第1章
第1話 森に住む少女(前編)
「…ふがっ!」
目を覚ますと、セーラツィカはゆっくりと腕枕から頭を上げた。窓の外はすっかり夕暮れで、1時間もすれば空に星が登りそうである。
よろめきながら椅子から立ち上がると、ビキビキと身体の節々が鳴った。
「いたた…」
身体を動かすと、少しずつ頭がハッキリして来た。少女は口元の
「うぎゃっ!」
案の定、腕の下に敷いていた本は涎で濡れていた。
「セーラツィカ様、お目覚めになりましたか?」少女が悲鳴をあげてからすぐに、扉の外からそんな声が聞こえてきた。
「お、起きてるわ! なんなら昼からずっとね」
「入ってもよろしいですか?」
「どうぞお好きに、ギルネラ」
セーラツィカは震える声で言いながら、涎まみれの本をページ同士が貼り付かないよう開いたまま、ベッドの布団の下に隠した。
扉を開けて中に入ってきたのは獣人の少女だった。ギルネラと呼ばれたその少女は山羊のような耳を持ち、額の左右両端からは反り返った角が生えていた。
美しい赤色の髪をぐしゃぐしゃにし、猫のように背を曲げたセーラツィカを見て、ギルネラは困ったように眉をハの字にする。
「陽のある内に寝過ぎると、夜眠れなくなります」
「寝てない…」
「毛布は掛けていましたか? 風邪を引きますよ」
「ね、寝てないから…」
「机の上を片付けましょう。読み終えた分を、書庫に戻しておきましょうか?」
「自分でやる! 自分でやるから!」
「よろしいのですか?」
「よろしいよろしい、ギルネラは晩御飯の準備があるんでしょ? 手を煩わせるのは申し訳ないわ」
「そうですか。晩御飯ですが、今日はエビの炒め物です。手の長いヤツです」
「ギルネラの大好物ね」
「はい、フフフ」
「いつも美味しい料理をありがとう、感謝してるわ。こっちは自分で出来るから本当に大丈夫」
「分かりました。水を汲んで来ますので、何かあったら鈴でお呼び下さい」
◇
「居眠りしたって私のせいじゃない」
そんな独り言を呟きながら、少女は持ってきた本を書庫の棚に戻していった。
「注釈がバカみたいにつまらないせいよ、原本が台無し。注釈者のお気持ち表明なんて聞きたくもない。なにが『著者の見解とは異なり、頭が3つの熊など本当は実在しない』よ。絶対にいる、頭が3つの熊は絶対にいるから!」
その時、外からバケツのような何かが落ちる音が聞こえてきた。
セーラツィカは一瞬窓の方を向き、すぐに視線を本棚に戻した。本を触る手を一旦止めて耳を澄ましても、なんの音もしない。
少女は静かに書庫を出ると、駆け足で自室へと向かった。異変が起こった時の選択肢は2つあった。
1つは速やかに裏口から出て森へと入り、まっすぐ東の詰め所へと走る。2つ目は…。
セーラツィカはベッドの下から大きな木箱を引きずり出すと、中から小型の弩弓と矢を取り上げた。
慣れた手付きで矢をつがえると、少女は正面玄関へと駆け出した。2つ目の選択肢とは、自分の手でギルネラを助けることだった。
弩弓を持ったまま足で扉を開けると、敵はすぐに見つかった。玄関から正門へと続く道の真ん中でギルネラは何者かに拘束され、口を塞がれていた。
目につく限りは1人しかいないその敵は、フードを被っていて顔がよく見えなかった。
「その者を離しなさい!」矢のひっ先を敵に向けながら、セーラツィカは叫ぶ。
フードの下の両目は大きく見開き、弩弓を構えた少女へと釘付けになった。
咄嗟にギルネラは相手のみぞおちに肘で一撃を入れると、手元が緩んだ隙にセーラツィカの許へと駆け寄った。
「お逃げ下さい!」ギルネラは両手を広げ、自分が壁となるべく主人の前に立った。「逃げるわけないでしょ、あなたを置いて」セーラツィカは答える。
「今ならまだ間に合う!」ギルネラの肩越しに武器を構えながら、セーラツィカは敵に向かって言った。
「今すぐに立ち去れば、多少は追手との距離が稼げる。だが踏みとどまれば、お前の首は草原に晒される。ここは獣人達の偉大なる大王が所有する邸宅。そこに無断で立ち入った以上、命を捧げる覚悟は出来ているな?」
「見張りの兵は来ません」快活な若い男のような声で敵は言った。「ここにくる前に眠らせました」
敵はフードを脱いだ。その正体は、栗色の巻毛を眉の辺りまで下ろした青年だった。
「魔術師か?」というギルネラの問いに、青年はみぞおちの辺りをさすりながら「いいえ」と答える。
「少々仕込んだ酒を飲ませました。大した薬ではない、明日の朝になれば目を覚まします」
「あの穀潰し共」歯軋りをしながら、ギルネラは獣人の言葉で呟いた。「この場を無事に切り抜けたら、必ずこの事は大王様に報告してやるからな…!」
「仕方ないわ、まだ若い兵達だもの」セーラツィカは獣人語でたしなめる。
栗毛の青年は2人の少女の方を向いたまま、ゆっくりと片膝を地面につけた。
「非礼を、どうかお許し下さい。信じてもらえないでしょうが、お2人に危害を加える気は全くありませんでした」
「嘘吐き」セーラツィカは即座に答える。
「地獄に落ちるべきペテン師め。お前に比べれば、遥か北の果てに追いやられたおぞましき魔物共など、春の小川のように穏やかよ。バカ、間抜け。なによそのふざけた髪型、格好つけてるつもり? 恥を知りなさい」
「ええっ…」青年は微かに身体を後ろに引いた。「さっさと帰って」セーラツィカは続ける。
「これから晩御飯だし、読まないといけない本もたくさんある。お前に割く時間など微塵もない。今日は特別に見逃してあげるから、帰りなさい」
「帰りません」青年は言った。「あなたに、皇帝にお伝えしなければならないことがある」
(ど、どうして…?)セーラツィカは青年を凝視したまま、動きを止めた。
「
「セーラツィカ様、どうかお聞き下さい」青年はギルネラの言葉を遮る。
「あなたはゲズダル家のセーラツィカ様です。お父様の名前はヤーコシュ、お母様の名前はミュレオーニナ、お兄様の名前はセラジルド。16年前のあの晩、一家は全員殺されたはずだった。だが、生き残りがいた。神々は我々を見捨ててはいなかったのです。私は万物に誓って、あなた方に危害を加えません」
セーラツィカとギルネラは共に言葉を失い、青年を凝視するしかなかった。青年は微笑み、少女達とは対照的に喋り続けた。
「『神々の子孫』であり、『どんな悪にも倒されぬ大木』であり、『魔物を踏み潰す足』であり、『この世で最も明るい光』である、我々を導く『皇帝』よ。私は、あなたをお迎えに参りました!」
そう言って、青年は深々と頭を垂れた。
「あの者を射って下さい」ギルネラは早口でセーラツィカに言った。「これは何かの罠です、あの者を射って下さい!」
言われるがままに、セーラツィカは弩弓の引き金へと指をかけた。青年は相手の返答を待つように、頭を垂れたままじっとしていた。
殺すなら今しかなかった。やらなければ、次はこちらがやられるかもしれない。
だが結局、矢が放たれる事はなかった。「はあ…」とため息をつきながら、セーラツィカは弩弓を下ろした。
「陽が沈めば、森を抜けては帰れない」少女はギルネラに言った。「持ち物を調べて問題がなければ、一晩の寝食ぐらいは許してあげましょう」
「ですが、セーラツィカ様」
「ごめんなさい、わがままを言って。でも私、少しでいいからあの者の話を聞いてみたいの。お願い、ギルネラ…」
ギルネラは困ったように眉をハの字にすると、主人であり、妹のような存在でもあるセーラツィカに言った。
「分かりました。残念です、1人分のエビの量が減ってしまいます」
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