#31「もっと乱れてくれない?」

まどかは倉庫での書類の整理、廃棄をする必要があり、倉庫へと向かっていた。

途中で、追いかけてくるように、絢斗が段ボールを持ってやって来た。


「まどかが鍵持っていってるって聞いたから、急いで来た」


絢斗はそう言って、重そうな段ボールを軽々と運んでいた。


まどかは持っていた鍵で倉庫を開け、ドアを押さえて、絢斗を先に倉庫へと通す。


絢斗がまどかを好きであることを、間接的に聞いてしまったのは、この場所だった。

入口のドアを曲がった奥に、絢斗と宇代はいた。


「ちゃんと奥まで行って、人がいないか確認しないとね。閉じ込めちゃったらいけないからね」


絢斗は奥まで入っていき、そう言った。


まどかはパチパチとスイッチを押して、明かりをつける。


「鍵締めて真っ暗で作業しないでしょ、普通」


「それもそうか。後から入ってきた人が、誰かいることは気づくよね」


遠回しに咎められているのだろうか。


思わず、ムッとして絢斗の背中を睨んでいたら、顔だけ振り向いた絢斗は意味深に口の端を上げていた。



ドアノブをガチャガチャと回す音が耳に入り、すりガラスの向こうに人影が見える。


まどかはとっさに絢斗のいる倉庫の奥へと駆けた。

そこは、ドア付近からは死角になっている場所だった。


「何で隠れるの?」


「2人きりなのを見られるのはちょっとよくないかなと思って」


息を潜めて、視線を緩やかに持ち上げ、絢斗の顔を見つめる。


「バレたら余計変に……」


まどかは絢斗の唇に人差し指を当て、言葉を紡ぐのを制した。


その唇の柔らかさに、胸が高鳴る。


こんなときでもそんなふうに思うなんて、だらしない。

そう思いつつも、その唇から目を離せない。



絢斗は困ったように笑うと、段ボールを足元に置いて、ドアの方へと歩いていった。


まどかは、人差し指に絢斗の唇の柔らかさが残っていて、思わず、反対の手で握り込んだ。


「お疲れ様です。何か探してます?」


「あー、中埜くんがいたのね」


総務部長の声だった。

絢斗は手伝いを申し出て、ともに探し始めた。


「ありました。これですか?」


「それそれ。ありがとう」


探しているものが、まどかのいる方にあるものでなくよかったと、胸を撫で下ろした。


隠れた手前、ゴソゴソと動くわけにもいかず、じっとしているしかなく、絢斗と部長の会話に耳をそばだて続ける。


「ついでに運びますよ」


「悪いわ。途中でしょ?」


「ちょっと遅れて持っていくことになってもよければ、戻るときについでに持っていきますよ」


「すぐに使うものではないから、急いではないの」


「それなら、この軽い方は部長にお願いしますので、これは僕が後で持っていきます」


「ありがとう。助かるわ。お願いね」


「はい」


部長が出ていく気配がする。


見て確認をしていないので、絢斗が顔を覗かせるのを待った。




「何してたの?」


「何も」


絢斗は、真っ直ぐまどかの元に戻って来た。

思いの外、距離を詰めてくるから、半歩後ろに下がった。


「2人きりになったところで、さっきの続き、する?」


「“続き”?」


腰に手を回され、グッと引き寄せられたことに戸惑っているうちに、絢斗の顔が目の前に迫っていてチュッと唇にキスされた。

唖然として絢斗の顔を見つめれば、絢斗はニヤリと笑う。


「キス、したがってたでしょ?」


まどかは反論できなかった。

絢斗の唇を舐めるように凝視していた自覚があったからだ。


絢斗はまどかの反応を待っている。


面白がってはいるが、無理強いはしてこない。

嫌がることはしないと徹底している。


まどかは、嫌がって見せても本当は嫌でないこともあるから、絢斗は今のように、本心を見極めようと見つめてくることがよくある。


「……駄目だよ、誰か来るかも」


「鍵、締めてきた」


やっと絞り出した反論の言葉は、即打ち消された。

扇情的な眼差しが、まどかをぞくぞくとさせる。


「……呆れた」


それは絢斗にか、自分自身にか――。


まどかは、絢斗の質問に答える代わりに、かかとを軽く上げて、下からすくいあげるように絢斗の唇へ口づけた。

絢斗は最初だけ驚いて見せただけで、すぐに乗ってきた。


会社内だという背徳感から、余計に高ぶるものがある。


一度始めたら、簡単には止められない。角度を変えて、何度も絢斗の唇の柔らかさを堪能する。


大きな音を立てて、唇を離し、至近距離で目を合わせた。


「……これするために手伝ったの?」


「どうかな?」


絢斗は意味深に笑って、まどかの唇に噛みつくようにキスをした。


絢斗は、珍しくまどかに主導権を握らせてくれた。舌を絡めて吸い上げ、深いキスをお見舞いする。

それなのに、絢斗は余裕の表情だ。表情も息も乱れず、何だか悔しい。


「……もっと乱れてくれない?」


絢斗を睨みつけて言った。

我ながら、キスの後とは思えない一言だ。


最中には余裕がなさそうな顔も見ることはできるが、大体自分にも余裕がないときだ。到底、優位に立てているとは思えない。


「それならもっと頑張ってよ」


ムッとして、絢斗のお腹に思い切り手刀を入れた。


「痛っ!」


絢斗は顔を歪め、お腹を押さえて体を丸める。


「早く持っていかなきゃじゃないの?」


まどかは絢斗を見下ろして言い捨てると、本来の自分の仕事を始めようと、背中を向けた。


***


絢斗は会社の飲み会が開かれる居酒屋へと来ていた。


まどかの姿が見当たらず、キョロキョロする。

今夜の飲み会に参加すると言っていたはずだが、仕事が終わっておらず、遅れてくるのだろうか。


「三戸はまだ来てないんですね?」


上司にさらりと訊いてみたら、「三戸なら今日は帰るように言ってるぞ」と返ってきた。


「交通事故にあってケガしたんですっけ?」


「ケガは大したことないみたいだから、安心しろ」


近くにいた人の言葉を聞いて目を見開いた絢斗の肩を、上司はぽんぽんと励ますように叩いた。


大したことはないと聞いても、実際のケガを見ていないから、安心ができない。

スマホを取り出して、メッセージアプリを開く。


“ケガしたって聞いたけど、大丈夫?”


メッセージを打ち込み、送信する。


返事がすぐに来るとは思っていなかった。

しかし、返事が来ないことで、不安は募る。飲み会に集中できなかった。


ある程度の時間、参加すれば、会社内の飲み会なので、早めに抜けてもいいだろう。


「あ、明日取引先に直行予定だったのに、資料を持って帰るのを忘れてました」


タイミングを見計らって、さも今思い出したかのように言葉を紡ぐ。


「取りに戻りたいので、お先に失礼します」


「もう少しいてもいんじゃない?」


引きとめられそうになったが、「気になって、酔うに酔えないので、すみません」としゅんとして言う。


「楽しめない人がいたら、空気も悪くなるので、帰ります」


にっこりと笑みを繕って、早口に言った。


有無を言わさない言葉に、振る舞い。

どうすれば、つけ入る隙を与えないかは、熟知しているつもりだ。


その場を後にするのは、簡単だった。


***


今頃、いつもの居酒屋で、飲み会は佳境に入っているだろうか。


まどかは、誰もいなくなった会社で、パソコンに向き合い、エクセルに数字を打ち込んでいた。

昼間に整理した資料の数と、台帳の数字を揃えるのは、地味に手間と時間がかかる。


「――やっぱりいた」


いるはずのない人の声がして、一瞬、聞き間違いだと思った。

振り向いて、声の主の顔を確認して、そこでやっと頭で理解ができた。


「飲み会、行ったんじゃなかったの?」


「行ってきたよ。でも、途中で抜けてきた」


くるりと椅子を回転させて、体ごと絢斗の方へと向ける。


「帰るように言われたんじゃないの? 安静にしとかなきゃいけないでしょ」


「あー……」


絢斗の耳にも、ケガの件は伝わっているらしい。

怒ったようにも聞こえる強い口調に、まどかは口をつぐむ。


「メッセージ送ったんだけど、見てない?」


「あ、そうなの?」


まどかは慌ててスマホを取り出し、スマホの着信を確認する。


「本当だ。ごめん、気づかなくて」


「どこケガしたの?」


スマホに目を落としているうちに、絢斗はまどかの前に跪いていた。


「腕? 脚?」


絢斗はまどかの腕に触れて、瞬時に離した。


「痛い? 触らない方がいい?」


普段は、動揺などおくびにも出さないはずの絢斗が、動揺している。


それを見て、まどかが動揺してしまう。

乱されてほしいとは思ったけれど、この状況はいい気分ではなかった。


「大したことないの。信号のない横断歩道渡ろうとしたら、車が止まらなくて、一緒に渡ろうとしてた子どもを慌てて止めたときに転けちゃって、膝を擦りむいただけなの」


「どっち?」


スカートは膝頭を隠していた。


まどかは、右側の膝が見えるように、恥じらいながら、スカートをたくし上げる。

破れたストッキングは脱いでいて、素足だから、あまりまじまじと見ないでほしかった。


「“擦りむいただけ”って、血、出てるじゃん」


絆創膏には血が滲んでいた。


「すぐに血は止まったし、全然だよ」


絢斗は納得がいっていない様子だった。

ここまで過保護とは思わず、衝撃を受けた。


「他は何ともないの?」


「うん」


絢斗は膝に腕を置いて俯き、1つ息を吐いてから、もう一度、まどかの目を見直した。


「一緒にいた子どもは大丈夫だったの?」


「うん。あたしの方が慌てちゃって、ケガしちゃったくらい」


「よかった」


絢斗はまどかの両手を取り、包み込むように握る。


「こんな乱され方は嫌だからね。心配はさせないで、お願い」


「……うん」


立ち上がった絢斗は、まどかの頭をぽんぽんとした。


絢斗がいつもと違って心乱されるときは、振り返れば、まどかに接する他の男に嫉妬するときか、まどかの心配をするときだった。


絢斗のことは心から信じてもいい。自分を裏切ることはないと、自信を持って言える。


まどかは絢斗の腰に腕を伸ばし、抱きついた。

甘い香りと居酒屋の匂いが混じった独特の匂いは、不思議と嫌な気分がしなかった。


「……何でここにいるって分かったの?」


「大したことないって言ってたから、仕事してるかもって思ったんだよ。いなかったら家まで行くつもりだった」


「そこまでしなくても、本当に大したことなかったのに……」


語尾は小さくなる。

ただでさえ、絢斗の服に顔を埋めているから、くぐもって聞き取りづらかっただろう。


しかし、絢斗の耳にはしっかりと届いていた。


「でも、俺が来て、嬉しかったんでしょ?」


絢斗の笑っている気配を感じて、つい笑ってしまった。

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