ⅩⅢ.夢か現実か①
「――実は、俺、結婚することになった」
口はえの形を作っていたが、言葉は発されなかった。
上手く息が吸えない。
平衡感覚が乱れ、上手く立っていられない。
立つことに必死になり、目の前の律騎が何か喋っている気がするのに、耳が遠い。
めまいがして、倒れそうになり、思わず腰を落とし、膝をつく。
深呼吸をしようと息を吸うが、やはり上手く息が吸えない。胸を手でぐっと押さえる。
耳に蓋をされたように、律騎の声はくぐもって聞こえる。
急に、音が明瞭に聞こえた。
それなのに、律騎の言葉は頭で理解ができない。
それなのに、それなのに。
「それに、来年、子どもが産まれる予定」
その言葉だけが、めぐみの耳から脳に伝達され、めぐみの思考力を奪ってしまった。
その後は、その言葉が頭をぐるぐると回って、視界もぐるぐると回って、床に倒れ込んだ。
床に体が磁石でくっついてしまったように、体が床から離れる気がしなかった。
ギュッと目を閉じれば、視界が暗くなって、より平衡感覚がなくなって、少しずつ全身の感覚を取り戻していく。
硬いと思っていた床は柔らかくて、力を入れれば沈み込む感覚があった。
ゆっくりと目を開けても、先程のような明るさはなく、薄暗い。
瞬きを何度か繰り返し、今まで寝ていたことに思い至る。
「……夢……?」
カーテンの隙間からは光が差し込むこともなく、まだ日の出をする気配すらない。どうやら時は未明らしい。
――……最悪だ。
またすぐに眠りにつける気がしない。
目を閉じるが、頭痛がして頭を抱えた。
これは完全に、友達から急に連絡があり、子どもができて結婚すると聞いたせいだ。
律騎の話ではない。
それなのにどうして律騎の顔で再生されたのだろう。
“りつと付き合いたいなら別れる”
陽生の言葉が頭に流れる。
もし、律騎と付き合いたいと思って、付き合ったとする。
いや、付き合える想像がつかない。
自分以外の人と付き合うことは想像がつくのだ。いつもと変わらないのだから。
しかし、自分がとなると、途端に想像が難しくなる。
律騎が結婚して、子どもが生まれたとしたら、どうだろう。同じように思えるだろうか。
絶対に、めぐみも陽生も、律騎の一番ではなくなるだろう。妻子が一番、二番と続くのなら、三番目か四番目になるかもしれない。もしかしたら、もっと下の可能性だってある。
律騎の妻にとっては、目障りになってしまうかもしれないのだ。物理的に会えなくなるかもしれない。
もし陽生と付き合い続けたら、律騎と会うことはできそうな気がする。
ただ、妻子のいる律騎と、どんな気持ちで向き合うのだろうか。
――とまで考え始めて、完全に目が冴えてしまった。
大きなため息を吐き、とりあえず寝返りを打った。
*
口に含んだホットカフェモカの、ほどよいコーヒーの苦みとチョコレートの甘さが口の中で混じる。
顔を上げて、真正面に座る音羽と目を合わせる。
音羽はうふふと微笑んだ。
おそらくめぐみも音羽と同じような顔をしていただろう。
店内のBGMにヒーリングミュージックが流れているのも相まって、心が癒やされていく。
以前から音羽との卒業旅行の計画を立てていたが、ようやく大体の日時の目処をつけ、旅行代理店に2人で訪ねた帰りであった。
旅行の話はカフェに入る前までに十分話したこともあり、早々に別の話題になった。
隣のカウンターに座っていたらカップルらしき2人組のことだった。
沈黙が訪れる度に、彼らの会話が耳に入ってきて、気になっていたのだ。めぐみだけかと思っていたが、音羽も同じだったらしい。
「意見が違ったら、結構大きな声できつめに言い合ってるから心配になって、つい聞き耳立てちゃった」
「そうそう。でも、聞いてみたら、心配することなかったね」
「うん。遠慮しないで何でも言い合える関係って、すごくいいよね」
音羽は思い出しているらしく、手を合わせて指を絡めると、その上に顎を置いた。そのポーズが可愛らしく、めぐみは口元が綻ぶ。
彼らは、言い争っていたかと思うと、最後は笑い合っていた。何でも受け入れてもらえると信じているから、ちゃんと意見をぶつけられるのだ。こういう愛のかたちもあるのだなと知った。
「私ね、高校生のとき、先生のことが好きだったんだ」
「え?」
音羽がぽつりとこぼした言葉が意外で、すぐに理解ができなかった。
「……そ、そうなの?」
「叶わない恋だよ。見てるだけでよかったの」
音羽は俯いているから表情が見えない。声からは全てを汲み取れない。
「――なんてね。そう思わないと辛かったから、そう思うようにしてただけ」
上がった顔は、困ったように笑っていた。
「そしたらね、別の女の先生の妊娠が分かったの。蓋を開けたら、私が好きだった先生との子どもだった」
過去の話と割り切ってはいるようだが、言葉の端々に苦々しさが滲んでいる。
「辛かったよ。どんどんお腹が大きくなって、それとともに幸せオーラが増していくのを見るの。見てるだけでよかったはずなのに、見るのが辛くなってくんだから」
「それは、辛いね……」
想像するだけで辛い。
先生となると、見たくなくても見なければならない。授業をサボるわけにはいかないのだから。
「どうであれ、先生だから、行動したって何にもならなかったと思う。迷惑かけるだけだったはず。でも、不倫とか禁断の恋じゃなければ、できる限り行動した方がいいと思うんだ」
そう言い切った音羽は、真っ直ぐにめぐみの目を見据えた。
音羽には全て話したわけではないのに、分かった上で話しているようだった。
律騎に思いをぶつけるのが、辛い状況から抜け出すための、一番の方法なのだろうか。
めぐみはカフェモカを再び口に含む。
初めの一口よりも、心持ち苦みを感じた。
*
音羽と別れて自宅に帰ってきて、荷物を置くなり、ラグにへたり込み、テーブルに顔を突っ伏した。
何もやる気にならなかった。
思っていたよりも、体は疲れを感じていたらしい。
自宅に帰ってきて、張っていた気が緩み、倦怠感が体を襲う。
――これは、これから悪くなるやつだ。
体調を崩す前兆に違いないと思うと、寒気も感じる気がしてくる。
悪夢にうなされ、寝不足だったせいで、休養が足りなかったのだろう。今日は散々である。
目を閉じてどれだけ経ったか。
かすかな音が耳に入り、めぐみはバッグに手を伸ばし、手探りする。振動するものに手が当たり、それを掴み上げた。
そのスマホをテーブルに置いて、突っ伏したまま、顔を横に向けて画面を見る。
表示されていた名前は、律騎だった。
めぐみは飛び上がるほど驚いた。
一気に覚醒して、スマホを持っておろおろとしてしまう。
あれだけ律騎の前で大泣きして、律騎もどうしていいか分からず戸惑っていたのだ。律騎もめぐみに会いにくいだろうと思っていたのに。律騎の方からわざわざ電話をしてくるなんて、考えもしなかった。
おろおろとしているうちに、スマホの振動は止まった。
ホッとした反面、気もそぞろだった。
やはり出るべきだったかもしれない。
後悔をしたが、すぐに気持ちを切り替える。
急ぎならまた連絡も来るはずだ。
時間が経ってから、気づかなかったとメッセージでも送っておけばいい。
そう思い込んで、何とか後悔を押し込んだ。
意識がはっきりとした今、シャワーだけでも浴びようと、重い体をゆるゆると動かす。
いつもより時間をかけてシャワーを浴び、髪を乾かした。
夜はもう薄暗い。そろそろ日が暮れるだろう。
体は温まったはずなのに、寒気がひどくなった気がする。
毛布を被り、眠りにつこうとベッドに入って、目を瞑る。何だか鼻がむずむずして、喉もいがいがし始めたようにも思う。
そんなとき、来客を告げるインターホンのチャイムが鳴った。
誰かが家に来ると、連絡はもらっていない。知り合いが来るはずがない。何かの勧誘かもしれない。
もう一度、チャイムが鳴った。
「……あ」
めぐみは一人の人物が頭に浮かんでいた。
連絡があった人がいたではないか。
じれったそうに、チャイムが二度鳴る。
――あぁ。彼なら何度もチャイムを鳴らしそうである。
ほぼ確信を持ち、ここからどうするか、迷う。
部屋の電気は消している。居留守を使えばいい。
しかし、それでもチャイムは何度も鳴っているのだ。すぐに諦めるだろうか。
そもそも、何度もチャイムを鳴らすということは、困っているのかもしれない。
めぐみは最後のチャイムを合図に、ベッドから抜け出た。
「やっと出た……!」
玄関のドアを開けたら、想像していた通り律騎の姿があった。
「どうしたの? 突然」
そのまま家の中に入ってきそうな勢いに気圧されながらも問う。
「電話したけど出ないから」
「それは……ごめん」
こんなことなら、悩まず電話に出るべきだった。後の祭りである。
「エアコンが壊れて、マジで寒くて死にそうで、泊めてもらおうかと思って来た」
「……へ?」
氷点下というわけではない。
11月頭の最低気温なんて、たかが知れている。
何でまた、めぐみの家に泊まるという発想になったのか、重たい頭では考えられなかった。
「お願い」
両手を合わせるポーズを取ったかと思うと、めぐみの隙をついてそのまま足を踏み込もうとする。
「駄目! まだ耐えられない寒さじゃないでしょ。毛布被って寝なさい。毛布がないならうちにあるの貸すから」
きっぱりと引導を渡して、ドアを閉めようとする。
力の入らない腕では成功するはずもなく、律騎の片手で簡単に止められてしまう。
「何で駄目なわけ?」
「……ちょっと調子が悪くて、これから熱が出そうな感じがするの」
「は?」
「りつにうつしたくないの」
律騎は一瞬怯んだように見えたが、ムッとした顔に変わる。
「出てもない熱に遠慮させられるのは嫌だ」
「何言って……」
「俺が看病してやる。つきっきりで」
そう宣言して、今度こそ家の中へと入ってきた。
「駄目だって!」
律騎が本気になれば、めぐみは止められない。胸板を押すがびくともせず、むしろ押し込められ、簡単に侵入を許してしまった。
めぐみの横をすり抜けて部屋に入った律騎は、早々に上着を脱いだ。
「あったけぇ。暑いくらいだな」
律騎の後ろを覚束ない足取りで歩く。
振り向いた律騎は固まったまま、めぐみがリビングに着くのを待っていた。
「……寒いのか?」
「……うん」
認めたくはなかったが、諦めるまで否定し続ける体力がなかった。
「何か食べた?」
首を横に振ると、「具合悪いのに食べてねぇのかよ」と呆れた顔をされた。
「何か買ってくるから、待ってな」
そう言った律騎の表情はとても優しくて、心臓がキュッとした。
ベッドに横になっていたら、律騎がカサカサと音を立てながら帰ってきた。
律騎はめぐみの枕元に跪き、買ってきたものを見せてくれる。
「風邪薬は飲んだ?」
めぐみが首を横に振れば、「食べてから飲もうか」と言う。
「適当に食器使うよ」
「うん」
律騎はレトルトのおかゆをお椀に入れて、レンジで温めて、ベッドまで運んできてくれた。
めぐみは体を起こして、律騎を迎える。
「あったまってるか? むしろ熱いか?」
スプーンでおかゆを混ぜ、めぐみにお椀を差し出す。
「ありがと。食べてみる」
めぐみはお椀を受け取って、スプーンで一口すくって口に運ぶ。
「……どう?」
「ちょうどいい」
熱くもなく、冷たくもなく、即座に食べるにはちょうどよい温度だった。
「もっとあっためた方がよかったか?」
「ううん。これでいい」
律騎は安堵の笑みを浮かべた。
「俺、とりあえず家でシャワー浴びてくる」
「……ホントに泊まるつもり?」
「あぁ」
律騎は、ベッドの横のデスクに、スポーツドリンクのペットボトルと水の入ったグラス、風邪薬を置いて、外へと出ていってしまった。
見られながら食べるのは遠慮したかったので、律騎がいなくなってくれて安心したのだが、戻ってくるとなると話は別だ。
おかゆを食べ終え、風邪薬を水で流し込み、またベッドの中へと潜り込む。
横になり、熱が上がっていると感じる。
帰ってきたときよりも、関節痛も倦怠感も増していた。
薬の効果を期待して眠るのが最善だ。
しかし、眠ろうにも、律騎が戻ってくると思うと、気になって眠れそうにない。
目を瞑って眠りに落ちるのを待っていると、ガチャリとドアの開閉音が耳に入る。どうやら律騎が戻ってきたようだった。
律騎はリビングの電気を最小限の明かりでつけ、足音を立てず、ベッドまでやって来た。
「寝た?」
律騎は小さな声で問う。寝ていたらと考えた上での配慮だろう。
「……まだ」
寝たふりをするつもりもなかったので答えたが、上手く声が出ず、枯れていた。
「調子はどう?」
「……よくはない」
屈んだ律騎の手が伸びてきて、額に手のひらが添えられる。
「熱いな」
律騎の手はシャワーを浴びてきていたからか温かくて、まるで自分と同化したように思える。しかし、それはすぐに離れてしまった。
律騎はお椀とグラスをキッチンのシンクへと下げ、何かの箱を持って戻ってきた。
「気休めだけど、貼るか?」
律騎の手に掲げられた箱は冷却シートだった。
「……うん」
律騎がシートを箱から出して粘着面のフィルムを剥がそうとしているのに気づき、「自分で貼るよ」と慌てて申し出た。
「いいから。大人しくしてろ」
律騎はめぐみの伸ばした手を振り切り、フィルムを全て剥がしてしまった。
後は貼り終わるのをじっと待つだけだった。
律騎の手が前髪を避け、額を露わにする。律騎は慎重に片方の隅からシートを貼る。冷たいと一瞬思って、剥がされることを数度繰り返し、シートは額に綺麗に貼られた。
「できた……!」
「ありがと」
律騎は周りに目を配ると、デスクに置かれたペットボトルに目を止める。
「喉渇いてないか?」
「渇いたら自分で飲むよ」
「今飲むなら、蓋開けるぞ?」
「大丈夫だって」
あまりの甲斐甲斐しさに苦笑してしまう。
素直に嬉しいと思えばいいかもしれないが、弱ったところは見られたくない。
毛布を口元まで引っ張り上げる。
律騎は「寒いか?」と気にする。
「ねぇ、もういいよ。私のことは気にしなくて」
「何言ってんの」
「私のせいで、りつが風邪引いたら嫌だよ」
すっぴんなんて何度も見られていて、今更気にはならないし、泣き顔も何度も見られているせいで、具合の悪い顔の方がマシな気がするくらいだ。
だから、律騎が自分のせいで体調を崩して苦しむことが、めぐみにとって一番避けたいことだった。
「うつせばいい」
「え……?」
「風邪、俺にうつせばいいって言ってんの」
低音のかすれた声は耳心地がいい。
優しさの中に苛立ちが含まれているような、違和感も覚えた。
瞬きの速度はゆっくりになって、目の開いている時間がどんどん減っていっている。
ぼーっとするせいで、その違和感の理由を検討することができなかった。
「どうやって……?」
会話は続けなければという無意識の意地で、そう訊けば、律騎はフッと笑ったかと思うと、真顔になった。
それから冷却シートが貼れているか確認するように、シートの上から撫でる。その手の感触に意識が集中して、警戒が解けていた。
「――こうやって」
律騎の顔が不意に近づいて、頬を手が這う感触があったかと思うと、口元を覆っていた毛布は、律騎の手によって鎖骨辺りまで下ろされる。
次の瞬間、唇に何か柔らかなものが触れた。
めぐみの唇をかすめたのは、律騎の唇だった。
毛布が下ろされ、心許なくなった首元に右手を覆うように被せた。
――あれ、これって夢だっけ。
熱のせいで、見てはいけないものを見ているのだろうか。
めぐみの顔を覆い被さるように覗き込む律騎の顔は、影がかかり、よく見えない。
ただ、律騎に戸惑いを感じられないことに、めぐみはひどくうろたえた。
お酒の匂いもしない。風邪を引いているわけでもない。
それなのに、律騎はキスをした。意図的に。
熱がまた一段と上がったような気がした。
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