Ⅲ.新しい彼氏

バイト先のコンビニには、めぐみをバイトに誘ってくれた岩城いわき店長を始め、優しい人ばかりだ。


その中でも、めぐみがよくシフトが一緒になる女性がいる。

既婚であり、昼間のシフトに入ることが多い、片山かたやま唯衣ゆいだ。


「唯衣さん。実家帰られたんじゃなかったんですか?」


「あー、実家帰ってもすることなくて、予定より早く帰ってきたの」


唯衣の夫が1週間の出張で家を空けるので、その間、唯衣は実家に帰ると聞いていたのだ。

それなのに、唯衣は1週間も経たずに、めぐみと同じシフトに入っている。


「私だったら、1週間目一杯、だらだらして、たまに友達と会って、だらだらしますよ」


「めぐちゃんが帰ってきたら、ご家族はみんな嬉しいでしょうね。でも、私は家を出て10年も経ついい大人だから、あんまり喜ばれないのよ。だらだらしてたら色々言われるし、そう居心地いいものでもないの」


「そんなものですか?」


そうだとしたら、寂しい。

唯衣が淡々と語るから、それがますます寂しさに拍車をかける。


「うん。それに、急に地元に帰って会える友達って、なかなかいないのよ」


「信じられないって顔、してるわね」


「連絡はたまに取るって友達は結構いるけど、定期的に会う時間を作って会う友達は1人くらいよ」


「え、ホントですか?」


「うん。だって、環境も変わるから。同じ学校に通ってるわけじゃない。職場も違う。日勤か夜勤か、土日休みか平日休みか、結婚してるかしてないか、子どもがいるかいないか。人それぞれで、予定なんてなかなか合わなくなる。気遣ってたら連絡も取りにくくて、全然会えなくなる」


「なるほど……」


大学生のめぐみには実感がまだ湧かない。

しかし、大学生になって、地元の友達と距離ができたように感じるので、何となく分かる気がした。


「それでも会ってる友達1人は、多分、おばあちゃんになっても仲良くしてると思う」


「そのお友達さんと、いい関係なんですね」


「そうね。大切にしたい友達よ」


寂しいと思ったけれど、大切な友達が1人でもいれば、寂しくなんてないと思えた。



「めぐちゃんとはるくんとりつくんも、仲良しだけど、大学卒業したら離れ離れになっちゃうんだよね? 就職先は、さすがに別だったもんね」


「……そうですね」


3人とも就職先が決まり、就活を終えている。


律騎と陽生はどちらだろう。

気を遣って、次第に会えなくなる友達か。

それとも、時間を作ってまで会う友達か。


後者でありたい。


そう思うのは、めぐみだけかもしれない。

それに、思うだけでは、叶わないものはたくさんあると知っている。


考えれば簡単に分かることだった。

考えたくないことから目を逸して、考えることを先送りにしていただけだ。


大学までずっと同じ学校に通い、一緒にいるのが当たり前だった。

でも、大学を卒業して、就職先が異なれば、今まで通りに会うことはできないだろう。


新しいコミュニティもできる。

幼馴染よりも、職場での関係を優先させないわけがない。


他に大事な人ができて、それでも幼馴染として、律騎の一番としていられるのだろうか。


ここまで来たら、もう執着なんだろう。

好きとか、そういう生易しいものじゃない。長い時間をかけて、いびつに成長してしまった。


この気持ちを受け入れてもらえるわけがない。

受け入れてもらうほど、図々しくもない。


それなら、この気持ちはどうすればいい。


消してしまえばいいのか。

いや、簡単に消えるものだったら、とっくに消えているに違いない。


いつまでこの気持ちを持て余すのだろう。



「めぐみ。聞いてるの?」


「へ?」


おやつどきの学食は、人が少ない。

同じテーブルに、同じ学科の友達3人と座り、他愛もない話をするにはもってこいだった。


めぐみは、昨日の唯衣との話が頭から離れなくて、気づけばそのことばかり思い出して、ぼーっとしていたから、友達に名前を呼ばれたことに、すぐに気づけなかった。


「最近、彼氏とはどうなの?」


そう言えば、このメンバーには話していなかった。

むしろ、陽生以外にはまだ話していない。


「別れた」


「え、嘘」


「嘘じゃないよ。元々好きじゃなかったから、こうなるべくしてなったと思う」


「彼氏がベタ惚れだったもんね」


「……結局、本気じゃなかったんだよ」


めぐみはボソッと呟くように言った。

コーヒーの入ったプラスチックのカップに刺さったストローに触れ、指でくるくると回す。


「あ……」


友達の様子がおかしいと思い、顔を上げれば、視線がめぐみの後ろに集中していた。


振り向けば、律騎が立っていた。


いつからいた?

どこからどこまで聞かれていた?


結構大きい声で話してしまっていた気がする。

気が動転し、変な汗がじわりと滲む。


居ても立っても居られなくて、反射的に立ち上がる。

自然と友達の視線がめぐみに集まった。


立ち上がったのはいいものの、何も考えていなかった。


「……よ、用事、思い出した」


何とか言葉を絞り出して、めぐみは律騎の隣をすり抜け、外へと駆け出した。


最悪だ。

絶対、律騎に嫌われた。幻滅された。

顔は見ていないが、絶対にそうだ。


「待てよ。めぐ!」


どんなに全速力で走っても、逃げ切れないことは分かっていた。それでも、走る足を止められない。


「おい!」


声がすぐ後ろで聞こえたタイミングで、手首を掴まれた。

掴まれても走るほど、諦めが悪くはなかった。


こんなふうに律騎に触れられることなんてないから、こんなときなのに、どきりとしてしまう。

そんな自分が嫌だ。全速力で走ったからだと思いたい。


律騎はめぐみが逃げる気がないと分かったからか、手を離して、くるりとめぐみの前へと移動した。


「忘れ物」


律騎はコーヒーを持っていた。

さっきまでめぐみが飲んでいたものだ。

そう言えば、テーブルに置いたまま、走ってきてしまっていた。


「……ありがと」


きまりが悪く、律騎の顔はちらりと見ただけで、指が触れないように意識しながら、コーヒーを受け取った。



「……彼氏と上手くいってないのか?」


「どうしたの、珍しくお節介なんだから」


気を遣って遠慮がちな律騎を見たら、反発したくなった。


「何だよ、その言い方。心配してんだよ」


むしゃくしゃしているのが、言葉の端々から伝わる。

律騎からここまで分かりやすく心配されることなんて、そうないことだ。本当に心配してくれているのだろう。


よくよく考えれば、別に律騎と付き合いたいわけじゃないのだ。それなら、別によく思われなくてもいいではないか。


友達だったら許せる、みたいなこともあるはずだ。

聞かれてしまったのだ。時は戻せない。


もう自棄やけだ。


「……本命とは叶わないから諦めて、好きって言ってくれる人と付き合うことの、何が悪いの?」


つい言ってしまう。

本音は一部だけこぼすと、ズルズルと出てきてしまうらしい。


「律騎には迷惑かけてないでしょ? 律騎と付き合ってるわけじゃないんだから」


「ちょっと待て」


律騎に止められて、余計なことをこれ以上言わなくて済んだ。


「“本命”? 他に好きなやつがいるのか……?」


その代わり、律騎に気づかれたくないことを気づかれてしまった。


「……りつには関係ない」


心臓がうるさい。ドクドクと鳴り止まない。


「そんなこと言うなよ。俺らの仲だろ」


どんな仲だよ。

好きな人の話、付き合っている人の話なんて、今までしたことがないじゃないか。


律騎は基本かっこつけていて、真顔を保とうとしているようだが、感情が顔に出やすい。

“俺らの仲”と言う律騎の顔には、嘘偽りなど言っているようには見えず、当然と思っているようだった。


どうやらそこまで幻滅されているわけではないらしい。


少し安堵したら、冷静になってくる。

就活のために短く黒くなった律騎の髪に見慣れていたのに、数日会えなかったうちに、その髪は明るくなっていた。


今更気づくなんて。こんなにかっこいいのに。



「……私、バイトの時間だから」


「おい。まだ話は終わってねぇだろ」


「ごめん」


強めに言ったら、りつが追いかけてくることはなかった。




めぐみがバイトだと嘘まで吐いてたどり着いたのは、バイト先のコンビニだった。


「めぐ、どうしたの?」


バイトでもないのに、息を上げて入店してきためぐみに、陽生は驚いている。


「……はる」


「何?」


胸を抑え、息を整える。


大学から近いとは言え、これだけの距離を走ることなどないから、なかなか整わない。

そうこうしているうちに、来客があったら大変だ、と思うと、余計に息が上がる気がして困る。


「……めぐ?」


「私……りつに馬鹿な女だと思われたかも……」


「何だよそれ」


陽生にわけが分かるはずもなく、眉間にシワが寄る。


陽気なメロディーが流れる。入店があったということだ。


「ごめん。また話そう」


めぐみはゆっくりと頷き、気遣いながらも離れていく陽生の背中を見つめた。


陽生に言うタイミングは、さっきではなかった。

あれだけ言い残したら、陽生が気にしないわけがない。

誰かに言いたくて、言える人が陽生しかいなくて、選択を誤った。


とりあえず自宅に帰ったが、じっとしていられなかった。

じっとしていると、あれこれ考えてしまうから。


余計なことを考えないためには、とりあえず体を動かせばいい。

家の至るところを隅々まで掃除して、料理を始めた。


普段は片付けが面倒で、律騎に振る舞うときしかしない鶏の唐揚げを作ることにした。


鶏肉を一口サイズに切り、下味をつけ、衣をまぶし、油で揚げる。

下味の浸け置きも十分したし、二度揚げもした。いつもならかけない手間を惜しまなかった。



大皿に山のように盛られた唐揚げを見つめる。


「誰のためにここまで……」


めぐみは最後まで言い切らず、笑ってしまう。

好きでなかったはずの料理が、いつの間にか日常に染みつき、今は好き好んでやってしまっている。



お腹がすいて、時計に目をやれば、もう22時を過ぎている。それはお腹がすくはずだ。


テーブルにお皿を並べる。

献立にはポテトサラダに味噌汁も加わって、食事の準備は完璧だ。


1人で食べるとは思えない手間と時間がかかった料理に、達成感とともに、寂寞感も覚える。



「いただきます」


静かに手を合わせて、食事を始める。


我ながらおいしくできた。箸がどんどん進む。


この量なら、明日も食べられる。明日は楽ができる。


大変だったけれど、少しずつ気分がよくなってきた。



食べ終えて、食器も洗ったところで、インターホンのチャイムが鳴った。


こんな遅くに誰だろう。

少し怖くなって、恐る恐る玄関のドアまで行き、ドアスコープを覗く。


「……はる?」


めぐみは慌ててドアを開けて、来客者と対面する。


「どうしたの?」


「バイト、残業した。終電ないから泊めて」


「りつは……」


「りつは同じ学科の友達と飲み会って言ってたろ」


「……そうだった」


そう言えば、律騎はそんなことを言っていた。


「また話そうって、言っただろ?」


陽生の眼差しは真剣で、めぐみの話をきちんと聞こうとしていた。

自分が話を聞いてほしくて話した手前、何も言えない。


「……いいけど、寝る場所ないよ?」


「床で寝るから大丈夫」


部屋へと迎え入れた陽生は、「色々買ってきた」と袋を掲げて見せた。

どうやらアルコールとおつまみを調達してきたらしい。


「何も食べてないでしょ?」


「ない。何かある?」


「あるよ。唐揚げとポテトサラダ」


「ちょうどいいじゃん」


頑張って作ったことが報われるようだった。

めぐみは微笑んで、意気揚々とそれらをお皿に盛り始めた。



缶ビールと缶チューハイで乾杯をして、陽生がある程度お腹を満たした頃、めぐみはぽつりぽつりと話し始めた。


元カレのことを好きじゃなかった、本気じゃなかった、と友達に話していたところを聞かれてしまって思わず逃げてしまったこと。

でも、逃げ切れなくて、「本命とは叶わないから諦めて、好きって言ってくれる人と付き合うことの、何が悪いの?」と言ってしまったこと。

そして、“本命”がいるのかと問われてしまったこと。

それから、唯衣と話したことが、ずっと頭から離れないことも。



「ずっと一緒は、無理なんだね……」


アルコールを摂取すると、感情が露わになる。

陽生の前だから、余計に、だ。


「りつと離れる、いい機会なんじゃない?」


「え……」


陽生の声がいつもより低くて、どきりとした。

目が合ったら、離せなくなった。


「ずっと言わないつもりだった。めぐは何だかんだ言いながら、りつと付き合えるなら付き合いたいと思うかもしれないと思って」


「それは、ないよ」


反射的にいつものように答えたが、最近、考え事ばかりで、何となく言い切ることは憚られた。それが、言葉に揺らぎとして表れる。

陽生がそれに気づかないはずはなかった。


「でも、好きな気持ち、ずっと捨てられなかったでしょ?」


せめて、目を見られないようにと、目を伏せた。


「好きな気持ち、持ち続けたまま、りつの傍にいたいなら、また彼氏作る? 作れそう? カモフラージュにするの、どうせもう嫌なんでしょ?」


畳み掛けるようにして紡がれる言葉が、めぐみの痛いところをつつき続ける。


分かったような口を利かないで。

そうは言えなかった。全くその通りだったから。


「……今日のはる、意地悪だね」


「俺は元々こんなだよ」


そんなことは分かっている。

それでも言わずにはいられなかった。


めぐみは缶チューハイを呷る。

飲み切ってしまったので、冷蔵庫で冷やしているものを取り出そうと、立ち上がる。


「そんなに苦しいなら、俺で手を打つ?」


「……は?」


取り出した缶チューハイを落としそうになった。


バッと勢いよく振り向き、笑い飛ばそうとしたら、想像以上に真面目な顔で陽生が見つめてくるものだから、思わず缶チューハイを持つ手をもう一方の手で掴んだ。


「俺ら、付き合ってみる?」


「……で、でも、はるは彼女……」


「今いないよ。就活忙しいだろうから、その前に別れた」


就活を終えた今なら、彼女がいてもいいという考えらしい。


律騎への思いを抱えていて苦しいのも、その状態で律騎以外の人と付き合うのも申し訳なくて苦しい。

なんて、わがままなのだろう。


陽生はそんなわがままな自分を知っているはずなのに。


「りつへの思いも知ってる。後腐れない俺となら、付き合ってもいいんじゃない? 対外的には彼氏として結構ありと思うんだけど」


「でも……はるにメリットある?」


「あるよ。言い寄られなくて楽」


そうだった。陽生はモテるんだった。


当然のように言い寄られると言い切っている陽生は憎たらしいが、ここまで振り切っているといっそすがすがしいくらいだ。


めぐみは元いたテーブルへと戻り、座る。


「めぐといるの、楽しいし、そのときどんな関係であれ、卒業したら、こんなに一緒にはいられないだろうから」


そう語る陽生の眼差しは優しく、穏やかだった。

自分にはもったいないと思えるが、その一方で、こんな性悪な男なら困らせてもいいかとも思える。


「……こんなにわがままで面倒なのに、楽しい?」


「楽しいよ」


そう答えた途端、陽生は意地悪な笑みを浮かべる。


嫌な予感がした。


「初めてりつが彼女を作ったとき、めぐ、俺に何て言ったか覚えてる?」


「え、そんな昔の話のこと? 私、何か言った?」


「やっぱり覚えてないんだな」


陽生は後ろに両手をついて、天井を仰ぎ見るようにする。


不安になってくる。

過去の自分は、陽生にとんでもないことを言ったのだろうか。


「……私、何言ったの?」


ごくりと唾を呑んで、陽生の返答を待つ。


「“はるは彼女作らないでね”」


めぐみの真似をして言ったことは、今回は気にならなかった。

それよりも、自分の痛さが恥ずかしくて、顔を両手で覆った。


「からかってるわけじゃないってことだよね?」


陽生は頷いた。


「……私、どんだけ寂しかったんだ」


律騎に彼女ができて、一緒に過ごす時間が減って、陽生まで彼女を優先したら、と怯えていたのだろう。

彼女でもないのに、ただの幼馴染なのに、きっと大真面目に言ったのだろう。


「俺、結構縛られてたよ?」


言った本人が忘れるくらいの拘束力なのに、申し訳なくて、とりあえず「ごめん」と謝った。


「まぁ、めぐが彼氏作ったときに、もう勝手に解禁したけど」


「身勝手なこと言って、忘れて……。めっちゃ嫌な女じゃん」


中学生の頃のことだ。約8年越しに後悔することになるとは思わなかった。


「それくらい気軽に言ったんだろうな。俺は覚えてたけど」


「はる、いいやつだね」


「今更気づいた?」


陽生はクックッと笑った。


「つまり、俺、めぐの言うこと、結構ちゃんと聞いてる。彼氏には向いてるんじゃない?」


「……はる、ありがと」


いつも傍にいて、寄り添ってくれて、ありがとう。


「どういたしまして」


陽生の作る雰囲気は心地よい。

普段は近づきすぎず、干渉し合わないのに、苦しいことや不安なことを抱えたときは、察して吐き出させてくれる。

そう考えると、歴代の彼氏よりも、一般的に彼氏に望むようなことをしてくれているかもしれない。



「今夜は飲もう」


陽生はめぐみの缶チューハイを奪うと、プルタブを開けて返してきた。


微笑んで受け取る。

冷たいと思って掴んだら、人差し指にだけ温かな感触が触れた。陽生の指だ。


「りつだけじゃないよ」


「ん?」


「私、はるとの関係もこのままがいいと思ってる」


陽生が珍しくぽかんとした。


「何、その間抜けな顔」と笑うと、その表情はすぐに消えた。


陽生は缶ビールを手に取り、一口飲んでテーブルに置いた。こつんと音が響く。


「やっぱり付き合うのはなしってこと?」


「うーん……。付き合ってもはるは変わらないよね」


「ん? あぁ、そうだな」


「……それなら、付き合ってもいいかもしれない」


めぐみはいくらかぬるくなってしまったチューハイを喉に一気に流し込む。


いつもと違うことをすれば、何かが変わる。

迷路に自分で飛び込み、出口が見えず、ぐるぐると彷徨っているような、そんな環境から抜け出せるような気がした。

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