ⅩⅩⅦ.選んだ終着点①
律騎がめぐみの家を突然訪ねてきてから1週間、曇りが続き、週末は雪だった。
天気予報で大雪だと散々注意喚起されていたが、予報通りに雪が積もった。交通は麻痺していて、どこかに出かけるということもできそうにない。
前日に食料を買い込んでいて正解だった。
家の中でじっとしていると、余計なことを考えてよくない。
先週、律騎が家を出てから、久しぶりに律騎のクリスマスプレゼントのことを思い出し、アルバムなどをしまっている箱の中を開けた。その中には、ブランドの手のひらサイズのポーチがあった。
それは、律騎からもらったクリスマスコフレのポーチだ。
コスメに罪はなかったので、律騎と別れてからも、リップグロスやアイパレット、チークは使っていた。だから、ポーチと使い切っていないネイルポリッシュだけが、めぐみの手元に残っている。
律騎を思い出すものは目の届かないところにやっておきたくて、箱にしまった。
しかし、箱にしまうことで、より特別感が増しているような気がしてならない。
その箱はクローゼットの奥深くに再び埋めた。
雪の日は静かだ。
雪が音を吸収するからだと、どこかで言っていた。
静寂の中、インターホンのチャイムが響く。
既視感があり、すぐに先週の律騎の来訪を思い出した。
まさかこんな雪の日に来るわけがない。
いや、まさか――。
しかし、律騎ならあり得る。
めぐみはゆっくりと玄関に向かい、ドアスコープを覗く。
間違えるはずがない。先週と違うところと言えば、かなり着込んでいて、寒さで震えているところくらいだ。
めぐみは慌ててドアを開けた。
「こんな天気で、よく来たね」
招き入れるか悩む前に、早く家に上げてあげないとと焦っていた。
「電車動いてた?」
「朝は止まってたけど、今は動いてる」
そこまでして、ここに来る必要があるのか。
「部屋の中、あったけぇな」
律騎は部屋に入るなり、そう言って、しばらくコートも脱がなかった。相当寒かったらしい。
余計に、寒い思いをしながら遠い地までわざわざ足を運んだ意味を考えてしまう。
「……何で来たの?」
ようやくコートを脱いだ律騎に問いかけた。
「ホントは外に出かけてデートしたかったんだけど、こんな天気だから、一緒に映画でも観る?」
答えになっていなくて、しかも、問いが返ってきた。
いつものように“めぐに会いたかったから”と言われると思っていたことに気づかされる。
完全にうぬぼれている。
律騎は他にも用事があって、ついでにめぐみの家に寄っていると考える方が自然ではないか。
わざわざこんな悪天候の中、会いたいという理由だけで来るなんて、あり得ない、はずだ。
「映画が乗り気じゃねぇなら、やっぱりゲームか」
「ゲーム?」
律騎はニヤリと口角を上げたかと思うと、傍に置いたリュックのチャックを開ける。
大きなリュックだとは思っていたが、まさかゲーム機が出てくるとは思わなかった。
「そんな重たいもの……」
驚きで言葉を失った。
せめて携帯型のゲーム機であれば、もっと軽く済んだであろうに、据え置き型のゲーム機とは……。
「最近ゲームしてる?」
「あんまり」
「よく考えたら、持ってるよな?」
「携帯できるのはね」
「それ持ってきたら、別に一緒にできたな」
「まぁ……そうだね」
「でも、同じ画面見てやる方がいいしな」
律騎は会話を続けながらもさくさくと手を動かし、ゲーム機のセッティングをしていく。
「何か飲む?」
「飲む飲む。何がある?」
めぐみは冷蔵庫に歩いて行きながら、ふと思い至る。
「あー、コーラがあればよかったね」
さすがに律騎が来ると思わなかったから、準備もできなかったのだが、そう思ってしまう。
「そもそもコーラはまだ好き?」
「好きだよ。昔ほどは飲まないけど」
「そっか」
“好き”という言葉に反応してしまい、どきりとした。
それを隠して平然を装いながら、冷蔵庫の扉を開ける。
「冷たいのなら麦茶。寒いから、あったかいものがいいかな? コーヒー飲む?」
「コーヒーがいい」
「了解」
めぐみは冷蔵庫を閉めて、インスタントコーヒーの元へと向かう。
めぐみは先週コンビニでペットボトルのお茶を買ったが、律騎は缶コーヒーを買っていた。
確か、微糖だったように思う。
「コーヒーってブラック? ミルクと砂糖も入れる?」
電気ポットに水を入れてお湯を沸かし始め、マグカップを2つ用意して、スプーンでインスタントコーヒーを入れる。
「めぐがいつも飲むのと同じので」
「私は気分でミルクも砂糖も入れたり入れなかったりだよ」
「どういう気分で変えるの?」
「甘いもの食べるときはブラックにしたり、お菓子がないときは砂糖たくさん入れたりして……って感じ?」
「今日はどんな気分?」
「んー……甘いのが飲みたいかな」
「じゃ、そうしようぜ」
律騎はキッチンのめぐみを見て、微笑んだ。
ミルクも砂糖もたっぷりと入れたコーヒーを2つ、テーブルに持っていく。
「コーヒー、よく飲むようになったんだね」
すでにゲーム機のセッティングを終えた律騎の隣に腰を下ろす。
「あぁ。昔はコーヒーのよさ、分かんなかったけど、今は手放せねぇな」
「眠いときとかね」
「そうそう。仕事中とか、めっちゃ飲むようになった」
「俺ら、大人になったな」
「そうだね」
律騎とゲームをすることを受け入れていることはもちろん、普通に会話していることが、改めて考えると、おかしかった。
「何のゲームするの?」
「ここら辺とかどう?」
「うわっ、懐かしい」
「だろ?」
テレビ画面に映るゲームの一覧で律騎が示したのは、自分たちが小学生の頃から知っているシリーズのゲームだった。
「最新のにする?」
「でも、協力プレイなら、こっちの方がよくない?」
「めぐがそういうならこっちにする」
「え、これでいいの?」
「めぐが言ったんだろ」
「そうだけど、りつはもうやり込んでるんじゃなくて?」
「いや。忙しくてそんなにやり込めてねぇよ」
律騎はマグカップを持ち上げ、「コーヒーさんきゅーな」と言う。それから、一口口に含む。
「甘っ」
「え、甘すぎた?」
不安になり、めぐみもマグカップを慌てて持ち上げ、口をつける。
言われてみれば、いつもより甘いかもしれない。
「駄目って意味じゃねぇよ。ホッとする甘さでいいな」
「……ならよかった」
律騎が急に声を上げて笑い出すから、めぐみは表情が険しくなる。
「……何?」
「さっきから、探り合いの会話だなって思ってさ」
「……確かに」
会っていなかった5年間の間の律騎を知らない。
律騎も同じようにめぐみのことを知らない。
幼馴染であるから、昔のことはよく知っている。
そのはずなのに、今はたまによく知らない人と話しているような気になる。
「新鮮だな」
律騎もめぐみと同じように思っていたようだ。
急に、腕や脚が触れ合いそうな距離に緊張してきて、動揺した。
テレビ画面に集中しているうちに、どんどんゲームにのめり込んでいった。
白熱すればするほど、熱くなってきて、少し残ったコーヒーが冷たくて、体の火照りを冷ましてくれ、ちょうどよかった。
雪のせいで元々薄暗かった空は、いつもより早く暗くなっていた。
「2人だと楽しいな」
「1人でするのとはまた違うよね」
コントローラーを置いて、自然と笑い合っていた。
律騎といる時間はとても楽しい。
――あぁ、あの頃に戻りたい。
どんなに楽しいことがあって、幸せを感じても、いつだって思い出すのは律騎といるときのことだ。
あのとき以上に幸せにはなれないと、心身ともに実感し、その度に苦しくなった。
幸せの絶頂を忘れられたらどんなに楽だろう。
しかし、忘れられなかった。
こうして、再び律騎に会ってしまったら、手を伸ばしてしまう。
楽しい時間を簡単に手放せなくなってしまう。
「……ねぇ、りつ」
律騎の顔がめぐみの方を向く気配がした。
「急に会いにくるようになったのは何で? ホントは私のこと、忘れてたくせに」
ずっと好きだったと言われても、心の奥底からは信じられなかった。
「俺、忘れたことねぇよ、めぐのこと」
律騎は少しむっとした声で言った。
「……ベルト」
「……え?」
ぼそっと言った言葉は、聞き間違えたかと思うくらい小さい声だった。
「めぐがプレゼントしてくれたベルト、社会人になってから毎日のようにつけてた」
めぐみは驚いて律騎の方を見た。
そうしてほしいと思ってあげたはずなのに、まさかしてくれているとは思わなかったのだ。だって、別れているのだから。
「最近はボロボロになってきたからリペアして、大事に持ってる。今はここぞというときだけつけるようにしてる」
めぐみがまじまじと律騎を見つめていたら、「信じてねぇだろ?」と言ってスマホを取り出した律騎が、何手順か操作して、写真を見せてきた。
そこに写っているのは、暗めのブラウンのシンプルな本皮のベルトで、間違いなく、めぐみが律騎にあげたクリスマスプレゼントのベルトだった。
「修理に出す前に写真撮ってたやつ。ちゃんと使ってるだろ」
「うん……」
革の傷みやバックルの細かい傷から、何年も使っていることは見てとれた。
「買った方が安かったんじゃ……?」
「そうだな。安いだろうな」
律騎はフッと笑う。
「でも、これは特別だから、捨てられなかった」
まるでベルトがそこにあるかのように、スマホを大事そうに両手で包むように握る。
律騎の視線がめぐみの顔に向いたことに気づいて、おもむろに目を合わせた。
「めぐからもらったものだからだよ」
心臓が早鐘のように打っている。
何度もごまかそうとしても、律騎の思いはめぐみと全く違うとは思えなかった。
どうあがいても、逃げられないと思ってしまう。
「卒業前の俺は、めぐの言う通り、ちゃんとめぐと向き合えてなかったと思う。めぐと付き合えたことで安心して、仕事のことばっか考えて、疎かになってた」
律騎はめぐみと会っていない間にも、色々なことを考えた様子が見てとれた。
「めぐと会えなかった間、めぐに会えたとき、仕事のできる男でありたかった。だから、仕事を頑張った。2年働いたら会えるかもしれねぇと思って、でも会えなくて、3年4年、それから5年、結婚式でやっとまともに会えて話せた」
めぐみはよかれと思って別れを選んだ。別れた後も会おうとしないことで、律騎を傷つけていたのだと、改めて思い知らされる。
「会えたら、めぐのこと好きだって気持ちが抑えられなくなった。めぐにとっては急だったかもしれない。でも、俺にとっては、ずっと望んでたことなんだ」
息が混じった荒々しい語気に、めぐみは圧倒された。
ずっと好きだったと言う律騎の言葉に、全く嘘はみられない。
どうしてその気持ちを自分は真っ直ぐ受け止められないのか。
律騎はめぐみに向き直り、姿勢を正す。
めぐみも生半可な気持ちでは聞けないと、反射的に背筋を伸ばした。
「今なら、仕事も慣れてきて、仕事を疎かにせず、めぐみの気持ちにも寄り添える。5年で俺は、大学生の頃よりずっと大人になったから」
大学生のときよりも凛々しい顔つきに、黒ぐろとした髪色は、確かに大人に見えた。
「もし、遠距離なのを心配してるんだったら大丈夫だ」
「“大丈夫”……?」
やけに自信満々に言い切るから、めぐみは引っかかる。
「これからはもっと頻繁に来るから」
「無理でしょ」
「いや、無理じゃない」
さすがに、新幹線で平日の仕事終わりにここまで来られるわけがない。よくて週末だけになるはずだ。
律騎のためらいのなさに、疑問符がいくつも浮かぶ。
「実は、転勤が決まったんだ」
「……え?」
「ここからすぐ近く。だから、引っ越してくるよ」
“転勤”、“引っ越し”という、予想外の単語が出てきて、すぐに理解が及ばない。頭の中をその単語がただぐるぐるとしている。
「今日、内見の予定だったけど、この雪だろ? 明日になったんだよ」
“内見”という単語も出てきて、少しずつ状況を呑み込めてくる。
「社宅じゃないの?」
社宅かどうかなんて、今はそんなに重要なことでもないはずなのに、動転しているからか、律騎は寮に住んでいたことを思い出し、とっさに訊いていた。
「近くの社宅が老朽化してるから住めないんだって。 そもそも通おうと思えば実家から通えるから、どっちにしろ住めなかったんだけど」
「あー、そうなんだ……。実家から通わないの?」
「通えるって言っても、遠いだろ?」
「そっか……。そうだよね」
律騎が近くで一人暮らしを始める。
そしたら、頻繁に会いにくるというのは、できないことではない。
「……ってことは、明日もこっちに来るの?」
「そうだな」
「え、ちょっと待って。この雪なら、内見なくなるの、事前に分かってたよね? 何で今日来た、の……」
最後まで言い切る前に、ハッとした。
律騎の視線が熱く、今にも言い出しそうなことが何となく予期できて、身構える前に律騎が言葉を発した。
「――あわよくば、めぐに泊まらせてもらおうと思った」
胸をギュッと掴まれたようだった。
律騎を家に上げたのは、大雪で寒さの厳しい外よりも、家の中で温まってほしかったから。
その後、帰すでもなく、日が暮れるまで一緒にゲームをしたのだって、雪のせいだ。
それなら、交通機関の乱れた今、夜に律騎を帰すのは、どうなのだろう。
雪のせいにして泊めるべきのように思う。
しかし、ここで泊めてしまうのは、違う意味を持ってしまう。
「……ずるいよ」
俯くめぐみは、消え入りそうな声で呟いた。
「ごめん。大丈夫。めぐの優しさにつけ込もうとした。いきなり無理だって分かってたから。こうやって一緒に過ごせただけでもよかった。ホテル探すな」
明るく振る舞う律騎の声が、妙に部屋の中に響いて聞こえた。
律騎はスマホに触れている。
宣言通りホテルを探しているのだろうと思われた。
「ゲームはまた来るから置いといていいよな?」
スマホの画面に視線を落とす律騎を見る。
当然だが、視線が合わない。
「ごめん」
「いいよ。急に来て泊まらせろなんて、厚かましいよな」
めぐみは首を横に振った。
「違う……違うの」
「何が?」
律騎の視線はまだスマホにあった。
「ずるいのは私。雪のせいにして、りつと一緒にいること正当化して、付き合えないって言い切れないのに、中途半端な対応してる」
何もかも雪のせいにしているが、全ての理由は、ただ律騎と一緒にいたかったからだ。
「ずるい者同士だな」
律騎の優しい言葉に、めぐみの涙腺は緩み、視界がぶわっと涙でにじんだ。
顔を背けて口元を手で覆う。
「何だよ、泣くなよ」
律騎はスマホをテーブルに置いて、めぐみの方を向き、おろおろとし始める。
「俺、諦めろって言ったけど、めぐが付き合いたくねぇって言うなら、無理に付き合うつもりはねぇからな」
律騎はめぐみが律騎と付き合いたくないと思っているのだ。
多分、友達としてい続けたいと思っていると、ひしひしと感じる。
涙が止まらなくて、言葉が上手く出てこなくて、ただ首を振るだけになっている。
律騎は遠慮がちにめぐみの背中に手を伸ばし、優しくさする。その手のぬくもりに、じんわりと心が温かくなる。
「ゆっくりでいいから、話して」
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、めぐみは腹をくくった。
「りつが来てくれて嬉しかった。こんな雪だから、絶対来ないと思ってたから余計に」
律騎のめぐみの背中を撫でる手が止まる。
「私、りつと過ごす時間が好き。今日も楽しかった」
「俺も楽しかった」
めぐみは指の腹で頬を伝った涙を拭う。
そして、律騎に向き直る。
「何よりりつが好き。一生会わないより、付き合いたい」
律騎の手がめぐみの体から力なく離れる。
「……友達としてじゃなく?」
律騎の不安が見える。
めぐみは相互理解を諦めるつもりはなかった。
「友達になんか戻れないでしょ、私たち」
律騎がかつて言った言葉をなぞるように答える。
「私、友達に触れたいなんて、ましてや触れてほしいなんて、思わないもん」
律騎が瞬きを繰り返す。
驚かせるようなことを言った自覚はある。
恥ずかしくて目を逸らしたくなるが、歯を噛み締め、何とか耐える。
「りつと5年もちゃんと会ってなかったの、後悔してる。でも、会ってなかった5年間のりつを知れると思ったら楽しいかもとも思ってる」
後は律騎の反応を待ちたいのに、何も返ってこないので、不安になり、何か話さねばと焦る。
しかし、何を言っても“好き”の一点に集約されてしまい、これ以上何を言っても蛇足になってしまう。
「――俺も、めぐのこと、もっと深く知りたい」
「りつ……」
「付き合ったからってもう油断しない。今度は絶対、めぐが俺と別れたいなんて思わせない」
「……うん」
「めぐには寂しい思いをさせるかもしれない。でも、嬉しい思いもたくさんさせる。付き合ってよかったって思わせる」
「……すごい自信」
めぐみは視線を外し、口元を緩めた。
律騎が「笑うなよ」と言う言葉に被せるように「でも」と言う。
「――……そういうところも好き」
目が合った次の瞬間には、強く抱き締められていて、律騎の顔が見えなくなっていた。
腕の力強さのせいなのか、勇気を出して“好き”と言ったせいなのか、心が焦がれる。
昔より腕は太くなり、胸板も厚くなった気がする。
そう思うと、より胸が高鳴る。
ずっと求めていた律騎は、想像していたよりも大人になっていて、いいにおいがした。
「めぐ」
律騎の体が離れ、息が触れるほどの近い距離で見つめ合う。
「付き合ってください」
「……はい」
微笑み合って、どちらかともなく、額をこつんと触れ合わせた。
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