ⅩⅩⅥ.元カレの来襲②

――思わず、家に上げるかたちになってしまった。


めぐみの提案に、律騎は勢いよく顔を上げ、目を大きく見開いて、めぐみを見つめてきた。

ドキドキしながら、律騎の返事を待てば、律騎は遠慮がちに頷いた。



家の中は静まり返っていた。

誰もいないから当たり前なのだが、無性に落ち着かなくなって、何か喋らなければと思う。


「微妙な時間だね。お昼、何か食べてから食べる?」


後ろについて、家に上がっているはずの律騎から、返答が得られない。


「そんな時間ないか。帰るもんね」


「別に予定もない。すぐに帰らなくていい」


勝手に完結させようとしたら、ようやく律騎からの反応があった。


「そっか……」


「あぁ」


「……昨日の残りの豚汁ならすぐ出せるけど……」


「食う。久しぶりのめぐの手料理、食いたい」


「……分かった。準備する」


食い気味に答えがあってホッとする反面、どっと緊張してきた。

めぐみは冷蔵庫にケーキを入れて、食事の準備を始める。



「めぐの部屋、あんまり変わってねぇな」


「そうかな?」


確かに、大幅に部屋のイメージを変えそうなカーテンも大学生のときと変わっていないし、家具の配置もほぼ同じだ。

物は増えたが、全体的なイメージは変わらないのかもしれない。


律騎は手伝うと申し出たが、残り物を温めるだけで、特にしてもらうことはなかったので、座って待つようにお願いした。


アジの南蛮漬けもあることを伝えれば、律騎はますます笑顔になったので、めぐみはお皿に並々とよそった。

グラスに麦茶を注ぎながら、コンビニで律騎はコーラではなく、コーヒーを買っていたことを、はたと思い出す。


ただ単に、コーヒーの気分だったのか、はたまた、コーラはあまり飲まなくなったのか。

本当のところが、今のめぐみには分からない。



テーブルを挟んで向かい合って座り、少し早い昼食を摂る。


「うまい」


律騎は一口食べるや否や、開口一番にそう言った。


その後は、喋る間も惜しんで次々に口に運び、あっという間に平らげる勢いだった。


律騎が自分の手料理をおいしそうに食べる姿を見るのは、至福の時間だったと思い出す。

思わず、手を止めて、律騎の姿を見つめ続けてしまう。


「まだあるよ。食べる?」


純粋に律騎の笑顔が見たいのだな、と思う。

そこに邪な気持ちは、ないはずだ。


「食う。でも、自分でよそう。一緒に食おうぜ」 


「……分かった」


めぐみは律騎に誘われるがまま、箸を南蛮漬けに伸ばした。


お腹いっぱい食事を摂ってしまったが、心配しなくてもケーキは別腹で、ぺろりと食べてしまった。



律騎はケーキを食べてもなお、帰る気配を見せなかった。

片付けも全て終わって、家に上がる口実であったケーキはもうないのに、ただ座って、時が経つのを待っている状態だった。


めぐみも、帰れとは言えず、何とも言えない空気が流れていた。


視線は合わず、ぎこちなく、さすがに気まずくて、帰るきっかけを与えるべきだと思い始めた。


「帰るの、時間かかるでしょ? 早く出た方がいいんじゃない?」


「もう帰れって?」


「そうは言ってないけど……」


「じゃ、まだいる」


用事はないのに居座るなんて、付き合ってもいないのに、変ではないだろうか。

いや、恋人同士でなくても、友達であれば、おかしいことでも何でもない。


しかし、友達というには、微妙な関係になってしまっていた。



「めぐ」


無理にでも帰すべきだった。

律騎に名前を呼ばれて、後悔した。


「――こないだ答えてもらってない質問があったよな?」


目だけを横に逸らし、何とか耐え忍ぶ。

目を見たら、引き込まれそうな気がしたのだ。


「めぐは今、付き合ってるやついねぇの?」


「……いるって思ってるのに押しかけてるの?」


「いねぇんだ?」


「……いない、けど……」


素直に答えられないのは、どこかで律騎とどうにかなりたいと、期待しているところもあるのかもしれない。

完全に言い切れないところが、はっきりしない感情を表していた。


「じゃ、俺にもチャンスがあるわけだ」


ガッツポーズをしそうなくらいの勢いで、嬉しさを隠そうともしない。


律騎は変わらなかった。

分かりやすく、真っ直ぐ伝えてくれる。


そんなところがずっと好きだった。

好きな頃の律騎がちゃんとそこに存在していた。


話を逸らすこともできただろう。

何も答えずに追い出すこともできただろう。


それなのに、そのまま部屋にいることを受け入れたのは、久しぶりの初恋の人との対面に、浮かれて、調子に乗っていたのかもしれない。



「りつは……私と付き合いたいの?」


「付き合いたいよ」


めぐみが振り絞って出した問いに、律騎は当然のごとく即時言い切った。


「友達に戻るってことは……」


「――友達には戻れねぇよ」


潔さに、感服した。


これほどまでに長い間、距離を置かれていたというのに、律騎はその相手に、好機を逃すまいと、ここぞとばかりに向かってくる。


「めぐも分かってるから、俺から離れようとしてんだろ?」


律騎がじわじわと詰め寄ってくる。


めぐみは両膝を立てて、膝を抱えるようにして、小さくなる。

身を守るようにしながら、律騎と距離を置こうとした。


それなのに、律騎は遠慮なく、めぐみの傍へと近づいてきた。


めぐみの向かいで同じような格好をしたかと思うと、脚を割り、めぐみの体を脚で挟むようにし、腕を伸ばして抱き込むように座った。


お互いの脚が密着し、身動きが取れない。

あまりの近さに息が詰まる。


陽生は“会わないか付き合うかって、どっちかにする必要ないんだから”と言ったが、律騎はそれを認めてくれそうもなかった。

めぐみと律騎の間では、どちらかしか選べないようだ。


「俺、めぐに会わない間、会ったら腹立つのかなとも思ってた。あんな一方的に別れ切り出されて、悲しいとか、そういうのも通り越してさ」


律騎がフッと笑った。


「でも、一番は嬉しかった。会えて嬉しくて、やっぱり好きだって思った。こんなに誰かのこと、思い続けたことなかった」


心臓が痛いほどに拍動している。

律騎にくっつかれても、拒否することなく受け入れないのが、答えなのだと思う。


「めぐはずっと俺のことを好きでいてくれたこと、思い出した。何年も好きでいるって、こんなに苦しいんだな。そう思ったら、よりめぐのことを愛しいと思ったんだよ」


めぐみの腕に触れていた律騎の手が、めぐみの顔へと動く気配がして、反射的に身を引いた。

だからか、その手は顔に届くことなく、ラグへと落ちた。


傷ついた表情が視界に入り、胸がぐっと掴まれたように苦しくなった。


「……馬鹿だよ。りつは馬鹿」


「は?」


絞り出した声は小さくかすれていたが、律騎の耳にはきちんと届いていて、不満の声が返ってきた。


「――こんな私のこと、嫌いになればいいのに」


律騎は息を呑んだ。


まともに律騎の顔が見られない。

こんな体勢で、逃げられないのに、言ってしまったことを後悔した。


先ほどから小さな後悔ばかり重ねている。


「俺も大概だけど、めぐも頑なだな。こっちは好きって言ってんだよ。何が“嫌いになればいいのに”だよ」


律騎は大げさに思えるくらいの大きなため息をもらした。


「めぐは俺のこと、嫌いになった?」


切なげな声に、めぐみの心は揺さぶられる。


嫌いになったなんて、嘘でも言えない。

嫌いどころか、好きだと改めて実感しているのに。


めぐみはゆるゆると首を振った。


「……嫌いになんかなれないよ」


一度好きになった人だ。しかも、初恋なのだから。


初恋の人と一時期でも付き合えただけで、かなり幸せだと思う。

幸せな思い出として、心のうちに大事に温めておくことはできないのだろうか。



「――じゃ、好き?」


律騎の手が俯いた視界に入ってきて、頬に触れるのを受け入れた。


頬を滑るように触れる手は意思を持って動く。

記憶の中のぼんやりとした情景が一気にはっきりと色づいてよみがえる。


こんなふうに優しく触れてもらったのは5年も前のことなのに、つい最近のことのように覚えている。


――苦しい。


好きだと答えて、抱きついて、抱き締めてと言って、結ばれたなら、幸せに違いない。


しかし、幸せの先には不幸もある。


また同じ過ちを繰り返すのか――。


口ごもり、沈黙を貫くめぐみに、律騎は言葉を続けた。


「めぐは俺が頑固だって知ってるだろ? 俺は絶対にもう引かない。諦めたりしない。めぐが諦めてくれ」


強い言葉だったが、その中に甘さがちらついていて、たまらなくなった。



律騎はそれ以上、めぐみから何か言葉を引き出そうとはせず、「また来る」と言って、風のごとくあっさりと去っていった。

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