Ⅶ.湧き立つ支配欲

――こいつ、俺のこと好きだな。

そう思ったことが一度だけある。


高校受験も終わった頃、休日に陽生の家でゲームをすることになった。

律騎は先に陽生の家についていて、めぐみに飲み物を買ってきてほしいと頼んだら、何を買ってきてほしいとは言わなかったのに、めぐみは当たり前のようにコーラを買ってきた。


「りつはこのメーカーのコーラが一番好きだよね」


めぐみの言う通りだった。

教えたことはなかったのに。


「どんだけ俺のこと好きなんだよ」


呟くように言ったら、めぐみは顔を背けた。


その顔が真っ赤に染まっていたから、ひどく驚いた。

そして、その顔から目を離せなくなった。


しかし、めぐみが律騎を好きだと思ったのは、そのとき限りだった。


それ以降、微塵も思うことはなく、自分の思い違いだと思い至った。


めぐみが何でも分かったように先回りして接してくれるのも、長年の付き合いで培ったものにすぎず、特別なものではない。何より、めぐみにはいつも彼氏がいた。

勘違いだと思うのが、筋ではないか。


どうしてか、それを今、久しぶりに思い出した。




律騎は、自宅で幼馴染である陽生とめぐみの3人とカレーを食べた後、お酒を飲んで過ごしていた。

終電間近になり、陽生が出ていき、めぐみだけが残った。部屋に2人きりだ。


それはそこまで特別なことではない。

今までにこういう状況は、なくはなかった。


ただ、めぐみがここまで酔っていたことはなかった。めぐみがこれほどまでに酔うのだと、初めて知ったのだ。


眠たいながらも、陽生が出ていったのは、ちゃんと覚えている。


陽生が帰るというのを、めぐみが引き留めていた。

めぐみは物分りのいいところがあると思っていたのに、陽生にはあんなふうに甘えるのだと、少しびっくりした。


元々そうなのか、それとも付き合い出したからなのか。

それは分からないけれど、とにかくいい気分でなかったのは確かだ。


その後、陽生は「よろしく」と言って、姿を消した。


何だよ。彼氏気取りしやがって。

……いやいや。正真正銘彼氏なのだ。


今でも信じられない気持ちの方が大きい。


3人の幼馴染の中で、2人が付き合うということが、あるものなのか。

そもそも、幼馴染3人がずっと大学まで一緒にいること自体が稀すぎて、周りに例がない。分からないで当然のように思える。



めぐみはテレビを見ながら、缶チューハイをちびちびと飲み進めていた。その背中を見つめる。


ふんわりとした袖から白く細い腕が伸び、スカートは捲れ上がり、腕よりも白く、柔らかそうな太ももが露わになっている。


視線を感じ取られたのだろうか。

めぐみが不意に振り向くから、どきりとした。


「りつ、起きたの?」


眠いのか、その目はとろんとしている。


「りつもこっちで飲もうよ」


手招きされるがまま、めぐみの傍に寄る。


テーブルを挟んだ向かいに座ろうとしたが、めぐみに手を引っ張られた。お酒を飲んでいるというのに、思ったよりも引っ張る力が強くて、抵抗もしないまま、隣に落ち着いた。


「もうぬるくなっちゃったかな」


めぐみはそう言いながら、テーブルに置いたままのハイボールの缶を律騎に差し出してきた。

受け取ると、ハイボールは缶の3分の1くらいは残っていそうだった。


「乾ぱ〜い」


無理やり缶で乾杯をさせられ、口をつければ、やはりぬるくてあまりおいしくなかった。


めぐみは残り少ないのか、上を向いて飲み干そうと躍起になっている。


その首筋は、噛みつきたくなるほど、白く細かった。

お酒の中に混じる特有の甘い香りのせいもあるかもしれない。惑わされている。


幼馴染とは言え、異性なのだと、まざまざと見せつけられる。

思ったよりも女として見られることに、妙な気分になった。


陽生は、幼馴染を恋愛対象として見る気になったのだな、と少し驚いていたが、驚くことではなかった。自分もそういう目で見ることはできると分かったからだ。


空になった缶をテーブルに置いためぐみは、律騎の視線に気づいた。


「そんなに見ないで」


お酒で赤い顔をより赤くして恥じらう姿は、正直そそるものがあった。


「何で?」


「……その目、何だか嫌だ」


男として意識されているのだ。

気持ちが高ぶるのを感じる。


律騎の前でのめぐみは、感情があまり見えず、したたかで、動じることなどなかった。

それは年齢を重ねるほど顕著になった。

思ったことを素直に口にしているとは思うが、一枚隔たりがあって、上手く感情をセーブしているように、律騎は感じていた。


しかし、陽生の前では違ったのだろう。

律騎には物分りのいい友達を演じて、陽生にはわがままを言う。

それが、幼馴染から彼氏になる男の違いなのだ。


「何で嫌?」


「……分かんない」


顔を背けても、耳は見える。

それは真っ赤に染まっていた。


「こっち見ろよ」


「からかわないでよ……」


言葉とは裏腹、力なく消えるような声だった。


駄目だ。

友達の彼女だというのに、歯止めが利きそうにない。


テーブルの上に置かれためぐみの手に、律騎は自分の手を重ねた。


めぐみはハッとして律騎を見た。


めぐみはもう乱れまくりだった。

陽生と付き合うようになって、綻び始めた感情をセーブする機能が、アルコールによって完全に解かれている。


付き合い始めたと言うのに、ほとんど変わらないように見える幼馴染の2人が、本当に付き合っているのか、確かめたかったのか。

3人のうち1人だけ置いていかれることが寂しかったのか。


ただただ、乱れためぐみを見たかっただけなのか。


確実に分かることは、めぐみを馬鹿にできないほど、律騎もお酒に呑まれていることだ。



潤む目に吸い込まれるように、顔を近づける。

唇を寄せれば、触れる前に噛みつかれた。


「痛っ」


醒めるような痛みが下唇に走る。


距離を置いて見ためぐみの顔は、初めて見る戸惑った顔をしていた。


――この顔が見たかった。


律騎は舌なめずりをした。

鉄の味が口内に広がる。


それでも、律騎は不敵に笑っていた。



めぐみが陽生からの電話を取って捲し立てたが、反応が返ってこず、不安になっていたら、陽生は穏やかな声色で「直接聞くから待ってな」と言った。


陽生は言った通り、それほど時間を置かず、めぐみの家の近くまで飛んできてくれた。

家で会うと、律騎と遭遇する可能性が高いので、近くのファミレスで会うことにした。


ファミレスで約8時間振りに会った陽生は、普段と何も変わらなかった。めぐみや律騎とは違い、二日酔いなどしていないようだった。


朝食とドリンクバーを注文し、まずは陽生が来るまでにいくらか整理できた話をした。


「なるほどね……」


陽生はアイスコーヒーを飲みながら、どこか他人事にも見えるように言った。


「はるがいたときって、りつって寝てたよね?」


「あぁ」


「はるを見送ったところくらいまでは覚えてて、その後は断片的で、起きたりつと乾杯した記憶はあるんだけど……」


「唇の傷の原因は分かんないんだ?」


「う、うん……」


めぐみはコンソメスープを口に含む。

二日酔いに優しい味だ。


「ホントに?」


陽生はめぐみの些細な変化にも気づく男である。

逸らした目を捉えようと、じっと見つめてくる。


「いや……分かんないのはホント。でも、可能性として考えられることは、あるじゃん?」


目が合わせられない。

第三者である陽生に、その可能性を指摘されたら、ぐうの音も出なくなる。

だから、せめて他の可能性を指摘してくれないだろうかと願う。


「――めぐが噛みついたとかね」


「ゔぅ……」


願いも虚しく、まさに考えていたことを軽い調子で言葉にされ、机に突っ伏し、呻くしかなかった。


乾燥して切れたのなら、縦に切れるはずだが、その傷は横方向に2本できて見えた。

自分で噛んだなら、めぐみのせいとは言わない。

めぐみのせいだとしたら、めぐみが噛んだということではないか。


「何で噛みついたりなんてしたんだろ。私、酔ってはるにキスしたことないよね?」


「ないね。もうこれは、りつに直接訊くしかないな」


「どうやって訊くの? 私がキスしようとしたかって訊くの? 無理でしょ」


一度は上げた顔を再びテーブルへと落とす。


「私はりつを好きだから、りつにキスする可能性はあっても、私のこと何とも思ってないりつが私にキスする可能性って皆無じゃない?」


「まぁ、そうかもな」


「だとしたら、やっぱり私のせいだよね?」


「……どうかな」


陽生は何か考え事をしているのか、さっきまでじっと見つめてきたのが嘘のように、視線が合わなくなった。

こういうときは、冷静な陽生が頼もしいよりも腹立たしい。


「あー! はるが帰ったときに私も帰ればよかったんだよね。何でそのままいたんだろ。はるも提案してくれればよかったのに」


キッと睨むが、陽生は全くたじろぐ様子はない。

むしろ、何か言いたそうにしていて、身構えた。


「提案したところで、全部飲み切ってなかったからまだ帰らないって言ったでしょ?」


「……それはそう、かも」


「それに、同じアパートだろ? 普通帰ると思うじゃん」


「……そう、だよね」


陽生の言うことは正論だ。

正論なのだが、欲しいのはそれではない。


「ね、ちょっと面倒くさいと思ってない? 本気で考えてくれてる?」


「考えてるよ」


「彼女が別の男とキスしたかもしれない話、してるのに?」


陽生はグラスをテーブルに置き、めぐみの顔を見た。

めぐみは思わず身を引いた。


「……それ、今のめぐが言う?」


“彼女が別の男とキスしたかもしれない話”を、彼氏に開けっ広げに話すのは、倫理的ではないだろう。

陽生のことをめぐみが悪く言うことはできないではないか。


「……まぁ、彼氏にする話じゃないとは百も承知なんですけど……」


「そうだよな。配慮にかけるよな。キスしたかもしれなくて、泊まって帰って、よくもまあ強気でいられるな」


「……ごめんなさい」


完全に幼馴染として、今まで通りの関係として接していた。彼氏と思って話してなんかいなかった。


しかし、今のやり取りは、本当に付き合っているように、自然なやり取りで、不思議な感覚だ。


短い間に色々なことが起こりすぎている。

神様は乗り越えられない試練は与えないというが、これは乗り越えられる試練なのだろうか。


今まで、陽生の前で酔って醜態をさらすことはあっても、律騎の前ではあまり飲まないようにして、できる限り酔わないようにしていた。

それだけでなく、律騎にはお酒に弱いとも強いとも言わず、一緒に飲めて、悪酔いしない人だと思われるように振る舞っていた。

その努力が、最悪のかたちで水の泡になってしまった。


「あーもうっ! 元はと言えば、はるのせいだからね!」


一度はしおらしく振る舞ってみたが、駄目だった。

声を荒げたら、もう止まらない。思っていることを全て撒き散らしたくなった。


「何が? 俺、何もしてないじゃん」


「は、はるが、ああいうこと、するから……。それで、お酒飲みすぎちゃったんたからね!」


「“ああいうこと”? 手を繋いだだけじゃ?」


「だけじゃない! あんな……いやらしい触り方をしといてよく言う」


言い始めたはいいものの、声は尻すぼみになった。


やはり言うべきではなかったかもしれない。

後悔しても遅かった。


「へぇ。めぐはそう思ったんだ」


恐る恐る顔を上げて見た陽生はニヤリと口角を上げ、怖いくらいだった。


完全に墓穴を掘った。めぐみの顔は赤くなる。


なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだ。

両手で顔を隠しても、目の前から陽生は消えない。


その反応も楽しんでいるのか、陽生はクックッと笑う。


「こないだ、キスしとけばよかったかな」


「なっ……」


目を見開いて陽生を見る。


飄々としていて、腹立たしくて、何か言ってやろうと思ったが、墓穴を掘りそうだったので、言葉を呑み込むように、スープを呷った。



めぐみが起きて動く気配で、律騎は目が覚めた。

ただ、眠気の方が強く、完全に目は覚めていなかった。


完全に覚めたのは、めぐみが律騎の唇の傷に気づいたときだ。

昨夜の出来事は現実だったのだと、その傷がついたときの痛みを思い出したからだ。


さも眠そうにベッドに寝転んだまま、軽く手を振ってめぐみを見送ったが、眠くなどなかった。

幼馴染に、しかも、幼馴染の彼女に手を出そうとしたのだ。酔っていたとは言え、罪悪感や後悔がないわけがない。


しかも、幼馴染の彼氏からメッセージが送られてきた。会って話したいことがある、と。


完全に詰んだ。

何の用件かは書かれていないが、めぐみの件だろう。


それから落ち着かなくなって、かと言って何かをする気にもなれず、重たい体をベッドに沈めている間に、インターホンのチャイムがなった。


「――めぐにキスしたの?」


陽生は玄関に入ると、開口一番切り出した。


「もう聞いてるんだ?」


想定していたはずなのに、喉が渇いて上手く言葉が引っかかっている感じがする。


「めぐにそう聞いたわけ?」


「いや。めぐは覚えてない。りつがキスしようとしたんじゃないかと、俺が思った」


めぐは覚えていなかったのか。

少しホッとする。


忘れてくれた方がお互いのためだ。


「正解。キスしようとしたら噛まれた」


「……ざまあみろ」


陽生の声色が凄みのあるもので、彼氏なのだと実感させられる。


「マジで付き合ってんだ」


律騎はハハッと笑った。


「今回は付き合ってると思ってなかったからってことにしとく。これからはそんなことするなよ」


「次はないってか」


ないに決まっている。

そう思うのに、めぐみの反応が忘れられなくて、自分を完全に制御できる自信がなかった。


あれは、本当に迫ったら駄目な反応だったのだろうか。完全な拒否ではなかったように思うのだ。

考えれば考えるほど、甘い考えが生まれそうになる。


「――幼馴染じゃなく、女に見えた?」


「……は?」


「彼女がいなくて、欲が出た?」


陽生に責められるのはもうごめんだった。

言われなくても分かっているから、分かったような口を利かないでほしい。


――なんて、勝手すぎるか。

悪いことをしたのは自分だろう。


「悪かったって」


陽生のわざとらしく大きなため息が降ってきた。


陽生は普段から感情を露わにするタイプではなく、特に負の感情はいまいち見えないことが多いため、どきりとしてしまう。


「謝られたいわけじゃない。めぐが嫌だったとしたら、めぐに謝ったらいい」


めぐみは陽生に嫌だったとは話してはないらしい。

そもそもめぐみがどれだけ覚えているかが分からない。


「急に付き合うことになって、りつには気まずい思いをさせて、悪いと思ってる」


「それこそ謝ることじゃねぇだろ」


「……そうだな」


陽生の表情は曇っている。

下唇を噛んだと思えば、唇を薄く開ける。それを何度か繰り返す。


何かを言おうとしているのは分かった。

聞かない方がいい気がしたが、律騎の二日酔いの頭では上手く遮る言葉が出てこない。



「…………りつはめぐのこと、どう思ってる?」


「……は?」


正論を言ったかと思えば、突拍子のないことを言い出す。


「これから大学卒業した後、どういう関係でいたい? めぐだけでなく、俺とも。俺ら、そういうこと、考えるタイミングなんだと思う」


今の今までそんな話をしていたか

的外れに思えて、首を傾げてしまう。


「とりあえず、昨日のこと、めぐと話した方がいい。何があったか、ちゃんと覚えてないみたいだから」


「いいのかよ、話して」


今の発言は、敵に塩を送るようなものではないだろうか。


「話さずに気まずいままでいるつもりか?」


陽生がどういうつもりか分からない。

彼女にキスしたと言う男と、彼女が話し合うのを勧めるのは、普通なのだろうか。

幼馴染が幼馴染と話し合うのを勧めるのとはわけが違うのではないか。


その話の中で、めぐみを手に入れたいと思ったら、陽生は彼氏の座を譲ってくれるつもりなのか。


そんなわけがない。

そもそも、めぐみの彼氏になりたいと思っているわけではなかった。


我ながら最低だ。

酔っていたとは言え、衝動的にめぐみにキスしようとするなんて。


「俺は、りつとは変わらず仲良くしたいと思ってるよ」


それはどういう意味だよ。

仲良くしたいから、キスのことはなかったことにして、めぐみに変な気を起こすなという牽制なのか。


最後まで、陽生の考えていることが分からなかった。

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