#14「勝手に決めないでよ」
あれからことあるごとに絢斗は“まどか”と呼んできた。
必要最低限ではなく、わざと不必要なのに呼んでくるのだ。
会社の中で普段は“三戸”と呼ぶくせに、2人きりになった途端、“まどか”と言い出す。
同僚のいるところで、“三戸”ではなく、“まどか”と言ってしまわないかとひやひやするので、やめてほしかった。
社外から帰ってくるタイミングがあって、たまたま絢斗とエレベーターに乗り合わせた。
そのときも「まどかはどこに行ってたの?」なんて、名前を呼んできた。
「これだけ呼んでるんだから、まどかもいい加減呼んでよ」
「自分がやってるから相手にも同じだけ求めるのは、違うんじゃない? 見返りを求めてするものなの?」
「それっぽいこと言うの、得意だねぇ」
絢斗は名前を呼んでほしいと言いながら、それほど執着していないように見える。
「俺、諦めないからね? 言いづらくなる前に言った方がいいと思うよ?」
そんなこと、自分がよく分かっている。
それでも、呼ぶ覚悟ができない。
「じゃあ、次のお願いね」
「は?」
「こないだ、“まずは”って言ったじゃん。聞いてなかった?」
腹を立たせる天才だ。
どうしてこうも煽らないといられないのか。
「今日飲み会があって、ちょっと遅くなるかもしれないけど、俺の家の合鍵使って入って家で待ってて。場所はまどかのことだから、もう覚えてるよね?」
「覚えてるとか、そういう問題じゃなくて!」
合鍵は何度も返そうとしたが、その度にかわされて、結局、持ったままだった。
「ちゃんと泊まりの準備してきてね」
「勝手に決めないでよ!」
「シャワーも勝手に浴びていいから。あるものは何でも使って」
エレベーターのドアが開き、目的の階に着いた。
絢斗は先にエレベーターを降りるから、まどかは慌ててその後を追う。
「ちょっと! してほしいこと、参考に聞きたいって言っただけで、あたしにお願いしてもいいなんて言ってないんだけど?」
「そうだったっけ?」
足を止めて振り向いた絢斗は、大げさに首を傾げて見せる。
ついさっき、“聞いてなかった?”と言っておいて、自分は聞いてないふりをするのか。
何という都合のいいやつだ。
絢斗は「もう行かなきゃ」と手をひらひらと振って、再びくるりと背を向けて去っていってしまう。
まどかはその場に独り残され、絢斗の背中が見えなくなって、大きなため息を吐いた。
***
行かなきゃいいのに、結局、来てしまった。
絢斗の自宅があるマンションを仰ぎ見て、肩を落としてため息を吐く。
一度、家に帰っているのだ。
冷静に検討する時間はあったにもかかわらず、来るという判断を下している。
自ら敵地に飛び込んでいく自分の心理を、上手く解読できない。
とにかく、今までのまどかであれば、聞く耳も持っていなかったに違いないので、何かが変わったと言わざるを得ない。
ここまで来たら、絢斗に言われた通り“あるものは何でも使って”、自由に過ごしてやろう。
色々とバッグに詰め込んできた。
自宅のように使ってやればいい。
絢斗は飲み会で遅いので、帰ってきたところで、それほど話さなくてもいいだろう。
まどかは腹をくくり、マンションに足を踏み入れた。
食事も済ませ、お風呂も入ってきたので、軽くシャワーを浴びて、ソファーでくつろいだ。
自宅ではないので、どうしても完全にはくつろげなくて、買ったまま積まれていた広報の仕事に関わる本を読むことにした。雑念がなく、集中できるような気がしたのだ。持ってきて正解だった。
集中して読んでいたが、半分と少し読んだくらいのところで、たまに意識が飛んで、何度も同じページを読むようになる。
1冊読み切りたいと思い、目を最大限見開いて瞬きを繰り返し、文字に集中した。
理解できているような、いないような。ただ文字を追っているだけのような気がしながらも、ページをめくっていく。
ふと、トントンと肩を叩かれていることに気づいた。
ハッとして目を開ければ、ソファーに座ったまま、寝てしまっていたらしい。
帰宅した絢斗が、まどかの顔を覗き込んでいた。
「油断しすぎじゃない? 無防備に寝ちゃって」
「……思ったより早かったね」
どれくらい寝てしまったか分からないが、体感では早かった。
「家で待ってる人がいるって言ってきた」
「……え?」
「彼女とは言ってない。彼女とは思われただろうけど」
頭が上手く働いていない。
理解が及ぶ前に、絢斗が隣に座って、まどかの目にかかる髪に触れ、耳にかける。
「来ないことだってできたのに、ちゃんと来たんだね」
絢斗は嬉しそうに微笑んでいた。
どうやら絢斗は、まどかが来ない可能性もちゃんと考えていたようだ。
「先にベッドで寝といていいよ。こんなところで寝てたら風邪引いちゃうから」
絢斗はまどかの手から滑り落ちてい本を拾っていたらしい。
絢斗から差し出された本を反射的に受け取った。
「時間は明日の朝から十分あるからね」
絢斗が部屋から出ていった後、寝ぼけ眼のまま、本は持ってきていたバッグにしまって、絢斗に言われた通り、ベッドへのそのそと向かう。
眠気には逆らえなかった。
ベッドに潜り込めば、絢斗の匂いを色濃く感じた。
壁側の端に寄って、横向きになる。
まるで絢斗に後ろから抱き締められたように安心する。
自然と頬が緩んだ。
ソファーで寝るよりずっと居心地がいい。
まどかはすやすやと眠りに落ちていった。
衣擦れの音が耳に入り、隣に潜る気配を感じて、意識が浮上してきた。眠りが浅かったらしい。
目を閉じ、ぬくもりに背を向けたまま、身動きしないように息を潜める。
絢斗の指が髪に触れている気がした。
「俺のこと、好きになればいいのに」
ぽつりと呟かれた一言に、一気に眠気が覚めて眠れなくなった。
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