有象無象


「人の頭は煙でできている」


 少なくとも、彼女の目にはそう映っているらしい。ぼんやりとはっきりせず、つかみどころのないかたち。

 彼女はめったに外出しなかった。彼女によると、人で溢れた街の中はひどく煙っていて、そんな空気を吸うと胸がムカムカし、時には嘔吐してしまう。


「家族と暮らしてた頃は最悪だった。リビングは喫煙所みたいだし、誰も私の言ってることが分からない」


 彼女には他人を見分けることがとても難しかった。どんな人物も、その頭は彼女には煙にしか見えないのである。しかしどうしても自立したかった彼女は、人物のシルエットをよくよく記憶し、それなりに実生活を上手くこなすようになった。

 彼女は見た目のことより、人々の煙たさに辟易しているらしかった。彼らが話すたびに蔓延する灰色の煙。


「誰であれ、一緒にいるととても呼吸ができない」彼女は言った「もういっそ、肺の奥の奥まで吸いこんでしまった方が楽なのかもしれない、無理に避けようとすると、煙が無理やり入ってこようとしてる気がするもの」



 それからしばらく、彼女には会わなかった。

 久しぶりに会った彼女はずいぶん様子が変わっていた。


「煙を避けるのをやめたら、だんだん呼吸が楽になったわ。それからしばらくして……ある時、鏡を見たら自分の頭が煙になってたの」


 彼女の性格はかなり落ち着いて、安定して──つまらなくなった、ように感じた。


「もう分からないのよ、」と彼女は言った。「どうしてあんなに有象無象を嫌がっていたのか。結局、私も煙を吐く頭の一つに過ぎなかったのに」


 はたしてそうだろうか。あのままでは彼女は生きづらかったかもしれない、だが、彼女を彼女たらしめたものが燃え尽きて煙になってしまった、そんな風にも思えた。今となっては取り返しのつかないことだけれども……いや、彼女が失ったものが、不死鳥のように蘇ることもあるのだろうか……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る