#29−①「分かってるなら、早くしてよ」
絢斗と話したい一心で、絢斗の自宅まで来たので、先のことはあまり考えていなかった。
だから、絢斗にぴたりとくっついている姿が、ふとテレビの黒い画面に映るのが目に入って、変な汗が出た。
――これって、泊まる流れだよね?
急に、絢斗の顔が見られなくなって、泳ぐ目を見られないように伏せる。
「明日仕事だから、帰るよね?」
「あ……うん」
そう言われたら、帰らないとは言えなくなる。
ホッとする一方で、寂しくも思う。
寂しさを押し殺して帰り支度をし、玄関へと向かった。
「明日、泊まりに来て」
パンプスを履いたところで、それまで何も言わなかった絢斗の声が耳に届いた。
振り向くと、絢斗は穏やかな表情をして立っていた。
「ちゃんと準備してくるんだよ? 色々ね」
まどかの顔がよほどおかしかったのか、絢斗はクックッと笑って、まどかの頭をぽんぽんと撫でたのだった。
***
“泊まりに来て”
絢斗の声が何度も脳内で繰り返されている。
仕事終わりに行くことになるので、夜中に準備したのだが、持ち物が多すぎてもからかわれそうだし、かと言って、いざとなって足りない物があっても困る。
色々考えすぎて、結局、基礎化粧品とメイク道具、明日の着替えという、仕事帰りにジムに寄るときの持ち物と同じになった。
翌日、会社では、絢斗はほとんど外出していて、まどかも打ち合わせが多く、顔を合わせることがほとんどなかった。
泊まりに来てと言う割に、絢斗はあれから連絡もくれなくて、まどかはどうすべきか迷っていた。
顔を合わせることがあれば、話すこともできるが、それも叶わない。
メッセージを送っておこうと思い立ったとき、急きょまどかあてに連絡があり、その対応に追われるうちに、外は暗くなっていた。
会議室にこもっている時間が長く、久しぶりに自席に戻って着席すると、「お疲れ」と絢斗が労いの言葉をかけてきた。
「お疲れ」と返せば、絢斗は顔を寄せてきた。
「帰れそう?」
「帰れるようにする」
まどかは前を向いて、ノートパソコンを開いた。
「俺ももうちょっと仕事するから、終わったら声かけて」
絢斗に顔を向けたら、「一緒に帰ろう」と耳元で囁かれて、どきりとした。
「……分かった」
まだ人目もあるのに、気にせず近づいてくるものだから、緊張してしまった。
まどかの仕事が一段落して、帰るときには、上司しか残っていなかった。
上司に声をかけてから、まどかと絢斗は2人で会社を後にした。
「ごめんね、待たせて」
「俺も仕事があったから」
今日しなくてもいい仕事だったに違いない。
絢斗の優しさを感じて、嬉しいが、申し訳なくなる。
「どこかで食べて帰ろうか」
「うん」
目的地を決めず、街中へと出かけていく。
帰る場所は、絢斗の家という理解でいいのだろうか。
何となく今日の仕事の話をしながら歩いているうちに、絢斗のスマホが何度も着信を知らせた。
絢斗がスマホを確認する度に、話が遮られる。
「……出たら?」
「ん?」
「さっきから、電話でしょ? 同じ人から?」
「そうだねぇ……」
絢斗は悩み出した。
あまりにも渋るから、「あたしの前で話せない人?」と訊いた。
「そういうんじゃないよ。ただ……」
絢斗は途中で口を閉じて、最後まで言い切らなかった。
気になるので、絢斗の言葉を待つしかない。
じっと絢斗の顔を見上げて待てば、唸って考え込んでいた絢斗が、スッと覚悟を決めた顔をした。
「あんまりいい場所ではないけど、付き合ってくれる?」
絢斗は電話の相手に折り返しをして、その相手がいるという居酒屋に向かうことになった。
その居酒屋は、2人のいる場所から近い場所にあり、それほど歩かずにたどり着いた。
その居酒屋の前には、スマホを触って立つ男がおり、絢斗はよそ見をせずに彼に向かって歩く。
気配を感じ取ったのか、目の前にたどり着くまでに彼の顔が上がって、絢斗に気づいた。
「絢斗! 同窓会ぶりだな」
「しつこいぞ。一度断ったら諦めろよ」
「でも、諦めなかったら、来たじゃん」
「今回だけだよ」
表情も綻び、砕けた口調は、まさに友達に接するものだった。
そもそも電話を無視できる時点で、気の置けない友達なのだろう。
「それより……紹介してくれる?」
チラチラと視線を向けられているのを感じていたまどかは、自ら「三戸です」と名乗った。
「彼女。そんでもって会社の同期」
絢斗の紹介に合わせて、頭を下げる。
「絢斗の友達の
仕事終わりなのか、スーツ姿の脇邑は、爽やかな好青年だった。体に厚みがあり、スポーツをやっていたかを訊かれそうな体格だった。
まどかは、どういう顔をしていたらいいのか分からず、とりあえず当たり障りなく、にこにこしていることにした。
「絢斗、彼女いたの?」
「いるって言ってないだけでいたよ」
「言わないなんて、水くさいな」
「言ったら会わせろって言うでしょ。だから嫌だったんだよ」
肩を組んで、こそこそと話す様子は、同期とはまた違う。付き合いが長いと感じさせられる。
ふと、脇邑の目がまどかを捉える。
「もしかして……同窓会のときに絢斗をさらっていったあのときの人?」
「“さらっていった”つもりはないんですけど……」
「絢斗を睨みながら反論するなんて、ただならぬ関係とは思ってたけど、彼女だったんだな……」
正確に言えば、あのときはまだ付き合っていなかったけれど、水を差すようなことはやめよう。彼女という事実をすんなりと受け入れているのだから。
しかし、脇邑の言葉を訊くと、よほど絢斗が変わり者と思われているのか、多少の変わり者でなければ、絢斗の彼女は務まらないと思われているのか、考えずにはいられない。
「ここまで来たなら、顔見せてけよ。絢斗が顔出したら、みんな喜ぶ」
絢斗が電話に出ない理由がよく分かった。
絢斗が飲み会に出れば、注目もされ、拘束もされるのは、分かり切っている。
同窓会で遅刻して、滞在時間もわずかだったのは、わざとだったと、今は言い切れる。
「ちょっとだけ、いい?」
突然、絢斗の顔がまどかに向くから、驚いた。
意見を求められるとは思っていなかったのだ。
「いい機会だから。……色んな意味でね」
絢斗は含みのある顔をして笑う。
まどかは拒否をしなかった。
「絢斗が来てくれたぜ〜」
脇邑の大きく張った声は、その場にいた全員の耳に届き、一斉に視線を集めた。
会社を出ると、絢斗がいかに特別視線を集める人かが分かる。
飲み会が開かれていたのは座敷で、絢斗は奥に連れていかれそうになったが、断って下座に座った。まどかは、その隣に遠慮がちに腰掛ける。
まどかは視線を痛いほど感じ、俯きがちになる。
前を向くのが、少し怖い。
「早く説明しないと」
「彼女だよ」
そんな紹介を受けて俯いているわけにはいかない。
「急にお邪魔してすみません」
思いの外、小さい声しか出ず、全く通らなかった。
奥の席の人には聞こえていないかもしれない。
「いきなり来たと思ったら彼女同伴かよ」
近くの、脇邑に似たタイプの男が、からかうように言う。
「文句言うなら、
絢斗は脇邑の背中を叩きながら言う。
脇邑の下の名前は篤史と言うらしい。
「引っ張ってきた」
脇邑は自慢げに言って、絢斗の前にビールを出す。
「来たら飲まなきゃだよな」
「1杯飲んだら帰るから」
絢斗はそう言ってビールグラスを受け取った。
「まどかは飲む?」
――これは、どっちがいいやつだろう。
お店側からしたら、何も頼まない人がいるのはよくない。かと言って、ここで飲むと言うのは出しゃばっていて、感じが悪くないだろうか。
「彼女さんも1杯どうぞ」
脇邑はにこやかに、もう1杯のビールを店員から受け取り、まどかに差し出す。
即座に受け取らなかったので、絢斗は「ソフトドリンクにしとく?」と気にかけてくれる。
まどかは首を横に振って見せて、「じゃあ、いただきます」と、脇邑からグラスを受け取った。
話を聞けば、同窓会きっかけで、よく会うようになったらしく、人数は10人弱に減っているが、同じようなメンバーだと言う。
「絢斗は仕事が忙しいって言って、全然顔出してくれないんですよ」
「忙しいんだからしょうがないじゃん」
「マジで忙しいんですか?」
「あ、はい。いつも忙しくしてますよ」
飲み会に顔出せないくらいかどうかは分からないけれど、と内心で付け足す。
半分は、ただ単に参加するのが嫌なのだろう。
「彼女さんって、絢斗の取引先とかです?」
「同じ会社で働いてます」
「そうなんですね。会社での絢斗の様子、訊かせてくださいよ」
彼は、元々なのか、アルコールが入っているからか、陽気な様子で、まどかの傍まで寄ってきた。
「彼女って言ったよね? 馴れなれしくしないで」
「ビール注ぐだけだよ」
「1杯だけって言ったよね?」
絢斗がぴしゃりと言えば、彼はまどかに肩をすくめて見せて、スッと引いた。
「デート中だったのに、しつこいから来ただけだから。これからは、仕事が忙しくなくても、彼女に割く時間を削ってまで、飲み会には来ないからね」
脇邑はガハハと声を上げて笑い出す。
「わざわざ宣言しに来たわけ?」
「そうだよ。じゃないと連れてくるわけないでしょ」
「ひどい言い方するなよ」
脇邑は絢斗の肩を抱いて、ぽんぽんと叩く。
「彼女さんもごめんね。無理やり顔出してもらって」
「こちらこそ、すみません。何だったら置いて帰ります」
「ちょっと、1人で帰ろうとしないで?」
絢斗はまどかの方を見る。
平静を装っているが、少しの焦りが見えた。
まどかは肩をすくめて見せ、ビールを口に含んだ。
「彼女さん、面白いね。絢斗が好きになるの、分かるよ」
ビールを1杯飲み切る頃には、雰囲気にも慣れてきて、絢斗の昔話も聞けて、何だかんだ有意義な時間が過ごせた。
脇邑が、来たときと同じようにお店の外まで見送ってくれることになった。
まどかは先にパンプスを履いて、引きとめられている絢斗を待っていたら、脇邑が先にお店の外まで行こうとジェスチャーをする。
まどかは脇邑についていくことにした。
「すみませんね、付き合わせてしまって」
「いえ、楽しかったです。むしろ、私がいることで、いづらかった人はいたと思うので、申し訳なかったです」
「申し訳なく思う必要はないですよ。絢斗はわざと、三戸さんを連れてきたと思うので」
「どうしてそう思うんですか?」
「こないだの同窓会、絢斗目当てで来てた人も多かったんです。三戸さんと一緒に帰った後、ざわざわしました。あれは誰だって」
「中埜には、訊かなかったんですか?」
「訊いたけど、はぐらかされたんです。だから、まさかここで彼女と知らされるとは思わなかったです」
脇邑はにっこりと笑う。
「これで、絢斗目当てで飲み会に来る人はいなくなりますね。思うツボだ」
電話をかける前の覚悟を決めた顔と、店内に入る前の含みのある顔が、思い浮かんだ。
絢斗は抜け目のない男である。
話しているうちに、入口までたどり着いた。
振り返っても絢斗の姿は見えない。
「それと、絢斗が彼女をこういう場に連れてきたのは、初めてですよ。こういう場じゃなくても、社会人になってから、彼女に会ったことないです」
「そうなんですか?」
目を丸くして、脇邑の顔を見上げる。
「三戸さんは特別なんだなって、それだけで分かります」
絢斗はまどかのことを社会人1年目の頃から好きだったと言っているのだ。客観的に考えれば、特別だと容易に分かる。
「絢斗をよろしくお願いしますね」
仰々しく頭を下げるから、恐縮する。
「やめてくださいよ」と言おうとしたら、後ろに近づく気配に気づき、口を閉ざした。
「別に篤史によろしくされることはないんだけどね」
絢斗と脇邑は顔を見合わせ、微笑み合った。
2人にしかない空気感で、嫉妬すら覚えるほどだった。
脇邑と別れ、腕時計を確認する。
居酒屋の滞在時間は30分強ほどだった。
ビール1杯と言いながらも、おつまみももらって、空腹感はない。
「まだいてほしそうだったでしょ。あたしのことはいいから、いてもよかったのに」
「そんなこと言う? まどかと約束してたのに」
「ごめん。そういうつもりじゃなくて、友達との時間も大事にしてほしいと思ってるの」
「そうだねぇ……」
「中埜目当ての人は減っただろうから、これから飲み会は行きやすくなるんじゃない?」
絢斗はニヤリと笑い、「気づいてたんだ」と言う。
「脇邑さんも言ってたよ」
「面倒事が減ったって?」
きっと、絢斗と脇邑の仲は深く、絢斗に近づこうとして脇邑に連絡を取るのだろう。
2人の間では、いつものことのようだ。
「そうは言ってなかったけど」
絢斗はクックッと笑った。
目的地が決まらないうちに、何となく歩き出す。
「――で、これからの話だけど……」
時間は20時30分。
まどかの手に絢斗の温かい手が触れた。
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