第三十三章 誰にとっての悪役令嬢?③
一目見た瞬間、それは自分がよく知る光景だとわかった。
飛ぶ鳥に乗り移ったかのように俯瞰で見るのは初めてなのに、北部と皇都をつなぐ街道だと感じとる。
幽体のまま空中に浮かんだカトリーヌは遠くに箱庭のごとく霞む皇都を見て、いくつもの丘を越えた街道をひたすら北進する馬車と、空に浮かびあがる白い山脈とを見てとった。
(あれは……わたしが乗っていた馬車だ)
飾り気のない馬車には当然のように、皇立幼年学校に通っているときに使っていたような紋章や金色の縁飾りはついていない。
それでも、カトリーヌの意識は、前世の自分が乗っている馬車だと確信していた。
皇都に近い天領を抜けると、街が途切れ、あたりはゆるやかな丘が連なる森になる。
街道は整理されていたものの、盗賊が出たり、普通の動物ではない魔物が出ることもあるとされており、森を抜けるのは御者にとって緊張する場所でもあったた。
しかも、この辺りは大きな狼のような魔物――ジェヴォータンの噂がある地域だ。
御者は狼や魔物と会う前に森を早く抜けようとしたのだろう。
馬に鞭を打って急かしていた。
左右が崖となる道にかかったところで、異変は起きた。
『ああっ……危ない!』
切り通しの道を抜ける前に大きな丸太が転がり落ちてきた。
叫んだところで御者に聞こえるわけもないが、カトリーヌは声をあげていた。
こうして、幽体の姿ですべてを見ているとよくわかる。
事故はあきらかに誰かが仕組んだ罠だった。
馬車のなかにいた前世のカトリーヌは、ただ馬車が大きく揺れて驚いていただけで知らなかった。
動揺し、大きく前足をあげた馬に向かって、矢が飛んできたことを。
射貫かれた馬が苦しそうに体をくねらせたところで御者は地面へと投げだされ、馬とつながっていた箱馬車がぐらりと傾いで横倒しになる。
そこに幾人もの、覆面をした賊が崖からの巻き道を下って現れた。
「し、死にたくない……助けてくれ!」
怪我をしながらもいち早く切り通しの先へと逃げだした御者には、彼らは目もくれない。
「元メディシス公爵令嬢はこのなかだ」
宙に浮かびながらその言葉を聞いて、はっとカトリーヌは目を瞠った。
カトリーヌもよく覚えている。馬車が倒れた衝撃で一瞬、意識を失ったあと、必死で扉を開けて外に這いずって出たのだ。
『いや……わたしを殺さないで……!』
幽体のまま叫んだところで、相手に聞こえるわけがない。
覆面の男が、よろよろと外に出てきたカトリーヌの背中にナイフを突き刺した。
「う、嘘……いや……せっかく断罪を逃れたのに……死にたくない……」
地面に流れるおびただしい血が、もう助からないと告げているようだ。
「おい、馬の足音だ……誰が来る。金品を奪ってとっとと引きあげるぞ」
カランと血まみれのナイフが道ばたに落ちる。
馬から下りて近づいてきた青年がナイフを拾った。
――ユージンだった。
馬から下りたとき、風がフードをあおり、金色の髪を露わにする。以前に見たことがあるマントを纏った姿をしている。
「カトリーヌ!? おい、カトリーヌ……しっかりしろ……カトリーヌ!」
その声は意識を失ったカトリーヌには届かなかったのだ。
死んだカトリーヌの魂は時を超えて、十才に死に戻ってしまったから――。
『ユージンじゃなかったんだ……わたしを殺したのは……』
ただの賊にしては狙いすましたようにカトリーヌの乗る馬車を襲ってきた。
つまり、この日カトリーヌが北部に向かうことを知っていた人物ということになる。
カトリーヌが皇太子と婚約破棄したことは皇都中の噂になっていたし、北方へ向かう馬車の手配をしていたのは調べようと思えばいくらでも調べられただろう。
それでも、殺したいほどカトリーヌに恨みを持つ相手となると、そう多くはない。
(さっき見たディアナの台詞も気になる……でも、彼女ひとりでこんな大がかりなことをするだけの力を持っているわけがない)
万が一、ディアナが黒幕だとしても、彼女に力を貸した勢力がいるはずだ。
『ディアナの出身地は確か皇都の貧民街だったわね。もう彼女はわたしの今世にも存在しているはず……今世では誰も彼女に殺させはしない』
前世のカトリーヌは、できるだけディアナと関わらないようにしていた。
婚約者の愛人となんて話をするだけで不快だ。
でも、それが仇となったのかもしれないといまさらながら気づいた。
(彼女がどのようにアンリに近づき、どんな力を持っていたのか、今世では背後を探るべきかもしれない)
力のない前世ならともかく、両親が生きている今世ならば、それが可能なはずだった。
(なぜ調べるのかは不思議に思われるのかもしれないけど……それはあとで考えたほうがいいわね)
今世で巡らすべき策略をひとまずおいて、前世の自分の終幕に目を向ける。
泣き崩れるユージンを見て、カトリーヌはひとつだけ悟った。
――結局のところ、普遍的な正解なんてどこにもない。
二度死に戻って、やっとそれを理解した。
断罪で死に戻ったカトリーヌがアンリを見かぎり、婚約破棄して逃げだしたのは、そのときのカトリーヌにとっての最適解だったのかもしれない。
一方で、カトリーヌがアンリとディアナから逃げたことで、悪役令嬢の因果はユージンにとっての災厄となった。
息が途絶えたカトリーヌを抱いたユージンは血まみれで、この場面を見た人なら誰もがユージンが殺したと思っただろう。
場面はまた水面が揺らぐように移り変わり、青年のユージンが暗闇のなかで卵を抱きかかえていた。
「この孵らなかった卵のように……後悔してもなんにもならない……」
うつろなユージンの言葉がカトリーヌの胸を締めつける。
「兄上から逃げだした君が誰かに殺されるぐらいなら……カトリーヌ。いっそ君を僕の手で殺して、その亡骸を一生そばにおいたのに……」
ユージンはそこまで言うほどカトリーヌのことを思って助けてくれたのか。
前世でのユージンは、子どものころの付き合いしかなかったはずなのに。
(ううん、わたしにとってもお母さまや第二皇妃殿下が――おばさまいて、ユージンと遊んだ記憶はしあわせな記憶だった……)
だからこそ両親がいない人生が辛かったのだから、大切な母親を失ったユージンも同じ気持ちだったのだろう。
その点ではカトリーヌとユージンの境遇はよく似ていた。
カトリーヌは彼が抱えている卵に近づいてそっと囁く。
「リヴウェル……この卵はあなたなのね……」
二度死に戻ったカトリーヌには見覚えがあった。
今世ではカトリーヌが魔力を注ぎ、孵化したが、前世では出会うことがないままだった。
透きとおったカトリーヌの手がユージンの手に重なるようにして卵に触れた瞬間、リヴウェルを中心にまた大きく空間に波紋が広がる。
青白い光が広がるようにして世界が大きく揺らぎ、目の前に広がっていた光景が水が流れおちるように揺らぎはじめた。
『待って……ユージン!』
幽体で叫んだところで彼に伝わるわけでもないのに、カトリーヌは思わず叫んでいた。
『ごめん、ごめんね……あなたがわたしを殺したと思ってた』
ユージンと会うたびに心の片隅に残っていた小さな氷のような警戒心が溶けて消える。かわりに、それは罪悪感でもあったことに気づいた。
ユージンをアンリの婚約者にならないための盾として利用しながらも、彼に殺されるかもしれないとどこかで脅えていた。
――心から彼を信じられなかったがゆえの罪悪感。
『ごめんね、ユージン……わたしの代わりに疑われたのに……今世ではあなたを信じるから!』
彼がこのあとどうなったのかはわからない。流れ落ちる水の流れはやがて青白く光り、すべての視界を奪った。
次の瞬間には、カトリーヌは十三才と少しを過ぎた自分の体に戻っていた。
さっきまで透けていた自分の指も実体がある。
「あ……」
目の前に涌きでる泉は、その水面に現実のドーム天井を映すだけだ。
薄暗く静かな空間そのものが、『もう行きなさい』と告げているかのようだった。
「ぴぎゅうう……」
リヴウェルがふわりと飛んできて、カトリーヌの肩に止まる。
たったいままで感じていた感情があまりにも激しかったのだろうか。
本当に経験したことののかわからないのに、カトリーヌの金色の瞳から涙が溢れていた。
頬を伝う雫がぽたりと落ちると、心配そうにリヴウェルが首筋に顔を寄せる。
「そうね……そろそろ戻りましょうか」
カトリーヌは袖で頬をぬぐい、小さなドラゴンに促されるようにして、背後を振り向いた。
円形の広間のたったひとつの出入口――繊細な浮き彫りが施された扉の把手に手をかける。
まだ小さなカトリーヌには目の高さより高い把手を力を込めて押しさげ、どうにか扉を開いたときだった。
その扉の向こうには円形の会議所が広がっていると思っていたのに、薄暗い階段が見えた。
「あれ? 悪役令嬢会議じゃなくて……もしかしてナトボーンの図書館に戻ってきたの?」
理屈はよくわからないが、もしかしたら、あの円形の広間にいた時間が長かったせいで、悪役令嬢会議が終わってしまったのかもしれない。
もともと、扉と扉でカトリーヌのいる世界と繋がっているから、滞在時間を超過して元の世界に帰されたと言うことなのだろう。
「きゅいっ」
いちはやく戻ってきたことを察したリヴウェルがうれしそうな声をあげて階段の上へと飛んでいく。その先から、
「やぁ、リヴウェル。カトリーヌはどこ?」
このところかすれ声になっているユージンの声が聞こえてきた。
「ユージン!?」
「うん? カトリーヌどこにいる……」
きょろきょろと黒髪に金色の瞳の処女を探して視線をさまよわせていた少年に、いちはやくカトリーヌは抱きついていた。
急いで階段を上ったせいで息が苦しかったが、その苦しささえいまは自分が受け止めるべき罰だと思えた。
「ごめんね、ユージン……」
「え? なに……なにか図書館の本でもダメにしたの?」
とまどう声を聞くとなおさら、彼をずっと疑ってきたことが罪悪感となって襲ってくる。
「ごめん……ずっとユージンがわたしを殺したと思っていた……」
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