#13「何してほしいとか、考えたことない」
まどかは羽衣と仕事終わりにカフェに入店していた。
子どものこともあり、食事を摂るほどの時間の余裕が羽衣にはなかったので、今度にしようとまどかは言ったのだが、羽衣に押し切られるかたちで、コーヒー1杯だけ飲むことになった。
「こないだの食事、どうだった?」
席に着くなり、アイスコーヒーを飲まず、向かいから前のめりに訊いてきた。
「全然楽しくなかった」
「まぁ、そうだろうね。行く前にあんな顔してれば」
たまたま羽衣に会って、浮かない顔と言われたのだ。まどかは苦笑いするしかなかった。
羽衣はストローを口に含み、アイスコーヒーを飲み出す。
「なかなかいい人現れないね」
「うん……」
まどかも遅れて、アイスコーヒーを口に含む。
冷たくておいしい。
思っていたより喉が渇いていて、ごくごくとグラスの3分の2を飲んでしまった。
「まどかは付き合おうと思えば付き合えるかもしれないけど、求めてるのはそういうんじゃないよね」
このまま隠したまま話すことはできる。
しかし、どこかで綻びが出てきて、バレる可能性を考えたら、先に言ってしまった方がいい。
「羽衣」
「ん?」
「実はね、一応、彼氏できたの」
「え……えぇっ!?」
ストローで氷をつついている羽衣が、何となく顔を上げたかと思うと、徐々に顔色を変えていくさまは、なかなか面白かった。
「まだ誰にも言うつもりなかったんだけど、羽衣にはいずれバレるだろうから、言っておこうと思って」
「えっ、ちょっと待って! こないだ食事に行った人は……」
「――彼氏じゃない。しつこいから、会って断ろうと思っただけ」
「あー、それは楽しくないね」
羽衣は同情を寄せる。
しかし、暗い表情は一瞬でなくなった。
「――で、一目惚れ? ビビッと来た?」
「そうじゃなくて……ノリ?」
「いいじゃん、いいじゃん!」
普通、“ノリ”と言われたら、大丈夫なのかと不安になる人が多いだろうに、羽衣は変わっている。
「いつ付き合い始めたの? 誰と? 私の知ってる人?」
相当興奮している。
もう少し関係が落ち着いてから話すべきだっただろうか。
だって、付き合い続けるとは限らないのだ。
興奮が増すのは分かっていたが、質問に答えないわけにもいかず、少しずつ答えることにした。
「旅館で2人きりになった同期なんだよね」
「えっ!」
「羽衣にそれを話した後に付き合うことになった」
「やっぱり始まってるじゃん!」
奇しくも、何か始まりそうと羽衣が言っていた通り、始まってしまった。
「でも、続くか分からないよ。ノリだから、相手が他の人と付き合いたいって思ったら、即終了だよ?」
「それはどんな恋愛でもそうでしょ」
「……まぁ、それはそうか」
羽衣と話していると、自分の考えが根底から覆されることがよくある。
いかに凝り固まった考えになっているか、思い知らされる。
「付き合うことにしたなら、嫌いではないんでしょ?」
「……嫌いではない。けど、好きでもない」
羽衣に黙ってじっと見つめられ、「……まぁ、顔は好きかもしれないけど」とこぼしてしまった。
「まどかの好きな顔って、絶対イケメンだよね? 今度会わせてよ」
「えぇっ、嫌だよ」
「大丈夫! 奪ったりしないから!」
「そういうことを心配してるんじゃないのよ」
羽衣は目を輝かせている。
自分のことのように楽しそうだ。
羽衣は思い出したように、アイスコーヒーを飲み出す。
「もっと楽しみなよ。せっかくイケメンと付き合ってるんだから」
それも一理ある。
彼女なのだから、近くであの端正な顔をいくらでも見ることができる。いくら見てもおかしいことは何もないのだ。
羽衣に会ったあの夜、絢斗が会いに来てくれて、何だかんだ色々と吐き出して、自宅に着く頃にはすっきりしていた。
マンション前に着いて、また色々と理由をつけて上がっていくかと思えば、そんなことはなく、「一応、俺ら付き合い始めたわけじゃん?」と語り出した。
「三戸は俺に何してほしい?」
「え……何してほしいとか、考えたことない……」
「じゃあ、考えといて」
それからは絢斗のことばかり考えていた。
絢斗に何をしてほしいか、絢斗と何をしたいか。
全くといっていいほど思い浮かばなくて、困り果てていた。
「――羽衣は、付き合ったら、彼氏に何してほしいと思う?」
「手を繋いでほしいとか、ハグしてほしいとか、腕枕してほしいとか、そういうこと?」
「あぁ、なるほど……」
思いつかなかったことが、羽衣の口からぽんぽんと出てくる。
まどかには難しかったが、羽衣を見ていると、簡単なことのように思える。
「でも、彼氏にもよると思うよ。口下手な人だったら、電話は無理でもメッセージは毎日送ってほしいかもしれないし、イケメンだったら、一緒に外歩いて自慢したいかもしれない」
次から次へ、すらすらと出てくる。
これは今まで付き合った人に、毎回願望があって、ちゃんと伝えていたのだろう。
「……羽衣はすごいね。あたしがいかに受け身か実感する」
「でも、今、彼氏に何してほしいかって考えてるんでしょ?」
「それは、本人に訊かれたから」
「へぇ、訊いてくれるんだね」
羽衣の経験上でも珍しいらしい。
どちらも好きではないのに付き合っているのだ。羽衣の経験とは大前提が異なるわけで、変則的なことも起こるだろうとも思う。
「そんなに悩むなら、まずはまどかから訊いてみるのはどう?」
「あたしから、何を?」
「彼氏が、まどかにしてほしいことは何か、訊いてみたら?」
まどかは一口アイスコーヒーを口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。
***
まどかは、いかに絢斗に自分から話しかけることをしていないか思い知っていた。
付き合う以前、そもそも絢斗とは距離を置くようにして、わざわざ仕事以外のことで話しかけることなどなかった。
最近はよく会って話している気がしたが、どれも絢斗からがきっかけで、まどかから何か行動を起こすことはしていなかったのだ。
絢斗に話しかけるとなると、まずは社内にいるかどうかの確認から始まって、いたとしても忙しそうにしていたら話しかけられない。
これは、メッセージを送って、就業後に時間を作ってもらうしかないのだろうか。
しかし、わざわざ作ってもらったら、話だけというわけにもいかなくなりそうで、ためらわれた。
よく考えれば、社内でするにはリスクもあるし、連絡を取ることが最善の方法かもしれない。
そこまでたどり着いて、それ以上、絢斗を目で追うのはやめた。
諦めてパソコンに向き合い、仕事に集中していたとき、不意に肩をぽんと叩かれた。
ギョッとして振り向いて見上げれば、少し前までずっと窺い見ていた絢斗の顔があって、また驚いた。
「今日はじろじろ見て、何か言いたいことでもあるの?」
急に耳元に口を寄せて言うから、身じろいた。
大きい声で言われても困るが、これはこれで視線を集めそうで気がかりだった。
「ここで話すのはちょっと……」
「え、どんな話しようとしてる?」
「そういうんじゃないってばっ」
含みのある言い方をするから、つい声を張ってしまった。
「昼、外出ない?」
ムッとするまどかに気づいていないわけがないのに、無視して話を進めてくる。
パソコンで時間を確認すれば、もう正午を過ぎていた。
「……出る」
どちらにしろここでは誰に話を聞かれるか分からないので話せない。
絢斗の提案に乗ることにした。
ともに会社を出ていくのも、多少抵抗があったが、ただの同期である。
周りはまどかが思うほど気にしていないと自分に言い聞かせて、少しの距離を置いて会社を後にした。
近くのうどん屋に入って、食事をすることになった。
「今日は社内にいるんだね?」
「うん。打ち合わせが多くて」
「そっか……」
「だから、話したいことあるなら、いくらでも話しかけてもらってよかったんだけど?」
絢斗は真正面からまどかをじっと見つめてくる。
絢斗の顔を真正面からまじまじと見ることはあまりない。
直視していられなくて、一定時間見ていると、目を逸らしてしまう。
「三戸が話したいことがあるから来たんでしょ。時間なくなっちゃうよ?」
お膳立てされたはされたで、話しにくい。
話の流れでサラッと話すくらいでよかったのに。
絢斗はチラチラと腕時計に目を落としている。
もたもたしているうちに、時間を無駄に浪費してしまう。絢斗は言うまで開放してくれないだろうし、より言いにくくなる前に話してしまわなければ。
「こないだ、してほしいこと、訊いたじゃない?」
「あー、三戸が俺にしてほしいことね」
「うん。それで、参考に、あんたがあたしにしてほしいこと、聞いてもいい?」
「なるほどね……。いいよ」
訊くのをためらっていたのが馬鹿みたいに、絢斗はあっさりと了承した。
「まずは、名前呼んでよ」
「え?」
「いつも“あんた”って呼ぶけど、俺は“あんた”って名前じゃないんだよね」
「それは……ごめん」
気づいたら、名前もちゃんと呼ばないようになっていた。さすがに“あんた”呼びはよくないと分かる。
「――“絢斗”って呼んで」
「……は?」
頬杖をついて満面の笑みでこちらを見てくる絢斗に、まどかは思わず顔を歪めて睨みつけてしまった。
「名字じゃないの?」
「名字って、元々仕事のときは呼んでるじゃん。付き合ってるんだから、仕事以外のときは名前で呼んでよ」
呆気に取られているうちに、絢斗はまた笑みを濃くした。
「分かった。フェアじゃないもんね。俺も呼ばなきゃだ」
早口にまくし立てるような言い方はわざとらしかった。
頬杖をつくのをやめて、その代わり、机の上に身を乗り出してきて、まどかに顔を近づけてくる。
「――まどか」
なんてことはない。ただ名前を呼ばれただけだ。
それなのに、胸がキュッと締め付けられるように苦しくなる。
「聞こえてない? まどか?」
「……あぁー! やめて!」
まるで目の前に虫が飛んでいるように、面前で両手を大きく左右に振る。
「何、まどか、照れてんの?」
「照れてはない。本当にやめて!」
「本気で言ってる?」
「言ってる!」
ニヤニヤしている顔から逃れたいのに、逃げられない。
お店に入るのは間違いだったかもしれない。
後悔しても遅かった。
うどんをすすっている合間も、何かと名前を呼んでくるから、鬱陶しかった。
会社に戻るときも、顔を覗き込みながら意味もなく名前を呼んでくるから、絢斗は無視して早足で会社に向かって歩いた。
あまりにも名前を呼ばれたものだから、その声が耳の奥にこびりついて離れなかった。
午後からは、ふと思い出しては叫びたくなる衝動にかられて、仕事の邪魔になるくらいだった。
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