第56話

『声』はしばらくためらいを秘めた後にそう答えを返す。

窓の外の“彼”は知っているのだ。俺が取り乱すその理由を。

「多分、娘逹は消されて居るだろうが、…協力者の件、他に知れたか」

「妓女については調べは早いでしょう。遅かれ早かれ襲撃の件が親王殿下のお耳に入れば」

「…そうか」

「しかし、事が後宮に及べば宮女の内偵は慎重にされる筈。証拠が消えていれば時は稼げます。我々もこの『件』が知れぬよう動きます」

「ラスティ」

俺は思わず“彼”の名を呼ぶ。

「若様」

どうしてここであの女の名が出てくるのか。些細な小競り合い、その『名』さえ聞かされなければいずれおさまる筈の事件。

しかし、不意に現れ出たのは鎌首をもたげ、花園を窺(うかが)う、美しいけれど死毒を身に秘める蛇。

その名を聞いただけで。俺の平静さなどあっけなく崩れる。

主の前で影として居る限りは決して見せてはいけない、もう一人の『俺』。窓を開けようとした手がぶるぶると震え、窓ガラスをガタガタと鳴らす。

「若様っ」

大きな窓の扉が引かれ、中に滑り込むように入って来る男。

黒髪、短髪のラスティは俺より五つ上。今年で三十一になる。彼は俺の肩を掴むと少し強くゆさぶる。

「イグナシオ様っ!」

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