雪月風花

 橡は目を開けた。もう見ることがないだろうと思っていた青空が広がっている。

「ここは…」

呟いた瞬間に誰かの顔がヌッと目の前に現れ、橡は小さく悲鳴をあげた。顔の持ち主は不満げに、わずかに眉を顰める。

「なぜ悲鳴をあげる…今は何も聞かないから、さっさと紫苑に謝っとけ。お前が黄泉国へ行って一番心配したのは、あれだぞ。」

橡はほっとして頷いた。月読命になぜわざわざ死のうとしたのか、などと聞かれると今は大変だからだ。もちろん、自分がいかに悪いかということは身に染みて知っている。

「はい。ところで、紫苑さんはどこにいるのですか?」

「隣だ。」

質問した瞬間、隣から聞こえてきた声に、橡は再び悲鳴をあげそうになった。今度はぎりぎり堪える。

「えっと…いろいろとご迷惑をかけて、申し訳ありません。神楽舞の動きを、一緒に考えてください。私の視点だけではない視点が欲しいです。」

紫苑はふっと笑った。橡の瞳が、怒らないでほしいと言っているのがわかる。

「あぁ。ま、武術以外の動きはよくわかんないから、動きの滑らかさとか繋ぎとかだけなら。それと、橡は腰が低すぎると思う。もう少し腰が高くてもいいんだよ?」

橡は首を傾げた。腰が低いという自覚は、橡にはなかった。これまではそれが普通だった上に、そのことわざを知らなかった。

「?腰が低いですか?」

聞き返し、立ってから背伸びをして腰を高い位置に置こうとする橡に、思わず紫苑は吹き出した。少し落ち着いてから説明を試みる。

「なんでそうなんだよ…そうじゃなくて、えっと…もう少し、わがままを言えというか、そんなに丁寧じゃなくてもいいというか。」

橡は座り直して首を傾げた。いろいろと今の彼女には難しすぎるのだ。

(えっと…わがままを言う、ですか?丁寧ですか、私。何をすればいいんでしょう?)

理解不能、という顔で考え続ける橡に、紫苑はまぁ、と声をかけた。何も言わなければ、おそらくいつまでも考え続けるだろう。

「とりあえず今はいいや。神楽舞を考えるんだろ?行こうぜ、山に。」

その声に、橡は思考の海から戻った。そして紫苑の瞳を見て微笑んで頷いた。

「はい。」

小さな花が咲いた瞬間だった。紫苑は思わず顔を背けた。月読命が手で口を隠して視線を逸らしたのは、当然のことだろう。橡はどうしたのか、と首を傾げて二人を交互に見た。

 橡は狩衣を着ていた。髪は結わずに降ろしてある。すっと壇上に上がり、中央部に座る。すっと息を吸い込んだ。

「…、…」

凛とした声が祝詞を唱える。そして抜刀。構える。銀の刀身が月光を鈍く反射した。

「この頃の 月の光は 穢されて 神の力も 闇に寄せられ」

だん、と強く踏み込む。刀が空を閃く。舞う、というよりは、剣舞に近いその舞は、それでも美しかった。

「妖を 祓う定めに 生まれた子 妖は父 苦悩の月夜」

低く、低く体を下げ、切り払うように一閃。高く跳んで、また一閃。

「妖を 祓えど妖気 消えぬまま 清めよ歌え 命を賭して」

動きをとめ、刀を落とす。しかし舞は続く。ゆらり、ゆらりと揺れる。いつの間にか扇を持っていた。

「その命 惜しいと想い 黄泉国 迎えは男子 強き心根」

扇を開き、すいっと滑らかに動く。視線は常に月に置かれていた。

「白雲に 羽うち交わし 飛ぶ雁の 数さえ見ゆる 秋の夜の月」

扇をしまって刀を取り、再び一閃、二閃。チン、と納刀した。神聖な空気が流れる。橡は深く礼をして、壇から降りた。

 「やっぱりこの歌を選んで正解だったな、橡!」

部屋から出てきた紫苑がにこにこと笑って声をかけた。橡も微笑んで頷く。

「はい。私の動きと合っていましたし、紫苑さんと私が初めて会った時の季節とも合っています。意味も素敵です。途中の歌は自作なのでかなり下手ですけど、一番最後の歌は本当に素敵です。」

紫苑はふっと笑い、ぽん、ぽん、と橡の頭を撫でた。橡も遅れて、照れて笑う。月読命は腕を組んでため息をついているが、それでも楽しそうな顔はごまかせていない。

「生きててよかった。」

思わずといったふうにつぶやかれたその一言に、紫苑は目を見開いた。月読命も思わず橡をみる。

「そうか。」

二人の声が重なり、顔を見合わせる。その様子を橡は楽しげに見ていた。

 椿に小町藤が絡んでいた。月に照らされて、その蕾は綻び始めた。この後、きれいな花が咲くということは、想像に難くない。

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闇を切り裂く、光の雫 華幸 まほろ @worldmaho

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