#11−②「キープなんてしてない」
重いまぶたをゆっくりと開き、瞬きを繰り返す。
見慣れない壁にカーテン、自分とは違う布団の匂い。
昨日のことを思い出し、完全に覚醒する。
寝返りを打ち、壁と反対側を見れば、スーツ姿の背中が目に入って、まどかは飛び起きた。
「えっ、仕事なの?」
「起きた? おはよう」
体を捻ってまどかの方を向いた絢斗は、ネクタイのノットを整えていた。
その姿にどきりとする。
「そう、仕事なんだよね。ちょっと出てくる」
「“ちょっと”って……」
「昼には帰ってくるから自由に待ってて」
絢斗はバッグを掴み上げ、背を向けて玄関へと歩き出す。
「ちょっとっ!」
まどかはベッドから下りて、玄関まで追いかける。
「付き合ったばかりで、不用心すぎない?」
「同期としては長く信頼してるから。ね?」
絢斗は満面の笑みを浮かべた。
息が止まるかと思った。
まるで同棲しているカップル――いや、仕事に出かける夫を見送る妻のようではないか。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
絢斗を見送り、自分の体を見下ろして、ため息を吐く。
「……まずは着替えよう」
昨日の服しかないが、今の服より気分はいくらか落ち着くだろう。
いつでも勝手な絢斗に振り回されている。
振り回してくる人が彼氏だなんて……。
この選択は、正解だったのだろうか――。
***
着替えを済ませ、メイクもしても、それほど時間は経たず、すぐに手持ち無沙汰になってしまった。
勝手に家の物に触ることもできず、自由に待つなんて、到底無理だった。
それならいっそ、外に出てしまおう。
そう思い至り、玄関に置いたままの鍵を拝借して、外へ出かけ、散策することにした。
歩いたことのない場所を歩くのは刺激的で、案外楽しかった。
絢斗は仕事に行くときにここを通るのかとか、このスーパーに通っているのかとか、絢斗のことを考えていることに気づく。
昨日の夕方から絢斗とずっと一緒にいるせいで、頭の中は絢斗のことばかりだった。
何より、ふとしたときに鼻腔をくすぐるシャンプーの香りが、絢斗を否応なく思い出させるのだ。
しばらく歩いていたら、程よく足が疲れてきて、子どもたちの声に導かれ、近くの公園にふらりと入った。
子どもたちが集まっていたのは遊具ではなく、噴水だった。
水たまりの色んなところから時間差で水が飛び出している。どこから飛び出してくるか分からないので、見ているだけでも面白い。
ベンチを探して見渡すが、近くのベンチにはどこにも先客がいたので、公園を一周してみることにした。
両脇に木々が伸びている道を通ると、日陰になっていて涼しくて、風が吹くと心地よかった。
伸びをして体をほぐしながら、ゆっくりと進む。
この陰から抜け出したくなくなっている。
バッグの中のスマホが着信を教えるために鳴り始めた。
電話は絢斗からだった。
「もしもし」
ゆったりとした気分のまま、軽い調子で電話を取ったら、絢斗は切羽詰まった様子だった。
『今どこにいるの?』
「えっと……公園?」
『……待っとけなかったの?』
責めるような色が滲んでいて、ムッとする。
「昼には戻ってくるって言ったって、自分の家じゃないのにゆっくりできないって。それに、ちょっと出てるだけで、戻るつもりだった。自由に待ってろって言ったのはそっちでしょ?」
『……うん。そうだね。俺が言った』
絢斗は勢いをなくして静かになる。
悪いことをしたつもりはなかったのだが、連絡もせずに外に出たことはよくなかったと思い直す。
『……戻ってくるよね?』
「……うん」
――そうか。
帰ってもよかったのか。
当たり前のように戻るつもりだったことに、衝撃を覚える。
『心配したんだよ』
絢斗の安堵の声色を聞いて、ムッとしたことに罪悪感すら覚える。
絢斗は単純に心配してくれたのだ。
それなのに、勝手に鍵まで持ち出して、連絡もせず、外に出てしまった。
「――あっ。もしかして、家に入れてない?」
『それは大丈夫。玄関に置いてたのはスペアだから、ちゃんと鍵は持ってるよ』
「よかった……」
早く戻ってきてほしい理由が、鍵がなくて家に入れないだったら、走って家まで戻る覚悟までしていた。
しかし、それは結果としてよかっただけだ。勝手なことをしてしまったことは反省しなければ。
『あ、その鍵、持ってくれてていいから』
「え?」
『また来ることあるだろうから』
「“また”って……」
『彼女なんだから』
電話の向こうで笑う気配がする。
顔まではっきりと頭に浮かんで、動揺する。
絢斗の言葉を聞き入れるだけで、何も否定をしない自分にも、戸惑ってしまう。
『お昼、どうする? どこかで食べる?』
「あー、何か買って帰ろうか?」
『んー……せっかくなら一緒に選びたい。公園にいるんだよね?』
「うん。噴水がある公園」
『あー、あそこか』
絢斗はぴんときたようで、『そんなところまで歩いていったの』と笑っていた。
『じゃあ、そこで待ってて。すぐに迎えに行くから』
「……うん」
なんか、さっきからずっと、普通のカップルみたいだ。
いや、さっきどころではない。
昨日からずっとだ。
穏やかな気持ちだったかと思ったら、急にドキドキさせられる。
あんなに憎たらしいと思っていた同期に、前とは違ったかたちで心を乱されていることが、変な気分だった。
***
絢斗は15分ほどで公園までやって来た。
ノーネクタイで、袖をまくっている絢斗は、いつも見る姿で、休みの日なのにそうでないみたいで違和感があった。
「暑そうだね」
「暑いよ」
「家帰ったんじゃなかったの? 着替えてくればよかったのに」
「早く三戸に会いたかったからねぇ」
絢斗は特別なことを言うでもなく、さらりと言ってのける。
ぽかんとするまどかを見て微笑むと、「行こう」とまどかの背中をぽんと押した。
いつの間にか近くにいても、拒否せずに受け入れている自分に気づく。
今までは近づかれただけでも嫌がって離れようとしていたのに。
いや、そもそも前提条件が違う。これほど絢斗が気軽にまどかに触れてくることなどなかったのだ。
最近できたという、近くのハンバーガー屋にふらりと入った。
お腹がすいていたので、すぐに食べたいという2人の意見が合致したからだった。
頼んだのは一番おすすめのハンバーガー。
ふわふわのバンズにジューシーなハンバーグとシャキシャキのレタスに瑞々しいトマトが挟まっていた。
大きな口を開けて食べれば、甘めのソースが癖になるおいしさだった。
セットで頼んだポテトはほくほくで、次から次へと口に運んだ。
食べ終えて、アイスコーヒーを飲んでおいしかったねと話している途中、スマホを何気なく見る。
もう見慣れてしまった相手からのメッセージが届いていた。
メッセージの内容をすぐに見る気にもならなくて、そのままスマホをテーブルの上に置いた。
「――誰、それ?」
「勝手に見ないでよ」
とっさにスマホを持ち上げ、くるりと画面を下にして置き直した。
「何、後ろめたいの?」
「そういうんじゃなくて……」
「あ、あいつか。同窓会の」
当たっていたら黙るのはいけないと分かっているのに、何も言えなかった。
「図星だ」
案の定、絢斗はいつものようにそう言った。
絢斗に隠し事はできないから、即座に認めてしまえばいいのに、一瞬でもバレたくないと思ってしまったから仕方がない。これは後ろめたいのかもしれない。
「キープなんてするはずないんじゃなかったの?」
「だから、キープなんてしてないってっ」
思わず語気が強くなる。
自分が送っているわけではなくて、相手が勝手に送ってくるのだ。責められても困る。
「そんなに断るのが嫌なら、ちょっとデートでもしてみれば?」
「……は?」
絢斗はストローを口に咥え、アイスコーヒーを飲み干した。
「俺らは所詮恋愛ごっこの関係なんだから」
絢斗の目は鋭くて、突き放すような言い方に、胸が苦しくなる。
何でそんなに怒って言うのよ。
まるで本物の彼氏が嫉妬しているみたいじゃない。
あんなに近づいたような気がしていたのに、実際は全然近づいてなかったのか。
そうだ。期待したら駄目だった。
だって、好きな人は他にいるんでしょ。
好きな人がいるのに付き合ってるくせに、そんなに偉そうにしないでよ。
「……あいつはやめた方がいい」
腹が立つのに、ボソッと呟くように言った絢斗の言葉が、耳にこびりついて離れなかった。
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