#28−②「不安にさせてごめん」

思いが通じ合ってから絢斗の家に上がるのは初めてだ。

何度も来た場所なのに、緊張している。


玄関でパンプスを脱ぎ、先に家に上がった絢斗に続こうとしたら、急に絢斗がくるりと振り向いて、足を止めた。


絢斗が一歩足を踏み出したと思ったら、顔が間近に近づいて、次の瞬間には唇に吸いつかれていた。


覆い被さるようなキスに唇に、反射的に腰を引くようにしたら、腰を掴まれ、壁に追いやられる。おまけに顔に手を添えられ、あっという間に逃げられなくなってしまった。


唇を噛まれ、舌で撫でられる。

こぼれた吐息も絢斗に呑み込まれ、隙をついて入り込んだ舌が、口内を余すことなく撫でていく。


まどかは、その荒々しさに戸惑うよりも、本心をぶつけられていると感じて嬉しくて、応えたくなった。


必死で応えていたら、それが絢斗にも伝わって、より絢斗の遠慮がなくなった。


お互いを求め合うキスは、気持ちがいい。

ついキスに集中してしまって、膝が折れそうになったとき、絢斗の手が腰に回って支えられて、冷静さが顔を出した。


「ちょ、ちょっと待って」


「ん?」


絢斗は止めるつもりはさらさらないようで、聞こえないフリをして、唇を寄せようとしてくる。


「……話したいから待って。お願い」


両手を絢斗の胸板に押しつけるようにして言えば、絢斗は「分かった」とまどかから少しの距離を取った。


「話すなら中で話そうか」


絢斗に手を引かれるがまま、ワンルームの部屋に入り、ソファーに並んで腰かけた。

座ってもなお、絢斗は手を離さなかった。


「……さっきの、気にしてる?」


「“さっきの”って元カレのこと?」


「うん」


「気にならないわけないでしょ。でも、浮気を疑ったりしてるわけじゃないよ。ただ、楽しそうだったから、嫉妬はしたかな」


絢斗はあくまでも軽い調子で言った。

だからと言って、絢斗がそれほど気にしていないわけではないはずだ。


気にするような要素はないのだから、絢斗から不安を取り除きたい。

まどかはちゃんと一から説明をすることにした。


「ジムに行ったら、ちょうど彼が友達に会いに来てたの」


「友達って、ジムで働いてる友達?」


「そう。約束してたみたいで、成り行きで一緒に話を聞くことになったのね。それで、彼が結婚するって聞いたの」


「そうなんだ」


絢斗は驚いた顔をする。


「前に、あたしに別れた理由訊いたでしょ? 好きな人がいて、あたしを見てくれなかったから別れたって答えたと思うんだけど、彼ね、そのときの好きな人と結婚するんだって。一途だよね」


「……寂しい?」


逆転して、まどかが気遣われる立場になっている。


「うーん……嬉しいよ? 別に未練もないから、純粋に喜ばしいことだって思う」


絢斗の顔を見ないようにして、次の言葉を続ける。


「ただ、イケメンと付き合ってろくなことないなって思ってたけど、あたしに問題があったんだなって実感した。ちゃんと好きな人には向き合ってるわけで、あたしが特別じゃなかっただけなんだよね」


これが感傷に浸っているということかもしれない。


言葉にしたら、心に染み入るようだった。

遅れて心が揺さぶれる。


不意に繋がれた絢斗の手の力が強まって、重なる手に目をやる。


「俺にとっては、まどかが特別だよ。まどかには俺がいるじゃん」


またキザな言い方をしている。

しかし、繋がる手に込められた強さが、嘘ではないと主張していた。


「……そうだね」


絢斗の前で話すべきではなかった。

ネガティブなことを言って、慰めてもらうなんて、よくなかった。



「……さっきは無理やりキスしてごめん」


絢斗はいくらかトーンの下がった声で謝った。


「……びっくりはしたけど、嫌じゃなかったから、大丈夫」


「嫌じゃないのは、したら分かる。……だから、した」


まどかはハッとして、絢斗の顔を見上げた。


絢斗はやはり不安なのだ。

自信をなくさないように、まどかを試してキスをしたのだ。


「分かってるんだよ。まどかが照れて好きって言えないのは分かってる。どんな性格かは、分かってるつもり。だけど、好きになったら猪突猛進そうなまどかが、何も行動してこないことに、結構落ち込んでるんだと思う」


困り顔をしていて、あまり見ないもので、ドキドキする。


「前に俺らは過度に期待してないからお似合いだって言ったけど、違った。まどかに、どこかで期待して、多くを求めてる」


うっすらと笑う絢斗に、愛おしいという気持ちが、ふつふつと湧き出てきて、胸が苦しいくらいだった。


「謝るのはあたしの方だよ。不安にさせてごめん」


どかは絢斗の方へと上半身を向けて、繋がる手に空いた片方の手を重ねる。


「中埜にしてほしいことがないか、思い浮かばなかったのは、半分嘘。こんなことをしたらどんな反応するとか、そういう方が思い浮かんだの。それって、自分のしたいことでも、してほしいことでもないでしょ?」


声色を繕い、「あー、あたしは自分がしたいってことより、中埜がしてほしいことがしたいんだな――って」と続ける。


以前は、具体的に欲しいものを伝えていないのに、与えてほしいと思う気持ちばかりが先行していたのに、今は自分が何かをしてほしいというよりは、してあげたい気持ちの方が大きい。

これは、絢斗からあり余るくらいの愛情を言葉や行動から感じ取れるからだ。与えられている分、より返したくなる。


「どうせなら、中埜が喜んでくれることがいい。結局は、中埜と楽しく過ごせたらいいなって思ったの」


絢斗が唇を尖らせて、フッと視線を逸らした。


「何それ。俺がわがままみたいじゃん」


「違うよ」


その姿がわがままな子どもみたいで、少し笑えた。


「じゃあ、俺の好きなところ、言ってよ。ここなら言えない?」


甘えた声色に、瞳も不安に揺れていて、庇護欲を掻き立てる。


「……好き――じゃ、駄目?」


「……駄目じゃないと言いたいところだけど、こんな機会もないと言ってもらえそうにないから駄目」


まどかにつけ入る隙があると判断したのだろう。


「ありすぎて絞れない? 全部?」


「全部はない」


からかうように顔を近づけて言ってくるから、まどかは声を張ってぴしゃりと言い切った。


ニヤニヤされて、まどかはきまりが悪くなりがら、仕方ないと覚悟を決めた。



「嫌いなところは、軽くて何でも適当にそつなくこなすところ」


「嫌いなところは聞いてないんだけど?」


「それと、妙に自信満々で、デリカシーがなくて、人の領域に許可なく踏み込んでくるところも嫌。あ、口上手なところも、信用できない感じがして、ちょっと嫌かも……」


「……俺を怒らせようとしてる?」


今度はまどかがニヤリとする番だった。


「でも、仕事では上司にも後輩にも頼られて、何だかんだ人に嫌われないところはいいところだと思う。それに、あたしのことになると、弱気になったり、嫉妬したりするのも、嫌いじゃない」


そして、最後に「あと、顔は好き」と言い捨てるように付け加えた。


絢斗は素直に喜ぶことはなかった。

真顔でまどかを見つめている。


「……例えば、俺が整形して、この顔じゃなくなったら、好きじゃなくなる?」


「顔はそうかもね。でももう、顔以外も好きになってるから、中埜を好きじゃなくなるってことはないよ、きっと。嫌いなところも含めて中埜で、その中埜が好きなの」


絢斗の手がまどかの手から離れ、抱き寄せられた。

絢斗はまどかの肩口に顔を埋めている。


「俺、この顔で生まれてよかった。今、両親……いや、先祖に感謝してる」


「何それ」


「だって、そのおかげで、まどかに見てもらえた」


「大げさだなぁ」


「まどかには大げさかもしれないけど、俺にはそうじゃないよ。まどかのおかげで、この顔がますます好きになれたよ」


「“ますます”って……」


自分の顔に自信がある人の発言だ。

ここまで来ると笑ってしまう。


「適当に言って俺を喜ばせることもできるのに、媚売ることもなく、嘘吐かないで正直に話してくれる。自分の意見は曲げないところが好きだよ」


まどかがあれほど覚悟を決めて言ったのに、絢斗はスラスラと言う。


「それと、意外にも照れ屋なところも好き」


絢斗は体を離して、まどかの顔を覗き込む。


「……そんなに見なくていい」


「見るよ」


絢斗が照れた顔を見ようとしているのが分かる。


まどかは意地になって、絢斗の顎に手のひらの膨らんでいる母指球をつけて、顔全体をグッと後ろに押す。


「痛いよ。まどかの好きな顔が悲惨なことになるって」


「なっていいっ!」


より力を込めたら、さすがに声もくぐもって、痛そうだったので、手を離してソファーから立ち上がった。


「逃げようとしてる?」


「もう帰るっ」


振り返らずに吐き捨てれば、「駄目だよ」と甘さを含んだ声とともに、右手を掴まれた瞬間に後ろに引っ張られた。

バランスを崩したまどかは、絢斗の脚の上に崩れ落ちるように座ることになった。


倒れると思って心臓がどくんと跳ねて、なおかつ、受け止めた絢斗の顔に至近距離で見つめられ、より心臓が強く早鐘を打つ。心臓に悪い。


「俺の顔、大丈夫?」


「……ちょっと赤くなってる」


絢斗の頬と鼻を人差し指でなぞるように触れる。

さすがに強く押しすぎたと少々反省した。


絢斗の手が、絢斗の顔に触れるまどかの左手を捕まえる。


「俺から逃げられるわけないからね」


挑戦的なその目からは逃げられる気がしなかった。

逃げる気もさらさらなかったけれど。


捕まえられた左手は膝の上まで下ろされ、解放される。

その間も、2人の目は合ったまま、離れなかった。


引き寄せられるように、触れるだけのキスをする。

それだけなのに、満たされた気持ちになる。


額を合わせれば、温かさがじんわりと伝わってきた。


「……逃がさないでね?」


絢斗は一瞬瞠目して、すぐに微笑んだ。


「当たり前じゃん」


契約の印を押すように、再びまどかの唇に唇を合わせた。

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