第2話(3)
「今の僕では教師になれない?絶対……?」
こよりからそう断言されてしまった美嶋。
彼女の顔はこれ以上にないくらいの怒りが現れており、こよりの制服の襟を掴む手は今にもこよりの制服を引きちぎってしまいそうなほど力が込められていた。
「何で、お前にそんなことを言われなきゃいけないんだ。僕は先生が死んでから今までずっと頑張って来たんだ!睡眠時間も削って、人間関係も削って。学校を辞めさせられちゃったけど、僕は一日も休まず勉強し続けたんだ!なのに、どうして僕がそんなことを言われないといけないの?」
「あなたは極端なことに走り過ぎなのよ。あなたは教師になりたいのでしょう?学校で授業をするんでしょう?生徒と関わるんでしょう?なら、どうして学生である今この瞬間を大切にしないの?勉強ばかりして学生生活をまともに経験してない教師が一体生徒に何を教えるの?」
「う、るさい……うるさい、うるさい!」
美嶋はポロポロと瞳から涙を流しながら、大声を張り上げる。
怒りで鬼の形相を浮かべていたはずの表情はいつの間にか弱々しい少女のものへと変わっていた。
「僕は頑張ってるんだ……間違ってなんかない……」
「ええ、頑張っていると思うわ。でも、その努力の仕方は間違ってる」
「間違ってない!」
美嶋はこよりを涙を流したまま、これでもかと睨みつけてみせる。
その様はまるでムキになって自身の主張を通そうとする幼い子供のようだった。
幼くて、か弱くて、触れたら壊れてしまいそうなガラスのような女の子。
今の彼女こそ、こよりがよく知る美嶋だった。
「もう僕にかかわらないで……僕のことなんて放っておいて……」
「放っておいてあげたら、その態度を直してくれるの?」
「直さない。だって、僕は間違ってない。これは先生との約束を守るためなんだ」
「――っ!」
美嶋が「一条との約束」を口にした瞬間、こよりは美嶋の頬を思いっきり引っ叩いた。
それはあまりに一瞬の出来事で、美嶋は何が起こったのか分からず、目を丸くさせたまま固まってしまった。
次の瞬間、今度はこよりが美嶋の服に掴みかかり、教室いっぱいに響き渡る声で怒鳴りつけた。
「他人との約束を言い訳に使うんじゃないわよ!何?その先生とやらはあなたに生徒の気持ちを思いやれない先生になれって言ったの?違うでしょう?その人があなたになってほしいと思った教師の姿は、あなたがなりたい教師の姿はそんなものじゃないでしょう!なのに、あなたは間違った方向に進む理由をその人のせいにした。それは、その人に対する最低の裏切り行為なのよ!」
こよりの肩はまるで激しい運動をした後のように激しく上下していた。
対して、美嶋はこよりの表変と怒りのこもった言葉の数々に怖気切ってしまい、小刻みに身体を震わせていた。
「……ご、めんなさい。ごめんなさい、先生」
美嶋はその場で崩れ落ち、「ごめんなさい」と恩師への謝罪を口にしながら、滝のような涙を流して大泣きした。
(伝えたいことは、伝えられたかしら?)
こよりは美嶋の身体をそっと抱きしめる。
(私の方こそ、ごめんなさいあの時、私が残されたあなたのことを考えていれば、きっとこんなことにはならなかった。本当にごめんなさい)
美嶋の身体を抱きしめる力が少しだけ強くなる。
「もしかして泣いてるの?」
「……泣いてないわよ」
「嘘。絶対泣いてる」
美嶋はこよりの身体を引きはがし、視線を顔の方へと向ける。
こよりは目元が腫れ、目は充血し、鼻先は赤く染まっていた。
「やっぱり泣いてた。でも、何で?」
「……」
こよりはふっと小さな笑みをこぼすと、一瞬目蓋を下ろす。
そして、目蓋を持ち上げると同時に掴みどこのない妖艶な笑みを浮かべてこう言った。
「秘密」
「何それ?この前のお返し?」
こよりにつられて、笑みをこぼす美嶋。
お互い酷い泣きっ面で、ひどい顔であるにもかかわらず、二人の表情はとても生き生きしていた。
*
「……僕、昨日の子たちに謝るよ。それで、学校生活と勉強の両方を頑張ってみる」
美嶋がそう独り言のように呟いたのは、お互い落ち着いて席についていた時だった。
「それでお前は満足?」
「何か勘違いしているようだけど、私はあなたを自分の思い通りにするために喧嘩をしたわけではないわ。ただ、あなたのために言うべきことを言っただけよ」
「あっそ」
美嶋はふんっと鼻を鳴らしながら、こよりとは反対方向に顔を向けて突っ伏してしまう。
(嫌われちゃったかしら?そうでなくても、きっと面倒くさい奴とは思われてかもしれないわ。でも、いいや。優が変わってくれそうだから)
「ふあ……」
張りつめていた気が緩んだからか、はたまた美嶋との言い合いに気力を使い切ってしまったからか、こよりは大きな欠伸をした。
(困ったわ。これからが授業なのに……)
登校時間が近付き、廊下の方から登校した生徒たちの話し声や足音が聞こえてくる。
「やっばい。やらかした、やらかした~!朝一で決めないとまた教頭に怒られる!」
生徒たちの音に混じって、やけに焦った様子の聞き覚えのある声が廊下から聞こえてくる。
そして、声の主――鹿路は滑り込むように107教室へと入って来た。
「お!?一に美嶋じゃん!お前ら早いな!?」
「おはようございます、せんぱ……先生」
「……おはようございます」
「おう、おはよう」
挨拶を済ませると、鹿路は黒板の前に直行し、130㎝の小さな身体を目いっぱいに伸ばしながら黒板に文字を書き始める。
(板書する先輩って小動物みたいでいつ見ても可愛いわ。それで、一体何を書いているのかしら?)
「『朝のホームルームで学級委員と委員会を決めるから、考えといて。昨日奴予定だったんだけど、忘れてた。ごめんな♡』って、え……?」
朝のホームルームなんて、せいぜい十分程度しかない。
だが、こういった決め事は大抵の場合時間がかかる。
よくあるのが、意欲のある生徒が多く、立候補を多数で席の取り合いになるパターンと逆に誰も立候補をしないため話が進まないというパターンだ。
そうなるであろうことはきっと彼女も想定しているはずなのに、それでも彼女は時間を巻きに巻いてやってしまおうというわけだ。
「いや~。今日から委員会の会議もあるってのにすっかり忘れてさ。秒で決めんとアタシのクラスだけ不参加になっちまってシャレにならんわけよ。特にアタシが教頭にド怒られる……」
鹿路はこよりと美嶋に向かって、舌の先をちょっとだけ出して見せる。
そして、反省なんて微塵も感じない満面の笑みを浮かべてこう続けた。
「そういうわけだから、今日の朝は委員会決めだ。時間内に終わらねえと、アタシもお前らもえらい目に合うから頑張ろうぜ♡」
「「……」」
こよりと美嶋は驚き半分呆れ半分で鹿路を見ていた。
いや、正確には驚き一割未満呆れ九割以上である。
「やっぱり、ただ教師になるだけじゃダメなんだ。あんな滅茶苦茶な教師になっても先生はきっと喜ばない……」
美嶋が鹿路に聞こえない小さな声でそう呟いたのを、こよりは聞き逃さなかった。
(……ごめんなさい。先輩のそういうところは昔からなの。大学で一緒だった時にもっと言っておけばよかったわ。本当に申し訳ない)
同じ大学に通っていた鹿路の後輩としてこよりは静かに美嶋とクラスメイト達へ謝罪するのだった。
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