その羽ばたきは夜へ向かって
ラピは胸に手を当てて荒れていた息を落ち着かせる。目も足も元通りになり羽が服を突き破るなんてこともなかった。
「まったく、好き勝手にやってくれちゃって。屋台で注目されたときにバレたんだろうな」
二人目の男が侵入する際に開けたであろう割れた窓を見て鴉が溢す。
「すまない、私のせいで鴉の家がめちゃくちゃだ。それにあの娘にも悪いことをした」
ラピは自分の鉤爪で抉れてしまった床とズタズタに破れてしまった白いハイソックスをみつめてしょぼくれる。窓から吹き込む風は夏場らしからぬ冷たいもので、より気分を凹ませた。
「気にするなよ。それにあの娘だって靴下よりお前が無事なことの方がよっぽど大事だ。そんなことより傷の手当てを…、治ってるな」
男の握り方からして最悪骨折もありえたが、ラピの腕にそんな様子はなく、食い込んでいた爪の痕すら残っていない綺麗なものだった。
「勝手に治るから良いんだ、痛いのも慣れてる。私は耐性実験と称したこいつらの遊びに着き合わせられていたからな」
床に転がる二人を見下ろして吐き出す様にそう言った。
「お前が逃げてきたってのは…」
「あぁ、先程この男が言っていた機関のことだ。戦争のための生物兵器を開発する研究組織でアウフィエルの名前もそこで聞いた」
ラピは扉側の男を足蹴にしながら鴉の疑問に答えた。
「噂じゃ聞いたことあったが実在してたとはな。眉唾もんだと思ってたが」
「信じれないのも無理はない。この町を一日歩いただけで分かった、あの施設は人間社会のそれじゃない。子供は家畜のように扱われそれを管理するのは皆悪魔だ。人間らしい者から順にいなくなって、残ったのは化け物。それが私だ」
ラピの独白を鴉は黙って聞いていた。やがてそれが途絶えると鴉は眉尻を落とし自身のうなじに指を立て、それから決心が出来たという風に口を開いた。
「ラピ、この町を、いやこの国を出よう。流石に宰相とて他国には手出し出来ないだろ」
「何を言い出すんだ!」
「心配するな、ここから国境まではだいぶ近い。ちゃんと向こうでも面倒は見るし、あぁ、仕事の心配か?傭兵ってのは騎士より薄給だけどその分働く場所は自由なんだ」
「そういう話をしてるんじゃない!第一私はまだしも何故鴉まで一緒に逃げるなんて話になるんだ。娘のことをほったらかしにするつもりか」
「そこを突かれると痛いけどよ、宰相閣下お抱えの兵士に手を挙げちまったんだ。俺だって平穏無事じゃすまねぇよ」
「そうだ!また追手が来る度に追い返してやればいい。鴉は思ったより強いようだし、私もそこらの兵士に後れをとるつもりはない。なんと言ってもこの国の技術を結集して生み出された最高傑作の2029番だからな」
ラピは酷く興奮して捲くし立てる。その饒舌さに比例して気も動転していた。
「それは、無理だ」
ラピは糸が切れたように再び肩を落とす。薄々自分でも分かっていたし、元はといえば隣国まで亡命する気でこの町に訪れていた。それが鴉と出会って、娘に可愛がられて、鴉が一緒に暮らすと言ってくれて、町全体が自分を受け入れてくれた気がした。初めて自分の特性ではなく、自己という存在が受け入れられた気でいた。この町での生活に夢を見ていた。
「さ、そうと決まれば善は急げだ、支度するぞ。つっても準備がいるのは俺だけか」
ラピは黙って首を縦に振った。
鴉は黒一色の服からこれまた黒一色の鎧に着替えると、壁に立てかけた長身の剣を一振り背中に据える。ラピは流石に全てを持って行くことは出来ないが通りで貰った食材を適当に見繕い、サンドイッチにして、娘から貰った服と一緒に小さめの鞄に詰め込んだ。格好は鴉と出会ったときと同じものでいつでも羽を生やせるようにしている。
「それじゃ行くぞ」
鴉が先に玄関を通りラピも敷居に足を掛ける。後ろを振り返ると先ほど身を埋めていたベットが視界に入った。
機関での暮らしは嫌になることばかりだったが、拷問や薬物投与よりも苦痛なことがあった。マズいごはんと石が剥き出しの冷たい寝床、本来気を休めるための時間が苦しいと逃げ場がないようで辛かった。
「満月だな」
階段を下りて建物の隙間を縫うように歩き、少しして開けた場所に出ると満月が見えた。
「私が押し込められていた部屋は天井近くの小さい窓が一つあるだけで、夜が新月や曇りだと部屋がいっそう陰鬱な雰囲気になる。だから満月は好きだ」
「絶好の逃亡日和って訳だ」
いくらか木の根を跨いで鴉三人分くらいの高さの外壁にぶつかる。町の玄関口となる南北の門扉を除いて町の外周はこの壁に囲われている。
「さてどうするかね」鴉が口を開く「流石に町の守衛にまで宰相の息はかかってないだろうけど、この時間に出るのは単純に不審だわな。北側ならなおさら怪しまれる」
「このぐらいの壁なら私が運べる」
「まぁそれが丸いか。いっそのこと国境の川まで全部飛んでいくのはどうだ?」
「それは出来ない、変身も回復も光がないところでは十分に行えないのだ。日中ならともかく昼に蓄えた分だけでは足りない」
「分かった、じゃあ羽は使うな」
何が分かったんだと思うがそんな羽を出しかけのラピの真横で鴉は軽い助走を始め跳躍する。その高さに驚くが鴉は空中で壁を蹴りつけて片手で城壁の縁を掴み、そのまま腕の力でよじ登った。ラピは一度鴉を持ち上げたことがあるだけに息をのむ。あの時に加えて装備を身に着けているわけだからそれはより大きな衝撃だった。
「ねずみ返しが内側になくて助かったな」
鴉は防具のベルトを一度外し壁から垂らす。ラピにそれを持たせると勢いよく引き上げた。二人とも歩廊に上がると申し訳程度に腰を屈め鴉が外に向かって指を向ける。
「あっちから流れてる川が国境だ、橋は使えないから出来ればラピの羽で飛び越えていきたい。まぁこの時期なら最悪泳いで渡ってもいいかもな」
「そうなりそうだな、頑張れば二回分も可能だろうが」
ラピが城壁から下に顔を覗かせるとよじ登ってきた高さより随分と深い堀があり、一面に張った水が満月を映し出していた。幅もジャンプでどうにかなるものでは無い。
「ま、これじゃ仕方ないか。あそこの森まで頼めるか、出来れば視界を遮りながら進みたい」
鴉は川から手前に指を引き背の高い木が密になっている場所を示した。
「あぁ、任せておけ」
娘のことも町のことも心残りだがあと少しで過去との決別が叶う。新天地での些細な不安も目の前のこの男が拭ってくれる。そんな思いを胸にラピは羽を広げ、国境の町を後にした。
「なぁ、あれなんだ?」
「どれのことだ」
「あそこに飛んでる黒っぽい影だよ、鳥みたいな」
「鳥にしちゃ変な形だな」
「一応報告するか」
「報告ってあの胡散臭い奴らにか?」
「それ以外どこがあんだよ。ついこないだ急にきたばかりで偉そうな連中だが仮にも上官だし、躍起になって見張りを増やしてるのもあいつらの指示だ」
「まあそうか。しっかしヘルメル様も何であいつらにいい顔させてるのか、どうせ貴族の坊ちゃんたちだぜ。最前線を掛ける騎士としてビシッと言って貰いたいね」
「他力本願もいいとこだな。それにヘルメル様も昨日お戻りになったばかりだ、そう身軽には動けんだろう」
そういって片方が立ち上がるとハッチを空け梯子を下りる。瑠璃色の天幕にくっきりと星々が煌めき、やけに空気が澄んだ夜だった。
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