#8「メリットあるの?」

自席で仕事をしていると、不意に肩に手が置かれて飛び上がるほど驚いた。


「先に声かけてよ!」


「ごめんね」


言葉では謝っているのに、全く悪びれる様子のない口調だ。

絶対にまたやって来るに違いない。

そう思うと、ふつふつと怒りがわいてくる。


何とかその気持ちを抑えて、絢斗の顔を睨みつけるように見上げる。


「今夜、時間ある? どっか食べに行こうよ」


人目のあるところで誘ってこないでほしい。

ただでさえ、絢斗は目立つのに。


まどかは周囲を見渡す。

思ったよりも注目をされていないようだ。


自意識過剰だったかもしれない。

関係が変わった途端、いつもと変わらない振る舞いでも、周囲の目が気になってしまう。

いかに距離が近かったか分かる。


「……奢ってくれるならね」


「奢る奢る」


「軽いな」


絢斗が嬉しそうだから、まどかも頬が緩んでしまう。


慌てて気を引き締めて、「まだ仕事中でしょうが」とたしなめる。


「じゃあ、迎えに来る」


絢斗はひらひらと手を振り、背を向けて去っていった。


***


まどかが絢斗と食事をしたのは、居酒屋だった。

小上がりの座敷で向かい合って食事をした。


新鮮な刺し身の盛り合わせや、1本ずつ丁寧に手で串打ちした焼き鳥が売りのお店だった。

おいしいのはもちろん、奢りなので、お酒も進んだ。



「ごちそうさま」


お店の外に出て、改めて絢斗にお礼を伝える。

程よいアルコールで、気分がよかった。


「来てくれると思わなかったよ」


「奢りだもん」


「奢りでも前だったら来なかったでしょ?」


「“前だったら”って、こうして誘ってきたことなかったじゃない」


仕事以外で飲むと言えば、同期会くらいだ。


「そうだねぇ」


付き合っていなければ、絢斗はまどかを誘わなかっただろうし、まどかも絢斗の誘いを受け入れなかっただろう。


本当に付き合っていることをじわじわ実感させられる。



「でも、無理して誘ってくれなくていいからね?」


「無理してないけど?」


絢斗の平然とした顔にどきりとする。


あくまできっかけはまどかのためだ。

少しでも本当の彼氏と思ってしまったら、呑み込まれてしまう。何かに。


「まぁ……とにかく! 今回奢ってもらったから、次は奢る」


「奢ってくれるの? いつにする?」


「そんなにすぐ決める?」


「今、気分のいいうちに決めないと、気が変わっちゃうかもしれないじゃん」


「次奢るのは約束したんだから、破らないってば。あたしはそんなに気分屋じゃないんだけど」


「だって、三戸とこんなにスムーズに話が進むことないでしょ? 今日だけかもしんないじゃん」


「……そんなことないから」


ここで日頃の態度が自分に返ってくるとは。


付き合うと決める前の自分なら、そもそも2人きりでの食事もあり得ないと一蹴していただろうし、絢斗が疑心暗鬼になるのも無理はない。



「あ、家、こっちでよかったっけ?」


「え、そうだけど、ここらへんでいいよ」


居酒屋からまどかの家は歩いて帰れないこともない距離だった。


「もうちょっとね……」


何となく話しながら歩いていたが、よく考えれば、絢斗の家からは離れていっているような気がする。

アルコールのせいで、ちゃんと考えられていなかった。


何度か「もういいよ」と伝えるが、その度に「もうちょっと」と言われて、それを繰り返すうちに、自宅であるマンションが目に入ってきてしまった。


「どこのマンション? あ、ここだっけ?」


絢斗はまどかよりも先を歩いて、記憶をたどっているようだった。

確かに、昔、マンションの前まで一緒に来たことがある気がする。送ってくれたのだったか。記憶が曖昧だ。


マンションの前まで着き、痺れを切らしたまどかは、両手の手のひらを前に出して、「さすがにもういいから!」と強い口調で言い、絢斗を制す。


その間も自動ドアが開いたり閉まったりを繰り返している。


「邪魔になっちゃうよ?」


「あんたが早く帰れば済むことでしょうが!」


「ほら、早く早く!」


踏ん張っているまどかの背中を後ろから押してくる。


「馬鹿なことしないで!」


「えぇ? ちょっと休ませてよ」


わざとらしく、子どものように駄々をこねる絢斗は、完全にふざけていた。

こんなところを住人に見られたら、恥ずかしすぎる。


「……あぁっ、もう! 分かったから押さないで!」


急に背中を押される力が弱まり、つんのめりそうになった。


まどかは大きなため息を吐く。


「何もできないよ?」


「いいよ。ちょっとゆっくりできればいいから」


顔を覗き込む絢斗はニヤリと笑っていた。


絢斗の目的は最初から、まどかを家に送ることではなく、家に上がることだったのだ。

早いうちに断固拒否すべきだった。


後悔しても遅い。

後は、いかに早く帰らせるかということに尽力しよう。

そう心に決めた。




「お邪魔しまーす」


普段、1人で過ごす自宅で、絢斗がいる違和感がすごい。


何もしないというのもためらわれた。

何より手持ち無沙汰で、居心地が悪すぎる。


飲み物くらい出しておけば、飲み終わったら帰ってと言えるだろう。

そう思い、キッチンに向かい、冷蔵庫を開けて、絢斗に出せる飲み物を考えていた。


それが仇となってしまった。


「元カレどれ?」


絢斗が唐突な質問を投げかけてきて、どきりとする。


絢斗の方を振り返って見れば、ソファーの横に立ち、何かを見ている。

その“何か”に思い当たって、言葉よりも先に足が動く。


「ちょっと! 勝手に見ないでよ」


まどかは手を伸ばすが、絢斗はひょいと頭の上へと上げてしまい、それは手に届かない。


「同窓会の前に卒業アルバム見てたんだねぇ」


ソファーに置いたままにしていたことを忘れていた。

恥ずかしくていたたまれなくなる。


「時間がなくて見られなかったけどねっ」


誰が来るかだけは把握しておこうと思って、アルバムを出したはいいが、時間がなく、見られていなかった。

嘘ではなかったのだが、絢斗の「へぇ」という顔を見たら、言わなければよかったと下唇を噛んだ。


そもそも絢斗が来る予定などなく、本来なら見られるはずのないものだった。

しかも、普通勝手に見るだろうか。いい大人が。


油断したのか、絢斗と胸の前に下りてくる気配を感じ取り、もう一度、手を伸ばすが、絢斗は踊るようにくるりと背を向けてかわした。

後ろからなら隙がつけると思い、腕だけ伸ばし、掴めたと思ったのに、空を掴んでいた。絢斗は何事もなかったかのように、アルバムを見続けている。


絢斗は後ろにも目があるかのように隙がなくて、腹立たしい。


ムッとしていたら、ふと絢斗が顔を後ろに向けた。

近い距離で顔を見合わせることになる。


「三戸見つけた。幼くて可愛い」


「……見ないでよ」


可愛いなんて言われて、どきりとしてしまうのが嫌だ。顔を隠すように俯いた。


「――で、噂の元カレはどこ?」


「……見てどうするの」


「どうしたいというより、純粋に見たいんだよ」


顔を上げれば、絢斗が見下ろしていた。

ヒールのない分、いつもより顔が遠いはずなのに、絢斗の顔が大きく見える。


「……同じクラスじゃないよ」


「どのクラス?」


まどかは諦めることにした。

小さくため息を吐いて、「貸して」と絢斗に向かって手を出した。


大人しくアルバムを渡してきたので、受け取ってソファーへと移動する。絢斗も後ろについてきて、まどかの隣に座った。


膝の上でアルバムを開いて、理久のクラスのページを開く。そのまま、絢斗に渡した。


一緒に見る気分にはならなかった。絢斗に理久の写真を見ている反応なんて、見られたくなかった。


「イケメンじゃん」


それほど経たないうちに、絢斗が言った。


「誰か知らないでしょ」


「この中で一番イケメンでしょ?」


呆気に取られて絢斗を見つめる。


ニヤリと笑った絢斗が、「この人でしょ?」と指差したのは、理久に違いなかった。

何も言えずに固まっていると、絢斗は「当たったみたいだねぇ」と嬉しそうに言うと、再びアルバムに目を落とす。


「でも、俺の方がイケメンかな」


「……最近の顔は見てないからそうかもね」


今まさに見ている絢斗の横顔に比べて、記憶の中の理久の顔はぼやけている。


絢斗の唇が動く。

その数秒後、何を訊かれたか、やっと頭が理解した。


「何で別れたの?」


デリカシーのない人だ。

あまりにもさらっと訊いてきて、嫌な気持ちはしなかった。

心の奥底では聞いてほしかったのかもしれない。


「……彼、好きな人がいたの。付き合っても全然私のこと見てくれなかったから、別れた」


「ふーん」


聞いたくせに興味がなさそうだ。



「あたしの話聞いたんだから、あんたの話、聞かせなさいよ」


「横暴だなぁ」


「等価交換でしょ」


絢斗はページをめくって、知りもしない人ばかり出てくるアルバムを見続けている。

何が楽しいのか、よく分からない。


何の話を聞き出そうかと考え始めたところで、ふと疑問が浮かぶ。


「……ってかあんた、付き合ってる人、いないよね?」


まどか自身は絢斗から訊かれたので、いないと答えている。しかし、絢斗は違う。


「このタイミングで訊く?」


「え……」


即時否定されなかったので、よぎった不安が現実かもしれないと、思いの外ドスの利いた声が出た。


「いないいない! 彼女なんてしばらくいないよ」


久しぶりに目の合った絢斗は、珍しく焦っていた。


普段の軽い調子の絢斗を見ているから、恋愛関係も真面目には思えなくて、懐疑的に見てしまう。


「彼女じゃなかったらいるってこと?」


「待って。俺、どんなイメージなわけ? それもないよ」


何も言わずにじっとりとした目で見つめていたら、絢斗は苦笑する。


「……すごい目してるね? でも、嘘じゃないよ。そもそも、付き合おうなんて、彼女いるのに言うわけないじゃん」


「……普通はね」


「あ、正確には彼女いるねぇ。今は三戸が彼女じゃん」


「……一応ね」


まどかは絢斗からアルバムを奪い取って閉じ、立ち上がる。

本来あった場所にはまた戻すとして、とりあえず絢斗に触れられないところに移動しておきたかった。


「そう言えば、同窓会のときに口説かれてた男、ちゃんと断ってるよね?」


「え……あぁ……」


「もしかしてキープしてる? 悪い女だねぇ」


「キープなんて、するわけないでしょうが」


背中で聞いていたが、思わず振り向いて反論する。


絢斗はソファーの背もたれから身を乗り出していた。


「でも、断ってなさそうだね? 連絡来て、当たり障りなく返してるってところ?」


まともに取り合うと、損をする。 

アルバムをどこに一時避難させようとキョロキョロする。


「あー、図星だ。俺と付き合い出したんだから、ちゃんと断るんだよ」


――駄目だ。

絢斗のペースで勝手に話が進んでしまう。


ノリ半分で付き合い始めたはずなのに、彼氏の自覚がある絢斗に違和感がある。当然のように彼氏面しており、どう接すべきか分からない。


提案に乗ると決めたなら、まどかも彼女としてふるまうべきだとは思うのだが、気持ちが完全には追いついていない。


「あんたは、あたしと付き合って、メリットあるの?」


「うん。あるよ」


絢斗は即答した。

本気かよく分からない、よく見る笑顔に見える。


あるとしたら、メリットは何なのか。

もしかして、体が目的……?

いやいや、同期として長すぎて、そういう対象として見られるとは思えない。


では、何なのか。理由が全く思い浮かばない。


訊いてしまうかどうか、迷っているうちに、絢斗はソファーから立ち上がった。


「休めたし、そろそろ帰るよ」


結局、アルバムはどこにも置くことなく、抱えたままだった。


「じゃあね」


絢斗はひらひらと手を振って、軽やかな足取りで玄関を後にした。



いなくなってまずはホッとした。


玄関からリビングへと歩いているうちに落ち着いてきて、結局、等価交換ができていないことに思い至った。

まどかだけが元カレについての話をして、絢斗はしていない。全く平等ではなかった。


純粋に絢斗の恋愛について、興味が出てきていた。

聞ける機会は、いつやって来るだろうか――。

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