夜に焼かれた星

 ラピが足を滑らせて前のめりになる。少しだけ前を歩いていた鴉がすぐに身を乗り出して体を受け止めたが、既に幾度かこれを繰り返している。


「大丈夫か、濡れた木の根は滑るから気を付けろよ。昨日、結構強い雨があったしな」


 ラピは能力がなければこんなにも足手まといなのかと気落ちし、木の幹について支えにしていた手を見つめる。細かい裂傷がいくつもあってよくみると脛や膝も同じようだった。傷だらけの自分を鴉に見られるのがなんだか恥ずかしいような気がしてしまう。


 鴉は足場の悪い地形も慣れているのか最初こそスイスイ進んでいたものの、そんな調子のラピを見てペースを落としていた。


「歩きづらいだろうけどそれは追手も同じだ、それに隠れ場所も多いしな。無理せずゆっくりでいいし、疲れたら言えよ」


 鴉は頻りに励ますがラピは黙りこくって頷いたのか曖昧に俯くだけだった。それでも二人は前に進む他ない。


 鴉は唐突にラピの腕を強く引き、そのまま抱え上げる。ラピの小さな体は鴉にすっぽり埋まって何事かと戸惑うが、鴉はラピを抱えたまま溝に転がり込んだ。


「何をする、重いぞ」


 鴉は覆いかぶさるような体勢でその下敷きになっているラピは小声で窮状を訴えた。首を少し傾けると間近に鴉の顔があって、筋肉質の腕はまだ脇に通されている。ラピは何を思ってか自身も腕を鴉の胴に回したが、やっと手がくっつくかくらいだった。


「追手だ」


 それをよそにラピの目に映る鴉の表情は真剣そのもので焦りを浮かべている。


「なぁ鴉…」


 ラピが言葉を紡ごうとした矢先、強烈な光が視界に飛び込んできた。鴉の体で遮られたから顔を顰める程度に過ぎないが、そうでなければ目を焼かれるような閃光。目を瞑るついでに他の感覚に集中すると背中から大地が震えているような感覚が伝わってきて、この森に自分たち以外の闖入者がいることを認識した。


「もう追い付かれたか、動き出しも移動もだいぶ早いな」


 鴉が神妙な面持ちを浮かべるのも無理はなかった。ここまで緩い歩調だったとはいえ川までもう中ほどの辺りまで来ている。森までは間違いなく馬を使っただろうし、その馬もあらかじめの用意がなければこの短時間で追いつくことは困難な筈だ。


「私があの町に逃げたのも織り込み済みで、先回りして準備していたのだろう。鴉も戦地から帰ったのが昨日、一昨日の話なら気づかなくとも無理はない」


「そう見るのが妥当だな。とりあえず見つからないように注意しながら進むしかないか」


 方針と呼べるかも分からないが改めて鴉が言葉に出すと確と道が定まったようにも思えた。


 ラピはより一層自身が下手を打てば二人にとって命取りになると気を引き締め、身を起こそうとしたものの、何故か先に立ち上がった鴉に抱っこされたままだった。


「何をしてる、下ろせ。私は一人で歩ける」


 自身を抱えているのに苦にせず森を進む鴉の顎をつついた。無精ひげに触れて指先からチクチクが伝わってくる。


「そう言うなって、慣れてない奴が歩くには足場が悪い。なにも恥ずかしいことじゃないさ」


「じゃあなんだ、お前は普段森で暮らしているのか」


 ラピは首に回していた腕の輪っかを狭めて鴉の方により身を寄せる。「そんな訳あるか」と鴉がツッコミを入れてくれる気がしていた。


「傭兵は正規軍が陣を敷けないような場所に動員されることが多いからな。家と戦場じゃあどっちが長くいるか俺にも分からん、そういう意味じゃ森暮らしかもな」


 鴉はニッと笑みを浮かべるとすぐに真剣な顔つきに戻って左右に視線を走らせる。何かに勘づくと足取りを一段加速した。太い幹の間を抜けると倒木のせいか僅かに開けた空間に出る。


 鴉は速度を維持したままラピを優しく下ろすと流れる様に鞘から刃を滑らせ、剣戟。


「鴉ッ!」

 ラピは目の前の状況に遅れて叫ぶ。影を縫うように甲冑の男が二人、両脇から現れたのだ。まず右からの袈裟切りに鴉は自身の剣を合わせ、背後から伸びる追撃の突きを剣の腹に肘を当てることで流す。接近から攻撃に移るまでの手際の良さから両者とも相当な手合いだが、鴉に有効打を与えるには至らなかった。


「私も戦う」


「駄目だ!まだ温存しとけ」


 気がはやるラピを静止しようと、鴉は背を向けたたまま言葉を掛ける。だが直後、四人の意識は別のことに集約された。光、そして音。先程のような白んだ強い光ではなく焚火のような暖色の、ただ此方を目掛けて飛来するそれは火そのものだった。「魔導士か」後ろへ跳躍した鴉がそう溢す。アタリがついている様な言葉とは裏腹にその口ぶりは不信感を伴っていた。


「ラピ?おい、どこいった」


 毛先を焼かれるような距離に火球が着弾したことで一瞬鴉の視界が遮られた形となり、その隙にラピが辺りから消えている。魔法による延焼が収まるとすぐに森は暗闇を取り戻し、目の慣れからか接敵の段階よりもむしろ見通しが悪化していた。


「ぐあぁ」


 甲冑の片割れが呻き声をあげる。フルフェイスの兜に紙を指で裂いた様な痕が浮かび上がり中身がこぼれ出ていた。それから鳥が羽ばたくような音が聞こえて、つられて上を向くとラピが飛翔している。


「なに普通に飛んでんだよ」


「さっきの攻撃で光を浴びているから問題ない、それより次が来るぞ」


 ラピの言う通り火が光を瞬いて空をなぞる。山なりに放たれたそれは先程よりもサイズが小さいものの、複数個に散らばっていた。そちらを仰ぎ両手を下ろしている鴉に追手の騎士が近づき、背後からの横薙ぎ一閃。


「悪いがそれじゃあ甘いな」


 鴉はあえて無防備な格好を晒し敵を惹きつけたのか、不意打ちに臆することなく躱す。そのまま二撃目も薄皮一枚の間隔で、いや、あえてその間合いのまま最短での反撃。鴉の剣が板金鎧の隙間から引き抜かれると敵の男はそのまま倒れ込み林床に体を埋めた。


 ラピはちらりと鴉の攻防を見て内心ほっとしたが眼前に迫るそれに意識を戻した。数は多いが速度はそれ程ではない。そのまま高度を上げて誘導し、火球同士を相殺させる。ラピは飛翔しながらに改めて周囲を見下ろし、初めて全容が一望できた。こちらを拒むような町の外壁と堀は小さくなっており、随分距離を歩いたなと感心さえある。より手前、森の開けた空間に追手と思しき集団がいて真下では不安そうに鴉が顔を仰向けている。


「見つけたぞ」鬼の首を取ったようにラピが言う。「あの金髪の男が魔法の使い手だ。きっとこの部隊の長なのだろう」


 追撃の火球に翻りながら鴉に告げる。確かにラピの視線の先には金髪の男がいて、装いや陣の立ち位置を見れば概ねその見立ては正しい。だが鴉の意識はラピの言葉にはなかった。


「ラピ!もう一発だ」


 避けた一発に遅れて飛来した熱源は鋭い角度をつけてラピの方へ曲がり背面に着弾した。


 衝撃から一拍挟んで、幾重にも切り裂かれる錯覚に襲われ、表情を歪める。つるつるの表皮にミミズが這ったような火傷痕が浮かび上がった。


 羽を折り曲げてみるみる高度を落としていくが、ラピにとって痛みはさほど問題ではなく、その気ならすぐに体勢を立て直せる。それでも地面へ一直線に手を伸ばしたのは肩に掛けていた鞄の紐が焼き切れたから、ラピにとってその鞄は容易に手放せるものではなかった。


 音が近い。自身や鴉の柔らかい革の足音ではなく、物々しい金属製の鎧が擦れる音が。


 ラピの視界に黒い影が横切った。その影は着地の直前で鞄を掴んで体を丸めるラピと、その隙を狙って暗がりから放たれた矢の間に入り、それを腕に受けた。影は鴉だった。


「何をしている!私のことは庇わずとも傷はかってに癒える。ただの人であるお前が何故...」


 鴉は国境の方を睨み、それからラピの腕を引いた。矢が引き抜かれた傷口からは一層黒く映る血がとくとくと湧き出て指の先まで滴っている。反対にラピは先程のミミズ腫れもすっかり収まり綺麗な肌に戻っている。事実鴉が庇ったりしなくてもその傷を治すことは出来ただろうに。ラピの表情と声は狼狽えるばかりだった。


「いいか、お前は化け物じゃなくてただの女の子だ。そんでただの大人は子供を必死になって守るんだよ」


 焦りを孕んだ声色、額にはじっとりと汗を浮かべていて、余裕のない表情にラピは胸が締めつけられた。致命的な間違えを犯していて、事態がもう取り返しのつかないところまで来ている。そんな風にさえ思えた。されどただ走る他なかった。




 満月の白光が二人を撫でる。森の切れ間が漸く見えた。幾ばくかの根を飛び越えて、川までいけばすべてが丸く収まるだろう。不安を拭いたくて鴉から顔を背ける。ここを抜ければ対岸まで鴉を抱えて飛んでいこう。残りのエネルギーでもこれくらいの距離を飛んでいける筈だ。ラピはそんな考えで頭を一杯にして拙い足取りのままに駆けだした。


 大きな根を跨いで少し、ラピが振り返ると鴉は足を根っこにかけて立ち止まっていた。


「ラピ、ここまでだ。あとは一人で行くんだ」


 悲しげで、どこか清々しい様な表情で急に鴉が言い出した。だかラピは上手く言葉が発せず喉でつっかえる。その間に鴉はラピと反対の方へ向き直ってしまった。大柄な体で覆われていた鴉の後ろ――鴉の顔を向けている方の景色がラピの位置からも見える。


 もうすぐそこまで騎士が数名近づいてきていたがラピはただ一人の男に目を奪われた。先程上空から見えた金髪の男、波打つ金髪を緩く束ねて肩から流し、身に纏う傷のない白鎧は月の光を鏡面の如く反射している。幼少より実験と称して多くの魔術に晒されてきたラピには、誰の言葉を必要とせずとも男の傑出した魔力を感じ取れた。


「我らが王の御心に仇名す叛逆はんぎゃくの徒よ、少女を渡せ。その川より此方で収まれば大事にはしない。何も知らぬ故の振る舞い、してこれからも何も知ることなく穏当な日々へ戻るといい」


「なりませぬ、こやつめはあろうことか宰相閣下の兵に抵抗しています。それを見逃したとあっては…」


「黙れ」金髪の男が部下の言葉を遮った。「我が国の騎士は陛下に剣を捧げたのだ、いくら宰相殿が力をつけようとも、みな王の下に連なり、職務による優劣などないのだ。ましてや我々は此度少女の回収を了解しただけのこと、それでも腹の虫が許さぬのであれば自分自身でどうにかするといい。貴様の手に負えるとも思えんが」


 思いの外多弁だが常に無表情。鈍色の瞳はじっと二人を見据えていて心の内は分からない。


「昨日の今日で随分仕事熱心だな、稀代の騎士様ってのはさぞ好待遇なもんだと思ってたが、意外と損な役回りなのか?ヘルメルさんよぉ」


 鴉は不安げに自身へ近寄ろうとするラピの方に手を突き出しながら、金髪に声をかけた。鴉と同じかヘルメルの方が若く見えるため適当な気安さにも思えた。が、あくまで騎士と薄汚い傭兵、取り巻き達にとっても鴉の口調は面白いものではなかった。


「貴様、無礼であるぞ!この御方はトーレン候にして帝国将軍の一席を担うヘルメル・ダン・アルヴェーン様だ」


 食ってかかる若き騎士を再びヘルメルが静止する。


「言葉こそ交わしていないが同じ戦場を駆けたともがら、戦友に剣を向けたくはない。少女を引き渡し給え」


 御託はいいとヘルメルは本懐を鴉に突き付ける。


「ラピ、走れ」


 ボソッと鴉がそういった。俺を置いて、口には出さずともそれは伝わっていた。ラピは一人になるのがなによりも恐ろしく足が一歩も動かなかった。


「大丈夫、直ぐに追い付くから」


 明朗快活に鴉は言った。ラピはもう訳が分からなくなって走り出した。ルビーのような瞳にいっぱいの涙を浮かべ、月の光を滲ませていた。


 ヘルメルの部下が弓につがえていた矢尻を放しラピの背後を目掛けて矢が飛ぶ。だが矢は鴉の振り下ろした長剣に叩き落された。体躯に見合わぬ鋭敏な動きに、鴉を知らない者は固唾を飲む。だがこれにより鴉とヘルメルの決別は確かなものになった。


「分からぬ」ヘルメルが僅かに皺を寄せた。「侮る気はないが私一人とて君に後れをとるつもりもない。加えてこちらは多勢だ、反旗を翻せば命がないと分かるだろう。何故そこまでする」


「人間は皆、誰かを助けたい生き物なんだ。でも誰か一人に手を差し出せば、それはそいつ以外の辛い思いをしてる奴らから目を逸らすことになっちまう。だから誰しもが、目の前の一人に手を差し伸べる『理由』を探していて、俺にはその権利が与えられた。それだけなんだよ。あいつは今日逃げ出したことを後悔するかもしれないが、いつかその選択に納得してほしい。悔んだり諦めたりとか、そういうのはもっと後でいいんだ。世界を見た後で…」


 鴉はラピを見つめる。きっと泣きじゃくっているだろうか、転びそうになりながら小さな背中が遠ざかってゆく。


「無駄話だったな。さぁ戦ろうか、『白纏はくてん』の騎士ヘルメル!」


敵国の兵により仇名された呼称、鴉はヘルメルをその名で呼び切っ先を据える。


「相容れぬか…。先の防衛戦、東側で戦った兵は皆、『夜鴉』という傭兵の名を口にしていた。王国の雄をまた一人見送ることは心苦しいが…、私が冥府の案内人を務めよう!」


 下段の構え、ヘルメルの周囲に火球が浮かび上がる。


 白黒、衝突。




(その手を放すのなら、最初から優しさなど、愛情など知りたくはなかった)


 背後より業火の柱が立ち上がり、光を一身に受けたラピは羽を広げ飛び上がる。もう傷など一つもないのに咽るように痛い。


(機関にいたときの方がよっぽど良い。孤独も痛みもそれが当たり前なら辛くはないだろう。二人で死なせて欲しかった、孤独を忘れたまま逝きたかった)


 二人で死ねなかったのは結局我が身可愛さに逃げたから。化け物の分際で醜く生にしがみついたがために鴉から娘を奪い、この世界から名も知らぬ男の命を奪った。その事実に誰よりもラピ本人が気づいていた。


 背後から疎らに矢が去来する。だが内側を除いて何者も彼女を傷つけない。冷涼な上空の風をかき分け幅広の河川を横切ると、やがて矢は止み、あたりは相応の暗さを取り戻した。


 夜、少女の心は焼かれた。

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夜に焼かれた星 宮崎満月 @Mdrgr

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