その眼は闇黒

 昔、深い仲だった女がいた。絹のように細くて手触りの好い、肩まで伸ばした黒い髪が美しい女だった。知り合ったのはたしか二十かそこらのところで、私の視線はいつも彼女に連れられ右往左往していたように思う。

 女は右手でいつも何かを弄んでいた。その横顔さえ美しくて溜息が出るほどであったから、私は余程彼女に心酔していたらしい。女は時折こちらをちらと見やって艶やかな微笑を浮かべた。彫刻の様に冷やかな肌に引かれたルージュの端が吊り上がる度に私は息を呑んだ。その瞬間を写真に収めたいと言ったら、肩に触れた髪の先をふわりと揺らし、気恥しいから好かないと柔らかな笑みを浮かべて言ってのけた。私は女が厭と言うなら厭なのだろうと思って、それきり、その話はしなかった。

 ある夜、私は女と夜の街を歩いていた。眩いばかりの低俗な電飾の下ですら、私は女のしなやかな肢体の駆動に品を感じていた。二三杯やったあと、目に悪い下賎な電光の明滅から逃げるように私と女は四本先を右に曲がって、先程の喧騒とは打って変わった閑静な住宅地へと抜けて出た。その日はやけに日暮里だの下谷だのをうろうろとしていたから、私は脚が疲れたなどと抜かして公園の隅の椅子に腰掛けた。女は柵にもたれていた。月明りの僅かな光が映し出す横顔の美しさに目を奪われていたが、やがて雲に隠れて夜の闇に輪郭がぼやけてゆくうち、ふとつまらない疑問が水面から顔を出した。取るに足らない質問であっても、一度気になってしまうと離れない。だから、「趣味だとかはあるのかい」と尋ねた。私は女のことを殆ど知らなかったのである。再び顔を出した月光に映った顔はこちらを見て、そのうちにくすりと笑った。毛先が柔らかに揺れて、女の肩先に触れた。そして、「それは大事なことなのですか」とだけ答えた。いつもなら立派に上を向いた睫毛が時々ぱちりと閉じられるさまを見ていられるのだが、なぜだかその日はそうもいかなかった。それで「だって私は君のことをあまり知らない」と言ってみた。また月に雲が覆いかぶさって、彼女の表情はもやがかかったように見えなくなった。ただ、声色を変えず女は「貴方は可笑しなことを言うのね」と笑った。確かに可笑しいことだった。私は彼女の趣味も知らず出身も知らず、普段何をしているのかも皆目見当がつかない。知っているのはその陶器の様に白い肌と憂いを帯びた黒い瞳と、残り幾許の外見的特徴のみである。そもそも何故私はこの女と恋仲に落ちたのか、それすらも知らなかった。

「君は何が好きで普段は何をしているのか」と尋ねてみた。すると女は「知らない事の多い方が魅力的でしょう」とまるで趣意を察してなお上辺を撫でるかのような言い回しをする。普段ならばそれはそうかとそこで引き下がるところを、天球の星の巡りのせいか、その日の私は求める答えを引き出したくなった。それで、そういうことじゃない、普段は何をしているのかと重ねて尋ねた。月に重なった厚雲は晴れていた。それでいてなお、暗かった。

「知りたいですか」座る私のほうを見やった女から降り掛けられた言葉は冷やかで、その肌と同じ温度をしていた。冷気が鼓膜を通じて腹の底を撫でる。その感覚が厭に悍ましくて私はすこしえずいた。私は上手く息が出来なかったから、そのえずきは小さな喉笛を鳴らすに留まった。「いいですよ、教えても」女はやけに彩度の落ちた真紅を蠢かせて言った。今度は言葉に温度を感じる事がなかった。風が吹き抜けて、黒く長い髪が嫋やかに揺れた。私を見下ろす、陶器のように冷たくて白いその肌にふたつ付いた硝子水晶の様なその眼は黒かった。視線は私の目を捕らえて離さなかった。やがて目の端から厚く塗った絵具がどろりと溶けて流れ出た、様に感じた。私は蛇に睨まれた蛙の様に目を離せずにいた。その瞳は闇黒であった。

 その後どうしたかはあまり定かではない。気が付いたら自宅で眠っていたからである。それからあの女には会っていない。夏に祭りなどに出掛けて、鴉羽の様な黒いビードロ玉を見る度にこの話を思い出すから厭である。

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