシーを欲しがっていることを既に判断してくれていたようで、画面が開いたときにはタクシーの呼び出しアプリがすでに起動されていた。

 さっそく配車位置を申請する。わずか5秒で片手だけで無人タクシーを手配できた。このまま大学の門まで歩いていけば、待つことなく乗り込めるだろう。


―トスン


 ふと、普段は単なる景観の一部だとして気に留めない花壇に目が止まった。今はもう夏に差し掛かる季節で、その花壇には黄色や白の花が密にきれいに咲いている。昨日に降った雨の粒が花弁や葉になみなみと蓄えられており、日差しを反射している。花については深く知らないので名前は分からない。ただ、よく手入れされていて綺麗だと純粋に感じた。


 私は、その花々に目を奪われたわけじゃない。その花壇に何かが落ちた音が聞こえたから、注意を向けたのだ。よくよく目を凝らして見てみると、花壇の奥で、雨粒ではない何かに光が反射して、眩しく光っているような……?


◆ ◆ 第三者視点 ◆ ◆


 モクモクと高く積もった雲で灰色に曇りがかった夕暮れの空の切れ目から、うすオレンジ色の太陽光線が差し込んでいる。それは花壇全体を照らして花々を色彩豊かに際立たせている。花と茎の隙間をくぐり抜けて、一筋の光が花壇の茶色い土の上を照らす。正確には土の上にある透明の物体を照らしている。透明の物体から反射された光は、癖のついた黒髪の若い女の目に輝かしく届いた。


 好奇心旺盛な彼女は脚の疲れを忘れ、伸ばした右腕を花壇に差し込んで分け入り、左手と右膝を地に着けながら身体を伏せ伸ばした。手や服が汚れることは気にしていないようだ。さらに右手を花壇に突き刺していく。彼女の心を引き寄せたそれを右手に包み込み、身体を引き起こして対象を確認する。


「ん……、これは、ガラス玉?」


 彼女の右手には非常に透明度の高い直径2、3センチほどの球体が握られていた。


「プラスチック、にしては透明度が高いね。ガラスかな?」


 親指と人差し指で謎の球体をググッと挟み込んで圧迫したり、折り曲げた中指の関節でコツコツ叩いたりしてみる。強い力を加えても一切変形しない。

 その球体を通して見える世界を見てみようと、親指と人差し指で挟んだそれを右目のすぐ前に引き寄せた。左目を閉じると、彼女の視野は球体の中を屈折して右目に入っていく景色だけしか捉えない。


「おお、まさにレンズ! 世界が逆さまになっている」


 傍から見ればただの透明の球体であるが、彼女は思いがけず面白いものを拾ったと、ついついその球体に魅了されてしまう。


 ただ、好奇心に負けて忘れていたようだ。自分の身体を酷使していたことを。

 彼女は片目だけを開けて上半身をうねうねと動かし、反転した世界の風景を楽しんでいた。

太陽を直視しないように空を見れば、オレンジ色と灰色の雲が視界いっぱいに広がる。正面を見れば、歪曲した大学の研究棟が空から垂れ下がったように見える。

 上、下、左、右、さまざまな角度を探っていると、平衡感覚が優れているとは言えない彼女は自らの重心の位置を見失ってしまった。当然、大きく上体がブレて右前方へと倒れそうになった。最後の抵抗として、なんとかバランスを保とうと左脚を高く上げた。


 彼女の右脚一本には、既に彼女の体重を支える力が残されていなかった。

 そのまま、右前方に大きく体勢を崩してしまう。満足に受け身も取れないまま、彼女の顔面は地面に近づく。

 レティナ=ホイールの生来の右目が捉えた最後の光は、上下左右が反転したコンクリートの地面であった。

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