第2話(2)
「僕は君たちのことなんて一ミリも興味ないし、馴れ合うつもりもないから」
美嶋が数人のクラスメイトにそう言い放ったのはこよりが同様の言葉を聞いてから数分のことだった。
彼女たちは朝のこよりを助けた時の話を聞きつけ、美嶋に興味を持った者たちである。
美嶋のことを知ってみたくて、わざわざ美嶋が教室に帰ってくるのを待っていたのに、話しかけた途端に盛大に拒絶されてしまった。
「あのさ、私と喋りたいだけなら帰ってくれないかな?僕、今から勉強するから」
「勉強?今から?ここで……?」
「そうだよ。学校は勉強するための場所なんだから、別に僕が教室で勉強したっておかしなことはないよね?僕、何かおかしいこと言ってる?」
美嶋の言葉に何も言えなくなってしまったクラスメイトは困惑しきった表情を浮かべながら、お互いの顔を見合わせる。
そして、美嶋から逃げるように教室から去っていった。
「ゆ……美嶋さん。どうしてあんな酷いことを言うの?あの子たちは美嶋さんと仲良くなりたがってただけよ?」
「迷惑なんだよ、そういうの。こっちは興味もないんだから、関わらないでほしい」
美嶋は窓際にほど近い最後尾の自分の席に戻ると、鞄から筆記用具とノート、辞書のように分厚い参考書を取り出した。
「一さんも用がないなら早く帰ってくれない?気が散るから」
「……そうやって他人を遠ざけてまで、あなたは一体何のために勉強をしているの?」
「集中したいから話しかけて来ないで」
「答えて!」
こよりは美嶋の机に両手を叩きつける。
すると、美嶋はビクリと肩を飛び上がらせ、目を丸くしさせながらこよりの顔を見やった。
「優、答えて。他人の気持ちを平気で踏みにじってまで勉強したあなたは将来何になるの?」
「……」
美嶋はこよりの瞳から逃げるように顔を俯かせた。
「都合が悪くなったら逃げるのかしら?」
「……うるさい。うるさい、うるさい!」
美嶋の上げた叫び声が教室中に響き渡る。
そして、美嶋は生まれつきの鋭い眼光をさらに光らせて、こよりを睨みつける。
「お前に私の何が分かる……今日初めてあったばかりのお前に!僕はお前やさっきの奴らように仲良しごっこで遊んでいられるほど暇じゃないんだ!時間が足りないんだよ……僕には……」
美嶋の瞳からキラキラと光を反射させるものが溢れ出てくる。
「先生と約束したんだ……教師になるって……だから、僕は全部を犠牲にしてもならないといけないんだ……」
「え……?」
美嶋は嗚咽混じりに言った。
美嶋が目元を拭うと、化粧の下から真っ黒なひどい隈が現れる。
彼女の言葉と行動、目の下にできた隈から、彼女がこれまでどれだけのものを犠牲にしてきたのかは想像に容易い。
(私のせい……?私が夢を叶えてって言ったから……?)
こよりはもう何も言えなかった。
なぜなら、美嶋が他人と距離を取る原因を作ったのは自分だったのだから。
「……青春が送りたいなら僕抜きでやってくれ。僕を巻き込まないでくれ」
美嶋は素早く出したものを片付けると、足早に教室から出ていこうとする。
「あ……」
こよりは美嶋に手を伸ばしかけ、すぐにそれをやめた。
廊下から聞こえる美嶋の足音はだんだんと遠ざかって小さくなっていき、やがて聞こえなくなる。
「ごめんなさい。あなたを縛り付けるつもりなんてこれっぽっちもなかったの」
*
家の浴室、こよりは暑いとぬるめの中間くらいのちょうどいい温度になった湯船に浸かりながら、昼間のことを考えていた。
(今の優のやり方は間違っている。ただ勉強ができるだけではダメなの。だって、教師が相手をするのは人なのよ。他人と接することをやめたままでは、いずれ他人の気持ちが分からない人間になってしまうわ)
「でも、
美嶋が他人を拒絶してまで勉強を優先するに至った原因はこよりにある。
だが、今の彼女は『一条麗華』ではなく、『一こより』だ。
こよりは視線を落とし、もうすっかり綺麗になった胸元の手術痕を見やる。
(そもそもこれは
「ああ、もう。分からない……」
「何が分からないのかしら?」
そう問いかけたのはちょうど脱衣所に来ていた知世だった。
知世は脱衣所のへとつながる浴室の扉をちょっとだけ開けると、頭だけを浴室に出してこよりを覗く。
「学校のことかしら?困ったことでもあった?良ければ相談に乗るわよ?」
「えっと……」
(こんなことでお母さんに頼ってしまっていいのかしら?でも、今の私ではもうどうにも……)
こよりは少し考えると、言葉を選びながら慎重に問いかけた。
「お母さん。今日、とても変わっているクラスメイトがいたんです。その子は恩師ととある約束をしていて、その約束を果たすために人間関係や学校生活を犠牲にしようとしていました。でも、今のその子のやり方では本当の意味で約束を果たせないと思うんです。でも、そのことを無関係な私が言っていいのか分からなくて……」
「こよりはその子のことを助けてあげたいのね?」
「……はい」
「いいんじゃないかしら。ガツンと言ってあげなさい」
そう言って、知世は握りこぶしを作ってみせる。
「でも、私はその子とはクラスメイトってだけで、まだ友達でもないんですよ?」
「その人の悪いところは気付いた人が言ってあげればいいのよ。お母さんが編集部にいた時もそうだったわ。本人に悪い、反感を買ってしまうかも、って怖くなって思ったことを言わないのは、結果的に本人のためにならないのよ。本人が悪いことと気付いない場合だってあるんだから」
知世は笑みを浮かべながら浴室に入って来ると、こよりの頭を優しく撫でる。
「大切なことは本人に間違っているということを気付かせることだと私は思うわ。その結果、自分が嫌われるかもしれない。でも、それはその人を想ってのことなのだから受け入れるしかないわ」
「……」
「こよりはその子とどうしたいの?助けてあげたいの?仲良くなりたいの?」
こよりは何かを言おうと口を開ける。
しかし、出かかった言葉は喉の奥で詰まってしまう。
「お母さんは前の私ならどうすると思いますか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「だって、前の私がしない選択をしたら、お母さんは悲しむかなって思って……」
こよりの言葉に、知世は目を丸くして驚きを現す。
けれど、知世はすぐに慈愛に満ちた仏のような柔らかい笑みを浮かべてこう言った。
「前にも言ったでしょう?どんなあなたでも私と一歩さんの娘なのは変わりないわ。だから、『今のあなた』がしたいことをしなさい」
「いいのですか?」
「もちろん、いいわよ」
「……」
今の自分のしたいことをしてもいい、そう言われてもなおこよりは迷っていた。
こよりは瞳を閉じて、浴室の湿った空気を肺いっぱいに吸い込む。
そして、自分の両頬をパチンと叩いてみせる。
「私は……優を助けてあげたい。だから、あの子にガツンと言ってきます」
*
次の日、こよりは誰よりも早く登校し、教室で美嶋を待つことにした。
美嶋はこよりが教室についてから十分と経たない内に姿を現した。
「美嶋さん、おはよう」
「……はあ、おはよう」
美嶋は面倒くさそうに顔を引きつらせながら、挨拶を返した。
そして、こよりの隣の席――自分の席に着くと一番に筆記用具と参考書を机の上に広げ始めた。
「ねえ、美嶋さん。昨日のことだけど――」
「僕、今から勉強するから話しかけないでくれるかな?」
美嶋はすでにイラついたような棘のある言い方だった。
「分かったわ。確かに勉強中に話しかけるのは良くないからしないようにするわ。でもその前に、一つ言わせてもらってもいいかしら?」
「ダメ」
「美嶋さんのその全員を敵に回すような態度は良くないと思うの」
「……」
美嶋は切り殺すかのような鋭い睨みでこよりに視線を送る。
こよりは彼女の視線に怖じ気づく様子もなく、話を続けた。
「美嶋さん。あなたは教師になりたいんでしょ?なら、今すぐその態度を止めるべきよ。勉強ができるだけで、教師になれるとは思えないもの」
「……教師になったこともない癖にまるで分かったかのように言うんだね。お前は何様だよ」
「だから、これはただのお節介よ。美嶋さんの言う通り、確かに
そう言った途端、美嶋は席を立ちあがり、一瞬のうちにこよりの襟を掴み上げる。
一つ言葉を間違えればこよりに殴りかかってしまいそうな恐ろしい剣幕だった。
今の彼女は文字通り、逆鱗を逆なでされた気分であることだろう。
「ねえ、聞こえなかったからもう一回言ってよ。今の私が何だって……?」
怒りのあまり、彼女の声は震えていた。
そんな状態であるにもかかわらず、こよりは一瞬たちとも怯んだ様子を見せなかった。
そして、こよりは淡々とこう言った。
「そう。なら、もう一度言ってあげる。今の美嶋さんでは、教師になることは絶対にできないわ」
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