第三十一章 誰にとっての悪役令嬢?①
本を机の上に置いたまま、近くの本棚の裏を見て回る。
「リヴウェル? どこにいるの?」
城のなかの図書館だから、入口に司書がいる以外、利用者はいない。
それでも、図書館という場で大声を出すのははばかられる気がして、カトリーヌは控えめに名前を呼びながら自分より背が高い棚から棚へと探し回った。
「きゅうう……!」
聞き慣れた鳴き声が聞こえたのは、探しはじめてからずいぶん経ってからだった。
(この図書室、公的なものではないらしいけど、思っている以上に広い……)
「リヴウェル?」
釣鐘形の窓の陰から遠く離れ、薄暗い場所で名前を呼ぶと、
「きゅう!」
と元気に応える声があった。
明暗の差のせいで、一瞬、目の前が真っ暗になる。
しかし、目が慣れてくると、本棚と本棚の向こうに階段があるのが見えてきた。
その階段から、ぴょこ、と真っ白なドラゴンの頭が出ていた。
「そんなところにいたの……なにか気になる本でもあるの?」
さっきリヴウェルが魔法に関する本を探しあててくれた嗅覚で、カトリーヌの欲しい情報を得られるかもしれない。
そんな期待をしながら、カトリーヌは階段を降りていった。
リヴウェルは追いかけっこのつもりなのだろうか。近づくと、カトリーヌの手をすり抜けるようにして飛んでいき、ついには階段が終わるところまでたどり着いてしまった。
踊り場の正面には、大きな両開きの扉が待ちうけていた。
古びていたものの、扉に描かれたエナメルの模様はアシンメトリーに綺麗な曲線を描いて美しく、一目で手のこんだ作りだとわかる。
「きゅううう」
扉の前で滞空飛行してみせる小さなドラゴンは、まるでカトリーヌをここで待っていたと言わんばかりだった。
手を伸ばして、空中に浮かんだリヴウェルを腕に抱く。
「きゅぴゅ?」
問いかける声は、心の準備はできているかと言っているかのようだった。
扉のノブに手をかけると、意外なことに鍵はかかっていない。
少しずつ開かれていく扉の向こうから眩しい光が溢れ、視界が真っ白に染まった――。
――こうしてカトリーヌはリヴウェルを腕に抱いたまま、悪役令嬢会議に足を踏み入れたのだった。
† † †
ドラゴンというものの本能なのだろうか。
まだ幼いながらも、リヴウェルはドラゴンの一族なのだというプライドがあるらしい。
ぬいぐるみのふりをするのも嫌がるし、ほかの生物だと思われることも嫌がる。
だから、悪役令嬢たちからぬいぐるみ扱いされ、さらには悪霊扱いまでされて、珍しくリヴウェルは本気で怒っていた。
「ぎゅうううっ、ぎゅぎゅぴっ!」
「リヴウェル……落ち着いて。ここは見知らぬ人たちばかりなんだから……初めて会う人には礼儀正しくするのが力が強いドラゴン一族としての正しいあり方だと思わない?」
リヴウェルの高い誇りをくすぐるように、カトリーヌは慎重に言葉を選んだ。ぴくりとリヴウェルの翼が動く。
もう一押しだ。
「ほかの令嬢たちの前で暴れるなんて……ママの教育が悪いと思われてわたしは悲しいわ。リヴウェルのことはパパと愛情をこめて育てているのに……」
よよ、と泣き真似をして見せると、ドラゴンの心に訴えるものがあったのだろう。
「きゅう……」
しゅんとした声を漏らして、議長の机の上でおとなしくなった。
カトリーヌももちろんこの場所に立つのは初めてだった。
悪役令嬢会議で参加者の視線を一身に集める議長の場所だ。
円形の建物のなかで階段状になって広がる会議場の一番底である。
この場所からは室内がぐるりと見渡せた。
集まっているのはいずれも盛装をした悪役令嬢たちだ。
一言でいえば壮観だった。
美しいけれど眦の上がったきつい顔立ち、一目見て降嫁だとわかるドレスを着た令嬢たちに見つめられ、カトリーヌもその一員とは言え、思わず後ずさってしまう。
そこにリヴウェルがまた問題を起こした。
「きゅう?」
ドラゴンなりの嗅覚でなにかを嗅ぎつけたのだろう。
くんくんとなにかの匂いを嗅ぐように首を回したリヴウェルは、翼を広げてふわりと舞いあがった。
「リヴウェル?」
どこに行くかと思えば、カトリーヌの背後に飛んでいく。
議長の机の背後にはやはり巨大な扉があった。
すぐれた芸術家が心血を注いだと言わんばかりに、精密な浮き彫りが施された美しい両扉だ。
扉の真ん中には、大きく開いた翼が片方ずつに描かれており、まるでいまにも飛び立ちそうなほど生き生きとしている。
リヴウェルがその翼に近づくと、自然と扉が開いた。
わずかに開いた隙間に小さな肢体がするりと滑りこんでしまう。
「待って、リヴウェル!」
その背中を追うようにして、カトリーヌも悪役令嬢会議から議長席背後の扉へ――その向こうへと足を踏み入れたのだった。
「捕まえた!」
腕を伸ばして、真っ白なドラゴンのしっぽを無理やり掴む。
「ぎゅううっ」
リヴウェルは悲鳴めいた叫び声を漏らしたが、今回は好き勝手をさせすぎたから、そんな声を出しても騙されない。
親としてきつく叱る決意を固めていた。
ただでさえ、悪役令嬢会議はカトリーヌの理解を超えた世界だと言うのに、勝手に飛び回り、あげくの果てに見知らぬ扉を開いてしまった。
いままでは扉を開いて悪役令嬢会議へ入り、もう一度扉をくぐるのは帰るときと決まっていた。
ところがいまカトリーヌとリヴウェルがいる場所は、悪役令嬢会議の会議場でもなければ、悪役令嬢会議に来る直前にいたユージンの居城・ナトボーンの図書館でもない。
まったくの見知らぬ場所だった。
薄暗い円形の部屋は、ドーム天井に切られた天窓だけがまるで
白と黒のタイルで飾られた床の中心には泉があった。
「この水は……どこに零れていっているのかしら?」
不思議なことに、わずかに盛りあがった岩肌から水が溢れているのに、水面は凪いでいた。
次から次へと溢れる水は岩肌を伝って下方へと流れているようだが、床と岩肌のわずかな隙間は真っ暗でどこに向かっているかはわからない。
「変ね……水が動いているなら水の流れがあるものだけど……」
まるでユージンが考えそうなことだが、このときのカトリーヌは目の前の不思議に心を奪われていた。
好奇心に促されるままに両手で水をすくい、その一滴を水面に落としてみる。
すると凪いでいた水面に波紋が浮かび、その波紋が反響するように、ぴちょんぴちょんという澄んだ音が響きわたった。
もう一度水面が鏡のように戻ったとき、そこには見慣れた金髪赤眼の青年が映っていた。子ども姿のユージンではない。
成長した青年姿の彼だった。
『ユージン!?』
名前を呼んだとたん、なにか奇妙な感覚がした。
ふうっと体が宙に浮かび、狭い場所に体を斜めにしてすり抜けたような感覚――そのすぐあとに、自分の声がまったく相手に届いていないことに気づいた。
『どうしたの……ユージン? どこに行こうとしているの?』
彼が地味な色の外套を纏い、目立つ金髪をフードで隠すのを見て、カトリーヌはようやく違和感の原因に気づいた。
(違う……このユージンは今世のユージンじゃない!)
自分の手はまるで幻のように透きとおって見える。
言ってしまえば、この世界ではカトリーヌは影に過ぎなかった。声も届かなければ、ユージンに触れることもできない。
尻尾を掴んだはずのリヴウェルさえ、姿が見えなかった。
(ここは見覚えがある……皇宮の皇太子の宮だわ)
皇太子の婚約者だった前世では、何度も訪れた因縁の場所である。
ユージンはどこに行ったのだろうと思っていると、ぱっと場面が変わった。
「兄上、なぜカトリーヌと婚約破棄したのですか!? カトリーヌはあんなに兄上に尽くしていたのに」
皇太子の部屋で言い争う兄弟の姿が見えた。
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