#9「直感を信じてみたくなったの」
休日、気分が何となくもやもやして、スカッとしたくてジムへ行くことにした。
体を動かしてストレス発散したいことはもちろん、歩と話したい気持ちもあったので、ジムに入るや否や歩の姿をすぐに見つけて、思わず声をかけた。
歩は予定が詰まっているようで、話せる時間が作れないようだった。
仕事中であるのだ。仕方がない。
そこまで筋肉をつけたくなくて、あまりウエイトトレーニングには重きを置いていないのだが、今日はやる気があった。
大胸筋を鍛えるチェストプレスから始め、背中を鍛えるラットプルダウンをする。
それから、下半身を鍛えるレッグプレスを始めようと、マシンに腰を下ろしたところで、歩がやって来た。
「シートに背中をつけて」
言われた通りにして、フットプレートに足を置く。
歩がまどかの足に触れ、つま先を外側に向け、膝の角度を見てシートの調整を手伝ってくれる。
「トレーナーみたい」
「“みたい”じゃなくて、そうなんだよ」
お互いに目を合わせて笑った。
息を吐きながら膝を伸ばし、伸ばし切る前にゆっくりと元の位置に戻す。
お尻から太ももにかけて、きいている感じがある。
「何かあったの?」
近くのマシンには誰もいない。
少しの私語は許されるだろうか。
「……好きでもない人と付き合うメリットって何かある?」
「好きでもない人から告白されて、付き合うメリットってこと?」
正確に言うと、そうではない。
「好きでもない人に付き合ってもらうメリット――かな」
歩は何故訊かれたか分からず、戸惑いながらも、真剣に考えてくれる。
「周りに付き合ってる人がいるって言えるとか……?」
付き合っていることを周りに言うなら、女避けと言えるかもしれないけれど、“誰にも言わなきゃいい”と絢斗は言った。
「他には?」
「えー……穏やかな恋愛ができる?」
歩はまどかの姿勢が崩れると、言葉で正してくれながらも、会話も続けている。さすがトレーナーである。
「なるほど。他にはある?」
「他?」
さすがの歩も、答えに行き詰まったらしい。
やはり、好きでもない人と付き合うことにメリットを感じられないのは、まどかだけが思っていることではなさそうである。
唸って悩んでいた歩が、不意にまどかの顔をじっと見つめた。
「……何?」
「本当に好きじゃない?」
「え?」
「付き合ってもらおうとしたんだから、好きとか気になるとか、多少の好意があるんじゃない?」
まどかは動かす足を止め、視線をさまよわせる。
「まっ、まさか! あり得ない!」
笑って聞かなかったことにしようとして、再び足を動かそうとしても、上手く力が入らない。
あからさまに動揺している。
――いや、まさか。
確かに、“付き合ってみたい”とも言われたが、好きとは言われていないではないか。
「ちょっと待って。これ、まどかの実際の話なの?」
「……うん」
しばらくトレーニングに集中できないと思い、乗せていた足を下ろし、マシンに腰をかけただけの状態になる。
「まどかが、好きでもない人に告白したの?」
まどかは首を横に振って答える。
「相手が好きじゃないけど付き合ってって言ってきたの?」
「いや、ちょっと違う。好きじゃないとは言われてない」
歩は話を整理するように問いを重ねていくから、まどかの頭も整理されていくようだった。
「じゃあ、何で好きじゃないって分かるの?」
「好きな人とは付き合えたことがなさそうな感じなんだよね。それに、そもそもはあたしがきっかけなの」
「まどかが?」
「うん。あたしが好きでもない人に感情を振り回されてるのを見て、同情してくれたの。好きでもない人に振り回されるくらいなら、自分と付き合えばいいって。久しぶりに流されてもいいって直感で思って、それに乗ることにした」
「乗ることにしたって……まどかのメリットは何?」
歩の顔には心配の色が濃く表れていた。
「あゆの言いたいことは分かる。今まで好きじゃない人と付き合って、上手くいかなくて別れてきたし、同じ轍を踏むかもしれないもんね」
まどかは自嘲の笑みを浮かべる。
「でも、同じ、好きじゃない人でも、顔が好きなら悪くないでしょ? それに、一番は直感を信じてみたくなったの」
嘘を言ってはいないか、見極めるような歩の視線は、居心地が悪かった。
しかし、嘘ではないので、まどかはぐっと見返す。
「……もしかして、相手は“顔だけはいい同期”?」
「……うん」
あんなに翻弄されて困っていると嫌がっていた手前、気まずさもある。
“顔だけいい同期”なんて、結局顔かよ、と言われるのが普通だろう。それなのに、歩はやはり他の人とは少し違った。
「まどかがつまんなくないのか気にしてくれた人でしょ。付き合ったら楽しませてくれるんじゃない? せっかく付き合うことにしたんだったら、楽しんでみたら?」
「楽しむ……」
「相当自信がある人みたいだし、全部任せてたらいいよ。好きな人だったら色々気を遣うだろうけど、よく知った人だし、気楽に付き合ってみたらってこと」
「……そうだよね」
歩はまどかの話を全面に受け入れ、背中を押してくれる。
付き合う選択が間違っていたかもしれないと、どこかで思っていたけれど、歩がそう言ってくれるのなら、悪くない選択だったと思えてくる。
「いつも話聞いてくれてありがとう」
「聞いてるだけだけどね」
「あゆには話しやすいんだよね。意見を押しつけてきたりもなくて、つい話しちゃう」
落ち着いたら、喉が渇いてきて、持参していた水筒に手を伸ばす。
歩の方が先に気づいて、床に置いていた水筒を取ってくれた。感謝の言葉を述べて受け取る。
「……嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ。むしろ楽しい。自分では経験しないことを知れるっていうか、異世界の話って感じで」
「フィクションみたいに綺麗な話じゃないけどね」
フッと笑って、蓋を外して、水筒を傾ける。
冷たい水が喉を通って胃へと落ちていく。かいた汗を取り戻すには、まだまだ足りない。
「まどかは僕の恋愛の話、訊こうとしないよね」
「訊いてほしいの?」
「ううん」
水筒の蓋を閉めながら、歩の顔を見上げる。
「親しくもない人に、結構訊かれるんだよね。挨拶みたいな感じで、彼女はいないのかとか、どんな人と付き合ってたのかとか。恋愛対象が女前提で話が進んでるのも嫌だし、答えないのが普通じゃない感じも嫌」
歩が珍しく言葉から感情を溢れさせている。
歩も、最近、何かあったのかもしれない。
「……別に話せることなんてないのに」
最後にぽつりと呟かれた言葉が切なかった。
何か言ってあげたいと思うのに、上手い言葉が見つからない。
そういう人と関わらなければいいと、簡単には言えるけれど、関わらないわけにはいかないのだ。
「まどかは僕の恋愛対象が男か女か、気にしたことないよね」
「だって、それ、大事? あゆがあたしの恋愛対象なら気になるかもだけど、友達にそれは関係ないでしょ。そもそも、みんなが平等に恋愛的な好意を抱くかも分からないのに」
歩の息を呑む気配がする。
歩は、多分、女性男性に関わらず、性的に惹かれることがない、アセクシャルだ。
高校生のときはよく分からなかったけれど、時代的にも、大人になってそうではないかと思うようになった。
ただ、だからといって、自分たちの関係が変わるわけでもない。
「そう言えば、何で僕のこと、“あゆ”って呼ぶの?」
「え、言ったことなかったっけ?」
「うん」
「昔、メールアドレス、“Ayu”って使ってなかった?」
今はメッセージアプリが主流で、友達とのやり取りにメールはまず使わないが、高校生のときはギリギリ、キャリアメールも使っていた。
「それを見てから、何となく“あゆ”って呼び出した気がする」
「そうだったんだ」
歩は遠くを見るような目をして、穏やかに微笑む。
「呼び始めたとき、何も言わなかったでしょ? 違和感ないからだと思って、勝手に呼び続けてた」
「うん。違和感なんてなかった。全然いいよ」
「よかった。今更呼び方なんて変えられないから」
まどかが安堵の声をもらせば、歩はおかしそうに笑った。
さすがにここでずっと話しているわけにはいかない。
「自販機でスポーツドリンク買ってこようかな」
立ち上がって、ふと昔のことを思い出した。
「あゆに初めて会ったのがいつか、はっきり覚えてないんだけどさ、あたしが理久にカッとなって色々言ったとき、周りは、あたしのこと、引いた目で見てた。大人になった今なら分かる。あんなに感情むき出しで、怖いって」
よく教室に乗り込んで、話に言っていたけれど、別れる直前は、鬼気迫るものがあっただろう。
今思えば、若さゆえの過ちだ。恥ずかしい。
歩もまどかにつられてうっすらと笑っていた。
「でもあゆは、理久よりもあたしのことを気にしてくれたよね。元々は理久との方が仲良かったのに、あたしのこと気にしてくれて、優しくて、信頼できる人だなって思った。あたしが会った人の中で、一番、心の感情の機微に気づく人だって思ったの」
「理久は鈍感だったからね。僕はそれも居心地がよかったけど、さずにまどかへの態度は誠実じゃなくてひどいなって、近くで客観的に見てたら思ったよ」
「そうだよね。あれはひどいよね」
遠慮などない。隠そうともせず、元カレの話で笑っている。
笑い話になるくらいには過去のことになったということでもある。
「仕事の邪魔してごめん」
まどかは、あのときの歩への第一印象を信じて、友達になった。
それから、会っていない時間はあれど、友達という関係は変わることがなかった。
ある意味、それも一目惚れのようなものかもしれない。
自分の直感は信じて大丈夫だ。
だからこのまま、前に進もう。
まどかは自動販売機に向かって歩み始めた。
***
シャワーを浴び、着替えを済ませ、ジムを出てからスマホを確認すると、珍しい人物――絢斗から着信があった。
電話なんてする仲ではない。
仕事の連絡は取り合うが、私用のスマホで連絡を取ることはほぼない。あったとしても、同期全員のグループチャットが動くだけだ。
急用の可能性もなくはない。
そう考え、折り返し電話をすれば、コール音を2回聞いたところで、電話は繋がった。
「ジムにいたから電話出られなかった。何か用?」
早口でまくし立てるように言えば、反応がない。
周りのざわめきが気になってくる。
自分が聞こえないだけで、何か喋っているのだろうか。
学生と思われる集団が横切って、なかなか電話に集中できない。
なるべく静かなところへ行こうと、人混みを抜ける。
『誰かと一緒にいるの?』
やっと聞こえた声は何とか聞き取れた。
「ううん。一人」
『ジム、友達が働いてるって言ってなかったっけ?』
「……よく覚えてるね。気持ち悪いくらい」
『ありがとう』
「褒めてないから」
人混みから離れると、いくらかマシになり、電話口の声はクリアに聞こえた。
「友達には今日も会った。あんたもこないだ見てるはず」
『あー、アルバムでってこと?』
「そう」
『高校の同級生だったんだ』
「うん。同じクラスにもなってる」
『ふーん』
また興味がなさそうな返事だ。
このまま、ダラダラと電話を続ける気はない。
「何か用事があったんじゃないの?」
本題を話すように絢斗を促す。
『付き合ってるんだから、用事なくても電話していいじゃん』
確かに、連絡も取り合わないなら、今までと何ら変わりなく、付き合った意味がない。
かと言って、意味もなく電話をしたいわけではない。
『今夜、時間ある? 会おうよ』
「今夜?」
『うん。今夜』
連絡も取りたくない、会いたくないでは、さすがにまずいか。一応彼女なんだし。
歩も言っていた。気楽に楽しめばいい、と。
「えぇ……うん、まぁいいけど……」
『決まりね』
絢斗の満足そうに笑う顔が頭に思い浮かんで、自然と笑みがこぼれた。
それに気づいて、何だか負けたような気になって、悔しくて表情を引き締めた。
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