ドリンクバーでこんばんは 視点――石川滋瑠
いきなりな
が、向こうはこちらには気付かず
(どうしよう、飲み物を選んでいる所を邪魔しても悪いし、このまま気付かなかった事にして戻ろうか)
あたしの心は一瞬、そう決断して踵を返そうとするが青山さんの「『嫌い』だと言った気がしてね」の言葉が思い返され回ろうとしてあげた踵を知らず元の位置に戻してしまったようで、彼女を見つめる形になってしまう。このまま嫌われてると勘違いさせたままでいいのだろうかという気持ちと、推しとは接触しないでこれからも遠くから応援して勝手に推させてもらいたいという想いが交差する。
(このまま見つめ続けるなんて失礼だし、怪しいし、決断するなら早く決断したほうがいい)
心の中の別のあたしが急かしてくる。
背中を押すあたしと肩を掴んで元の席へと戻させようとするあたしがどちらも譲ろうとはしてくれない。
――あんたさぁ『気になる人』とかいないわけ?
押し問答をするあたしの心にお姉ちゃんのさっきの言葉が割り込んでくる。言った言葉とは少し違うけど、ニュアンスは同じなはずだ。
(気になる人……推し……
お姉ちゃんの言ってる意味とは違うけど、やはりあたしの中では気になる人=推しだ。
その推しに嫌われてしまったという誤解を抱き続けさせたままでいいのかという気持ちが勝って背中を押された。
あたしは一歩だけ前に足を踏み出す。もしかしたら、あたしの事なんて気にせずに、全然、忘れているかもしれないけど、それでもいいんだけど。
もう一歩二歩とあたしは近づく。もう声をかけないと不自然な距離だ。これはあまり信じてはいない神さまがくれたちょっとだけのラストチャンスかも知れない。あたしは絞るような声を出した。
「の……さん」
喉に貼り付いた声は全く言葉にはならず、蚊も鳴らない声とも呼べないものだ。気付かれるはずもない。篠宮さんの関心はいまだドリンクバーに向いている。
もっともっと、もっともっと、もっともっとっ!
声をあげないと気づいてもらえない話術スキルが乏しくても声を出してあたし、大声になったっていいから。
「……あの、しの……さん」
「ん?」
決意めいたあたしの声は全然ダメダメで小さくてどうしようも無かったけど、篠宮さんに声は届けられた。あの丸くて綺麗な茶の瞳が、ドリンクバーでは無くあたしを見てくれているんだ。そう思うだけで何だか嬉しくて泣きそうになってしまう。余計に潤んでいるだろうこんな眼を見せるわけにはいかないと意識的に目を伏せながら、あたしはそのまま頭を下げて挨拶をした。
「こ、んばんは……」
待ったのは一秒くらいだろうかもっと長いだろうか。篠宮さんの声は帰ってこない。声が小さすぎてまた届かなかったのかと不安になってもう一度だけ頭を下げて挨拶をしてみる。
「?……こん、ばんは」
一瞬の間、まだまだあたしの声はしっかり届いていないのかと不安になるが、そんな心配なんて杞憂な優しい声があたしの耳に幸せを運ぶ。
「うん、こんばんは」
少し顔をあげると甘く広がる紅茶に混ざり溶けてゆく
「石川さん、ひとり?」
更に声を掛けてくれる。本人にとっては会話を繋ぐための他愛のない延長線状の言葉なのかも知れないが、あたしには幸せを満たす言葉だ。名前を呼んでくれる事は垂らしたハチミツと落としたバターがジンワリと溶け合うホットケーキを頬張る程の感激、こんなに嬉しいことは無い。それと同時に頬に触れられて熱をあげるような気恥ずかしさもあってあたしを目を伏せて、視線をずらしながら何とかオズオズと言葉を返した。
「や……家族、と」
失礼かな、気分を悪くしたりしないかなと、不安を覚えるけど、篠宮さんは明るく声を返してくれた。あたしも今度は言葉のラリーを続けようと頑張って会話をしようと試みる。
「そうなんだっ、私も家族と、妹と一緒に来てるんだ」
「そう、なんだ……」
「うん」
ダメダメだ、ラリーどころかあたしの返した
あたしはもう一度、喉の奥にある
「そ……の」
「うん?」
言葉を続けるために氷の入ったカバーを開けて氷を入れる無駄な動作を交えながら息をひとつ吐いて、伝えて置きたい事を口にした。
「いやだ……て、わけじゃ、なくて」
「え?」
「嫌いて勘違いされてるんじゃッ……ない、かって、不安で」
言えた、言えてしまった。勢いあまって顔を上げすぎてしまったけど、眼を丸くしている篠宮さんの顔が心なしか嬉しさに溶けているような笑顔に見えた。それが、前髪に邪魔されず、ハッキリと見えた。やっぱり、あたしの
「そうだったんだ、実は私も正直、嫌われちゃったかなって思って――」
「――そ、そんな事は絶対に無いッ」
「う、うん?」
あたしが
「な、無いくて、その……嫌いじゃないのは間違いな、無くて……篠宮さん、のこと、は」
あたしの声帯と陰キャ精神はやはりクソザコだ。全然、言いたいことが上手く伝えられなくて本当にイヤになる。
そんなあたしの落ち込みを見越してくれたのか、篠宮さんはグラスを指差して優しく声を掛けてくれた。
「ジュース入れないと、氷溶けちゃうね?」
「あ、う、うん……そう」
「私もジュース注ぎに来たんだった。石川さん先に注いじゃう?」
「ん……先に、注いじゃう」
あたしはお言葉に甘えて先にジュースを注ぐ、何するかって考える余裕は無くてカルピスウォーターをもう一杯おかわりする事にした。グラスを白に染めるカルピスウォーターはどうしていいか分からない今のあたしの頭の中を現しているようだ。
「石川さん、改めて私の自己紹介聞いてもらっていい?」
「っッ、うん……いいよ」
無心と注がれるカルピスウォーターを見つめていたあたしに篠宮さんは突然そんな事を言ってくるものだから一瞬驚いてしまったが、推しが自己紹介をしてくれるという神イベを断る理由は無いとあたしは頷いて、カルピスウォーターを手にとって、篠宮さんにマシーンを譲った。
「始めまして、てわけじゃないけど改めまして私は
篠宮さんはドリンクバーのボタンをポチポチと押しながらちょっと気恥ずかしげに自己紹介をしてくれた。照れが隠しきれてなくて意外性な可愛さがマシマシで、あたしの身体から魂が抜け落ちて昇天してしまいそうなくらいの神イベご褒美だ。いかん、ここで昇天しては再び後悔に沈む、立ち上がれあたし、ちゃんとした自己紹介を返してみせるんだッ。
「うん、あたしは「
あ、あたしなりにちゃんと伝えた自己紹介だけど、ダメダメ感がやっぱり拭えないよ。自分の名前、あんまり好きじゃないていうのも透けて見えちゃいそうだし、篠宮さんの自己紹介とは雲泥の差だ。
「可愛いね、
「ぇ……か、カワ、わ……ぁ」
そんな再び落ち込みのあたしに推しからの
気のせいか、篠宮さんもワタワタしてるように見える(きっと見えるだけだろう)けど、気になるのはジュースのボタンを見ずにポッチポチとブレンド投入している事だ。何だか、とても凄く、スゴイ色になって
「い、今のはさ――」
「――そ、それ、よりそれ、飲むのダイジョブ?」
「ん?」
篠宮さんは
「ま、まぁ、頼まれていたどおりだと思うから……うーん、たぶん」
「そ、そうなん、だ……スゴいの飲む人いる、んだ」
「ねぇ~、ロシアンドリンクだとか何とか言ってたけどねぇ、アハハ」
篠宮さんは微妙な顔をしながら笑う。本当にこれを飲む人がいるのかと疑問を持ち掛けたが、推しを疑うという思考回路を持たないあたしは全肯定でそこを信じます。実際、世の中には不可思議なものが大好物という方もいるし、お母さんの時代にはじゃがりこにお湯ブチ込んでポテトサラダもどきを作るブームがあったらしいしそれに近しいものだろう……たぶん(じゃがりこポテトサラダ(仮称)が好きな方にはごめんなさいと言おう)
「そのさ、石川さんじゃなくて、
「そ、それは……よ、よろしく、おねがい……しの――
「わ……うん、よろしくね
頭の中が一瞬だけじゃがりこになったあたしに、篠宮さんは突然と名前で呼んでいいかなと聞いてくる。
そんな、推しからそんな、可愛いヒソヒソ話なポーズで顔を近づけてお願いなんてされては断る理由なんて無い。あるはずは無いッ。こんな名前でよかったら幾らでも呼んで欲しい。というかこれは神が与えてくれた一生に一度のご褒美かと心が有頂天になっていたあたしはドサクサに「
だがしかし、美緖さんの片手には
「わ、わ、じ、ジュースが」
「うわっとおぅッ」
美緖さんは日頃鍛えた体幹力の賜物か腰を落として上手くジュースがこれ以上零れないように調整していた。そんな推しの見せるお茶目さは何だか破壊力が凄くて、あたしはニヤけそうになる顔を堪えるように顔を伏せたが、腰を落とした美緖さんの視線とバッチリと合ってしまい、またさらなる至近距離で素敵な笑顔を魅せてくれた。
なんだろう、これは夢なのか? いや、手についたジュースの冷たさは現実だ。これは現実、あたしは今日、推しと友達になってしまったようだ。
あたしの遠くから見つめるだけでよいと心に固く誓った推し活は、あっという間に趣旨替えと相成ったのである。
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