ⅩⅨ.理想と現実の狭間③


「――急にどうしたの?」


生乾きの髪を後ろに束ねて結って、慌てて玄関に出れば、律騎が立っていた。


「会いたくてきた」


「だから、連絡してきてよ」


連絡してくれていたら、お風呂に入るタイミングだって考えて、ドライヤーの途中でドアを開けることはしなかった。


「急に会いたくなったからしょうがないだろ」


そう言われたら何も言い返せない。


「ケーキ買ってきたから、一緒に食べようぜ」


許してしまうから、律騎が連絡せずに何度も来てしまうのだ。すぐに許してしまう自分が情けない。


めぐみはため息を1つ吐いた後、うっすらと微笑んで律騎を迎え入れた。


「先に髪乾かしてくる」


「途中だった?」


「うん」


「俺が乾かそうか?」


「自分でした方が早いから、大丈夫」


「そう」


律騎はすんなりと引き下がった。


律騎に髪など乾かされたら、心臓がいくらあっても足りない。

めぐみはホッとして、洗面台の方へと向かった。



そろそろ終わろうとしたとき、律騎が顔を覗かせた。

律騎の顔を見て、反射的にドライヤーの電源をオフにする。


「やっぱり暇だから手伝う」


「え、もう終わったよ」


「じゃ、ケーキだな」


律騎はくるりと身を翻してキッチンの方へと戻っていく。


めぐみはドライヤーを片付けてから、律騎の後を追う。

めぐみが戻ると、律騎がテーブルの上にケーキを出しているところだった。


どうやらコンビニで買ったケーキらしい。

いちごの載ったショートケーキと、チョコレートケーキが並んでいる。


「どっちがいい?」


「りつは? 買ってきたりつが選んで」


「俺はどっちでもいいと思って買ってきたから、めぐが選んでよ」


「じゃあ……チョコレートケーキがいい」


「おっけー」


律騎はめぐみの答えがもらえたことに満足そうに微笑んだ。


「飲み物、麦茶くらいしかないけど、いい?」


「あぁ」


めぐみは2つのグラスに麦茶を注ぎ、テーブルへと運ぶ。


律騎はビニールに入ったプラスチックのスプーンをめぐみの分も取り出して待っていた。

グラスとスプーンをお互いにお礼を言って受け取り合う。


「ケーキなんて買ってどうしたの?」


「何もなくめぐん家来るのは気が引けたから」


「えぇ?」


「めぐは絶対理由訊くだろ? 理由があった方が安心かと思ったんだよ」


確かに、理由がなくても来ていいと口では言っても、理由がなければ何か理由があるのではと疑心暗鬼になりそうだ。


「……私のこと、よく分かってる」


律騎は片側の口角を上げて笑った。



律騎の買ってきたチョコレートケーキは、チョコレートクリームの中に生チョコが入っていて、とても食べごたえがあった。


「めぐ」


「ん?」


おいしさを噛み締めていたら、律騎がスプーンの上にケーキを一口分載せて、めぐみの方へと差し出していた。


「……え?」


「あーん」


「え、いや……」


「いらない?」


めぐみの目は律騎とスプーンを行き来する。


これはどうするのが正解なのか。

正解は、受け入れて食べることだとは思う。


「やっぱりあげない、とかしねぇから」


律騎の言葉で、そのパターンもあったな、と気づく。


どんどん食べることに対しての抵抗が強くなる。

ぱくりと食べてしまえたらどんなによかっただろう。


「……いらないかぁ」


律騎はめぐみが固まっているのを見て諦めた。

すブーンは律騎の口の中へと入っていった。


「……ごめん」


「何で謝るんだよ?」


「……ちゃんと甘えられなくて」


「いいよ。謝られた方が辛いから」


「それはごめん……」


彼女らしいことができない。

照れるというのももちろんあるが、変な顔をしていないだろうかとか、どこかで律騎に嫌われないように振る舞おうとしている。



「……りつ、映画観にいったときに、“友達みたいな感じっていいな”って言ったの、覚えてる?」


「言ったか?」


「うん。だから、一般的な彼女のイメージをなぞるようなことするのも違うのかなって思ったり、でも、今まで通りでいいのかなとも思うし……」


「めぐ」


話すうちに俯く角度が深くなっていためぐみは、律騎に名前を呼ばれて、ハッと顔を上げた。


「考えすぎ。めぐはめぐのまま、傍にいてくれたらいいって言ったろ? めぐらしくいてくれたらいい。俺らは型にはまるような関係じゃねぇんだ」


「……うん」


――幼馴染は結ばれない。

その理由を、今まさに実感している。


友達と彼女は違う。

いきなり友達から彼女に切り替えるのは難しい。

だから、そもそも幼馴染を彼女にする気にならないのだ。


「こないだ、キス、めぐからしてくれただろ」


思い出すと、頬がカッと熱くなる。

どうして自分からキスができたのか、不思議に思うくらい、今は恥ずかしい。


ときどき、律騎が傷つくのではと思うと、照れも何もかも後回しで、本音も話せるし、キスもできる。


「めぐは友達とキスすんのか?」


「そんな……するわけない」


それは極端だ。

友達とキスしないから、キスした人は友達じゃない。

それは事実かもしれないが、必ずしもそうとは言えない。異例もあるだろう。


「俺らは友達でもあるけど、周りの友達とは違う。付き合ってもいんだよ」


友達か彼女か、どちらかを選ばなくていいのかもしれない。

“型にはまるような関係”を目指す必要などないのだ。


「……あーでも、はるとはキスしたんだもんな?」


「な、何言って……」


律騎はケーキの最後の一口をスプーンですくって食べた。唇についたクリームを舌でぺろりと舐め上げる。


その舌はいちごのように赤く、唇は湿っている。

律騎の仕草1つひとつが、めぐみの視線を奪う。


「はるのことでは動揺するんだな。もっと純粋に俺で動揺してほしいんだけど?」


今まさに、律騎の仕草で動揺しているのに。

律騎は少し的外れだった。


「近づかないようにしてるかと思ったら、急に抱き締めてきたり、キスしてきたりして、めぐはどうしたいの?」


律騎はめぐみに近づき、めぐみの持っていたスプーンを取り上げ、ケーキを載せたお皿に置いた。


それから、固まったままの、スプーンを持っていためぐみの手を掴むと、包み込むように握ってみたり、指を絡めて握ってみたりと、もてあそび出す。

めぐみの意識は、触れ合う手に集中した。


「俺ら、同意の上、付き合ってんだよ? 彼女に手出さねぇほど、枯れてねぇんだわ」


繋がる手を見ていた律騎の目が、ふとめぐみの目を貫くように見た。

とくんと胸が跳ねるのとほぼ同時に、律騎の手がめぐみの服の中に侵入してきて、腰の辺りを撫でた。


ぴくりと反応して、身をよじるが、律騎は撫でるのを止めない。

律騎の手は温かく、めぐみの肌にも違和感なく馴染むから、困ってしまう。


「付き合ってるんだったらやることやってんだろ? はるとどこまでした? 泊まってたよな?」


「だっ、だから、それは……」


律騎の手はするりと腰から背中に移動し、抱き寄せられるかたちになる。


「顔真っ赤。そんなに動揺するんだな。マジでどこまでしたか気になってくるな」


顔が赤くなっているのは、陽生の話をされたからではない。律騎に触れられているからだ。


陽生は先見の明があったのかもしれない。


“めぐが、いずれりつと付き合えたとして、俺と寝た過去が、邪魔にならない?”


付き合い始めた頃、そう訊いてきたから、めぐみは“そもそもりつとは付き合えないって”と答えたことがあった。


あの返答が嘘のようだ。

今は陽生と体を重ねなくてよかったと、心から安堵している。



「めぐ」


耳元で囁かれると、もう駄目だった。 声にならない吐息が漏れる。


律騎の顔が見られない。


――近い。近すぎる。

メイクもしていない顔は、火照りを全く隠せない。


身動きが取れないでいると、急に視界が動く。

次の瞬間には、天井をバックにした律騎に見下ろされていた。


勢いよく押し倒されたが、後頭部は律騎の手によって守られていて、痛みは全く感じなかった。


「ちょ、ちょっと待って!」


同じように、ここで陽生に押し倒されたとき、陽生は“りつでも流されたか”と訊いてきた。

流されずに一旦抵抗するよと、当時の陽生には答えたいと思う。


「あ、ここじゃ駄目だよな」


「へ?」


律騎は体を起こし、めぐみの膝下に手を差し込んで、めぐみをひょいと抱え上げてしまった。

慌てて律騎の首に腕を回して、落ちないようにバランスを取る。


律騎は重い様子も見せず、軽々と抱えて、ベッドに足を向けた。


ベッドに下ろされて、そういうことじゃないと言おうとしたのに、組み敷かれて、あっという間に唇を奪われた。

渇望していた唇は、反射的に律騎のキスに応じてしまう。 起きているときよりも深い口付けに、息遣いは簡単に乱れる。


唇が離れたと思うと、息が触れるほどの近さに、律騎の顔はあった。


「何ではると付き合ったんだよ。それなら最初から俺と付き合えばよかったのに」


悔しさの混じる声に、ドキッとする。

思っていた以上に、律騎は嫉妬しているようだった。


「付き合ってたって言っても、はるとはこんなことしてないよ。キスだって……んっ……」


キスが言葉を呑み込んだ。


「――言うな」


鋭い視線がめぐみを見下ろしていた。


「き、訊いたのはりつじゃん。りつはいつも自分勝手で強引だよね」


律騎は分かりやすくむっとしている。


「そうだな。俺ははるみたいに優しくねぇよ」


「だから、そんなこと言ってないじゃん」


売り言葉に買い言葉だ。

喧嘩みたいになるのは嫌だったのに。


「そんな俺を好きになったのは誰だよ」


自分勝手で強引。


裏を返せば、積極的で意思が強い。

自分の気持ちに嘘を吐かない。

周りから何と言われようと、貫き通す。


そんな律騎が好きだ。


「……そうだよ。はるじゃなくて、りつが好きで、りつを選んだんだよ」


真っ直ぐな律騎といると、自分も素直にならなければと思う。律騎に呑み込まれないためには、強くあらなければならない。


「……俺でいいんだよな?」


声がわずかに震え、目が揺れていた。


律騎はいつも自信満々なわけではない。

極稀に弱いところを見せてくる。


陽生と付き合い始めてから、律騎との関係が変わり、弱い律騎を見る場面が増えた。


「……ずるいよ」


律騎の頬に手を伸ばし、優しく触れる。

そのままこめかみから後頭部にかけて、髪をすくように撫でた。


「りつが嫌なら、この状況、受け入れてない」


結局、許してしまう。

勝手に嫉妬して、勝手に感情をぶつけられて、怒ってもいいくらいなのに。


律騎は一瞬目を見張ったが、頬を緩めた。

その顔がかっこよすぎて、言葉を失い、ただただ見惚れた。



「――じゃ、このまま進めていいってことだな」


「そ、そうは言ってない!」


律騎はめぐみの首筋に顔を埋めて、キスをしている。


リップ音がする度に、触覚と聴覚に訴えかけられ、我を失いそうになる。

そして、このまま流されてもいいような気になってくる。


――いや、流されては駄目だ。

律騎の肩を掴み、押し返す。


「そんなつもりじゃなかったから、色々と準備が……」


律騎は全く動じることなく、ぴくりともしない。

今一度、力を振り絞り、思い切り押してみる。


「りつに抱かれるなら完璧がいいの。幻滅されたら嫌だもん」


「今さらしない」


ギュッと目を瞑って押し続けていたら、律騎がじっとめぐみを見下ろしていることに気づくのが遅れた。


「ってか、何でも言うのな」


「あ……嫌だね、こういうの」


つい、あけすけに言いすぎた。

律騎は恥じらうくらいの方がよかっただろうか。


「いや、そんなことねぇよ。悟ってほしいと振る舞われるよりずっといい」


油断した隙に律騎の両手はめぐみの両手をそれぞれ絡み取り、ベッドに縫い付けるようにする。

めぐみの脚の間に脚を入れられ、完全に身動きが取れなくなった。


律騎は額にキスを落とすと、めぐみの反応を見ながら、瞼や鼻、顎と、順番にキスをしていく。

愛おしいと思う感情が伝わってきて、落ち着かなくなる。


最後は唇にたどり着くのかと思ったら、耳元へと移動し、律騎はめぐみの耳たぶを噛んだ。

甘い刺激に、肌が粟立つ。


2人分の体重で、少しでも動けば、その度にベッドは軋んだ。その音が妙に耳に残る。


律騎の片手がめぐみの手を解放した。

それから、優しく髪を撫でる。

目を細め、その手のぬくもりに、全てを委ねてしまいたくなる。



「――あぁっ!」


急に大声を出したので、さすがに律騎も怯み、その隙に律騎を片手で強く押して、起き上がった。


「やっぱり駄目! 心の準備が足りない!」


繋がっていたもう一方の手も離れた。


律騎は横向きに寝そべり、片肘をつき、頭を支えて、めぐみを観察するように見ている。

ことの成り行きを見守ることにしたようだ。


「その心の準備とやらは、いつできるわけ?」


「それは……」


いつできるかなんて分からない。

もしかしたら永遠にできないかもしれないし……。


もごもごとして、律騎を見ることもできない。


「じゃ、決めてたらいいのか? いつがいい?」


「“いつがいい”って……」


決められて嬉しい――とはならない。

いざ決められるとなったら、決められない。


取り乱しているうちに、律騎は起き上がり、あぐらをかいた。


「よし。クリスマスにするか」


「え?」


「あー、いや遠すぎるな」


律騎は再び悩み始めた。


律騎の提案のクリスマスは、1ヶ月後だ。


1ヶ月もあれば、準備は整えられるだろう。

1週間後と言われるよりは、1ヶ月後の方がいい。


「――いいよ、クリスマスね。二言なしよ」


勝手に近い日にちに決められるよりは、クリスマスに決まった方がいい。自分が優位に話を進めるには、そうした方がいいと直感的に思い、早口にまくし立てた。


「……分かった、そうする」


少し不服そうな顔の律騎が、体を前に倒した。


かと思うと、その顔がめぐみの肩口に近づく。

状況が読めないうちに、律騎はめぐみの部屋着の丸首に指を引っ掛けて引っ張ると、そこにかぶりついた。


「ちょ……んんっ」


甘い痛みが走る。抵抗する間もなく、ざらりと舌の這う感触を最後に、律騎の顔が上がり、目が合う。


「これ見る度に思い出して。覚悟しとけよ」


挑戦的で扇情的な表情は、めぐみを固まらせるには十分だった。思考が一時的に停止する。


「……ちょ、ちょっと、もしかして痕つけた? 見えそうなところにつけないでよ」


ハッとして発した声は上ずっていた。


“見る度に”と律騎は言うが、自分からは絶妙に見えない。鏡を見る度に思い出しはしそうだった。


「見えないところならいいの?」


律騎は馬鹿なふりをして、めぐみの服をまくり上げるから、めぐみのお腹がさらされる。


「ちょっとっ!」


「めぐ、ずっとそればっかり」


「りつがそういうことばっかりするからじゃん」


笑いながら言うから、むっとして言い返す。


律騎は特に気にもせず、へその辺りを撫でたかと思うと、「ここも見にくいな」と言って、めぐみの左手を掴み上げた。それから、袖を肘下までまくった。


「こっちがいいな」


律騎は片側の口角を上げて笑うと、薄く開いた唇の間から赤い舌を覗かせ、これ見よがしに手首の内側に唇を寄せた。


律騎の目はめぐみの目を捉え続けていて、妖しく誘ってくる。

薄い皮膚は吸い上げられて、痛みを生む。

痛みは気にならなかった。手首に口づける仕草は官能的で美しく、目を離せず、その痛みはめぐみをより高ぶらせるだけだった。


「いい感じ」


唇を離した律騎は、白い肌に浮かぶ赤みを見つめ、満足そうに微笑んだ。

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