#32−②「あたしだけを見て」

***


自宅近くのコンビニに近づいてきて、なずなが出勤しているかどうか、お店を覗こうとしたところ、ちょうど出勤前のなずなに鉢合わせた。


まどかは、後ろに1つにまとめた髪にいつもはつけない小振りのバレッタをつけている。

なずなは視線をその髪に飛ばした後、「今日、結婚式だっけ?」と訊いてきた。


「うん。会社の同期の結婚式なの」


「浮かれてるねぇ」


楽しみなところを隠しもしていなかったので、まどかはなずなの言葉を笑顔で受け止めた。


「そのドレス、綺麗だね」


羽織っているコートをひらりと開けば、こっくりとしたボルドーのパーティードレスが現れる。

総レースで透け感が大人っぽくて、買った当時は少し背伸びをしたと思っていたが、今なら年相応で似合うような気がしている。


「ありがとう」


試しに着てみたときにはきつかった肩まわりに、きつさは感じない。

このために体を引き締めた甲斐があったと、頬を綻ばせた。


「結婚式は出会いの場だけど、まどかには素敵な彼氏がいるから出会いは必要ないね。同期の結婚式なら、彼氏も一緒?」


「うん」


「楽しんできてね」


なずなに満面の笑みで見送られながら、まどかは結婚式場へと向かうために駅へと向かった。


***


結婚式の会場に着き、受付を済ませて待合室に行けば、大平と横井はすでにいた。


「一緒じゃないんだ?」


大平は驚いた様子で訊いてきて、横井も隣で頷いている。絢斗と一緒だと思われていたようだ。


「一緒じゃないよ」


答えたはずなのに、視線が理由まで求めているように感じて、困惑する。別に特に理由はない。


「意外と冷めてるよな」


「え、あたし?」


「いや、中埜が」


まどかは、準備に時間がかかるので、絢斗と行くことを考えなかった。

絢斗から何も言われなかったので、当然のように別々に会場に向かうことにしたのだ。


確かに、絢斗なら一緒に行こうと誘いそうなものだ。

冷静になると、一緒に行かないにしても、どうして話題に上がらなかったのだろうと、気になってくる。


顎に手を添えて考え込んでいるうちに、後ろがざわざわと騒がしくなる。その気配が、次第に近づいてくるような気がして、振り向いた。


「来たよ……」


大平は苦笑いしている。


振り向いた先には、チャコールグレーのスーツを着た絢斗が立っていた。


普段、スーツ姿なのに、違う印象を受けるのは、シャンパンゴールドのネクタイのためだろうか。


周りの喧騒が気にならないほど、絢斗に釘付けになった。


「見とれてる?」


にっこりと笑うから、毒気を感じなくて、ドキドキした。


絢斗がじっとまどかを見つめる。

その視線が上下して、落ち着かない気持ちになった。


「その服、可愛いね。似合ってる」


「……ありがとう」


まどかは照れくさくて、お礼を言って目を逸らした。


それでも、絢斗はしつこくまどかの顔を見ようとしてくるから、「もういいでしょ! こっち見ないでよ」と絢斗の肩を押す。


「えぇ? 見ちゃ駄目とかある?」


不服そうに唇を尖らせる様子は子ども染みていて、堂々と歩いてきた絢斗とのギャップが大きかった。



「そこ、イチャついてないでいくぞ」


大平の言葉で、まどかは弾かれるように絢斗から身を離す。


絢斗は全く動じておらず、「大平はすぐ嫉妬するんだから。自分が今イチャイチャできないからって、そんなイライラするなよ」と大平の肩を抱き、ぽんぽんと叩く。


「……そんなに嫌なやつだったか?」


眉間にしわを寄せる大平を見て、横井が隣でおかしそうに笑っている。


まどかはイライラする大平の気持ちがよく分かって、何とも言えない気分になった。



絢斗の手から開放された大平が、まどかに顔を寄せる。


「さっきの、“意外と冷めてる”ってのは撤回するわ」


大平は笑っていた。




結婚式を終え、お見送りの時間だ。


「最後まで目立ってるね」


なずなは絢斗の顔を見るなり、面倒そうな顔をする。


「中埜のこと、めっちゃ聞かれるんだけど」


絢斗はフッと笑って、「何て答えたの?」と訊く。


「彼女いるから無理だって、ちゃんと言った」


――言ったのに、この注目度なのか。


隣にいることで、絢斗に向けられる視線を間接的に浴びることになっている。

まどかは改めて絢斗の求心力に驚かされていた。


「分かりやすく、結構べったりくっついてたつもりなんだけどな」


そう言って、まどかの腰に手を回し、引き寄せようとする。


「ちょっとっ、やめてよ」


まどかはその手を反射的に払う。

まどかの行動は読めていたのか、絢斗は手を上げて、肩をすくめて見せた。


「まぁ、大平も横井もいるから、中埜が特別とは思わなかったんだろうね」


大平も横井もあくまで同期であって、まどかにとって異性という認識はない。

しかし、男3人の中に紅一点という状況を客観的に見れば、組み合わせは3通りである。その中から絢斗との仲を見抜くのは、至難の業だろう。


一番は、今のように、腰に回された手を振り払ったり、まどかが距離を置こうとしているせいに違いない。


「隣の子と付き合ってるとも言ったんだけどね」


なずなはぽつりとこぼして、まどかと目を合わせた。


付き合っている人物を知ってこの反応なら、まどかが下に見られているからか。

はたまた、芸能人に会ったかのように、ひと目――いや、少しでも長く、イケメンを眺めたいという欲求に駆られているからか。

敵意は向けられている感じはしないので、後者の理由が大きそうだ。


「今日は来てくれてありがとうね。また、5人で飲もう」


なずなの幸せそうな笑みをまぶたに焼きつけて、4人で会場を後にした。


***


まどかが帰宅したのは自宅ではなく、絢斗の家だった。

キッチンの水道で手洗いをしていたら、先に洗い終えた絢斗はまどかのすぐ後ろに立つ。


「どうしたの?」


くすぐったくて身をよじれば、そのまま抱きすくめられた。


洗い終えた手は、行き場をなくして、水を滴らしている。

絢斗は何も言わずにまどかの肩口に顔を埋めて動かない。


「まず手を拭かせてくれない?」


絢斗は離れる気はないらしい。顔を上げたけれど、鼻を首筋に擦りつけるようにしている。


首にざらりとした感触がして、舐められたのだと気づいたときには、耳に舌が這わされていて、思わず声が漏れた。


「んっ……ちょっと待って……」


「ん? 待たないよ」


耳元で囁かれた声が鼓膜を震わす。

甘い囁きは、絢斗の口とともに、まどかのスイッチを押そうとしている。


「わ、分かったからっ。手は……拭かせてよ」


耳から聞こえる水音に呑まれそうになったものの、何とか声を振り絞る。


絢斗はまどかの手を後ろから取って、まるで子どもにするように、タオルで手を拭く手伝いをしてくる。背中から絢斗のぬくもりが離れない。

絶対にまどかから離れないという意思を感じた。


手を拭き終わったら、また唇を寄せてくるから、それから避けながら絢斗を引っ張り、ソファーに腰を下ろした。


「どうしたの?」


絢斗の顔を覗き込めば、絢斗は不満げな顔を隠しもしない。


「まどかは、全然嫉妬しないね」


「え?」


「ほら、ピンと来てもない」


嫉妬するようなことがあっただろうかと、考えを巡らせる。


「……あぁ」


嫉妬すると言えば、結婚式のときのことか、と気づく。

結婚式まで遡るとは思わなくて、思い至るのに時間がかかった。


「もっと嫉妬してくれないの?」


「嫉妬されてもどうしようもないじゃない。あたしが嫉妬したらどうするの? 面倒でしょ?」


質問に質問を返せば、「面倒じゃないよ」と言う。


「……だって、中埜が注目されるのは、いつものことでしょ? 当たり前のことに、いちいち反応しないよ」


絢斗はまどかの言葉をずっと待っていた。

何を求められているか分からなくて、まどかは言葉を紡ぎ続ける。


「普通、あたしの方が色々言うもんじゃない?」


「例えばどういうこと?」


「例えば? 例えば……」


もごもごと言い淀む。いざ言うとなると、思ってもない言葉は、なかなか生まれないものだ。


「えー……」


視線を彷徨わせて、最終的に行き着くのは、絢斗の目だった。


「――あたし以外の人に、色目使ってたでしょ?」


絢斗の目が大きく見開かれた。


思っていなかったはずなのに、言葉にすると、胸が切なく痛む。


「あたしだけを見て」


こぼれた声は、思っていた以上に切羽詰まっていて、動揺する。

気づかなかっただけで、本当はそう思っていたのではないか。


“例えばだからね”と、言い足す気にならなかった。


「まどか……」


名前を呼ばれただけなのに、鼓動はとくとくと駆け足になっていく。息が苦しい。


絢斗の指がまどかの髪に触れる。

その指は、器用にバレッタを外して、テーブルに置く。ことりと音がした。


次に目が合ったときには、唇が触れ合っていた。

色んな角度から口づけて、舌を絡ませる。必死だった。


鼻から抜けるような甘い声が漏れて、姿勢が保てなり、絢斗のシャツを掴む。

それでも自分の体を支えられなくなって、後ろに倒れた。まどかの頭を守るようにまどかの手が添えられ、ソファーの肘掛けに、ゆっくりと頭がたどり着いた。


絢斗に上から見下され、緩めたネクタイが、まどかの顔にかかりそうになる。絢斗はそれをしゅるりと引き抜き、ソファーの背もたれにかけた。


まどかは絢斗の首に手を回して、絢斗の顔を引き寄せる。


「おっと……」


絢斗の驚きの声を呑み込むように、唇を塞いだ。


まどかに合わせて、絢斗も応える。

2人のリップ音だけが部屋に響く。



絢斗の手が、まどかの鎖骨のかたちを確かめるようになぞる。流れるように背中に回った手が、ファスナーに触れた。


「……映画、見るんじゃなかったの?」


息が触れるほどの距離で、囁く。


「それは口実じゃん」


「わざわざ口実なんてなくても、ちゃんと来たよ」


絢斗の手つきは余裕がなさげなのに、表情には笑う余裕があって、やっぱりなと思う。なかなか乱れてくれないのだ。


「……映画、見ないの?」


「後でも見られる」


「……これも後でもできない?」


「そんなこと言う? こんなに高まってるのに?」


とろけた自分の顔が絢斗の目に映っていた。


返答に窮しているうちに、絢斗は上半身を起こして座り直す。

視線も合わなくなり、もったいないことをしたような気になってくる。


ソファーの下へと投げ出されたまどかの脚に、絢斗の手が触れた。


「膝のケガも綺麗に治ったね」


ケガのあった膝をつーっとなぞるようにするからくすぐったい。

1人だけ横たえているのは落ち着かなくなってきて、自分の膝に触れる絢斗の手を掴んで、起き上がった。


「あざもあったよね? どこだったっけ?」


手が塞がれたからか、まどかの体に視線だけが絡みつく。


総レースのドレスは肌をほとんど見せないものだった。膝上にまくし上げられた裾が、急に気になってきて、その裾をギュッと握った。


「……どこにあったか、確認する?」


上目遣いに訊けば、次の瞬間には、正面に天井が現れて、絢斗に見つめられていた。


絢斗の重みを全身に感じる。

身につけている服が、全て邪魔に思えてくる。


性急にキスを求められ、そのまま流されそうになりながらも、のしかかってくる絢斗の胸を押す。


絢斗は名残惜しむように、一度大きなリップ音を立ててキスをしてから、唇を離してまどかの顔を見つめてきた。

その顔からは、余裕が消えていた。


つまり、まどかも同じようなものだということだ。


「……ここじゃ、嫌」


「どこならいいの?」


「……ベッド」


「了解」


絢斗にひょいと抱えられそうになって、「自分で歩ける」と拒否をした。


すぐ傍とは言え、歩いていくのは冷静になって恥ずかしかった。いっそ、抱えられた方がよかったかと考える間もなく、ベッドにたどり着く。


ベッドへともつれるように倒れ込み、その後は恥ずかしさなど、どうでもよくなった。

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