第二十九章 蝶が逃げれば皇后に遭遇するバタフライ効果
蝶は地面に近いところを飛んでいるし、風を出すと捕まえにくいからだろう。
リヴウェルは後ろ足で跳ねながら、素早い動きで小さな丘を越えていく。
緑影宮に向かう小径を外れて、別の敷地に入り込むのを見て、カトリーヌの心臓はどきりと嫌な冷たさを伴って跳ねた。
「リヴウェル、そっちに行っちゃダメ!」
第二皇妃の敷地の近くにはほかの皇族の宮がある。誰かに見つかったら面倒なことになるはずだ。
息を切らせたカトリーヌが追いかけていくと、嫌な予感は当たっていた。
丘の向こうの小径に人影が見える。
ひとりではなく、従者を連れた女性だ。
皇宮の庭で何人もの従者を引き連れて散歩する女性なんて、心当たりはひとりしかいない。
(まずい……リヴウェルがあの集団にぶつかりでもしたら……)
カトリーヌが空堀を超えて植えこみの向こうへ出たところで、
「きゃあああ……蜥蜴よ! 変な蜥蜴が……!」
というつんざくような悲鳴が聞こえた。カトリーヌの足では間に合わなかった。
「リヴウェル! こっちへおいで」
声に反応して立ち止まったドラゴンをカトリーヌはあわてて抱きあげる。
ドラゴンを抱きしめたままの不格好な姿勢で、カトリーヌはどうにか頭を下げる。
「おまえが皇宮にその変な蜥蜴を持ちこんだの!? 不敬な……」
「カトリーヌ・ド・メディシスが皇后陛下にご挨拶申し上げます。陛下の輝かしい光に惹かれてわたしのペットが飛びだしてしまったのです。これも陛下のご威光がまぶしいあまりのことで、こんな形ではありますが、ご挨拶できて光栄です」
もちろんリヴウェルが飛びだしたのは蝶のせいだが、ここでそんなことを正直に言うわけにはいかない。
ただでさえ、皇后の性格は前世で味わってよく知っている。
皇后教育では、アンリの記憶力の悪さまですべてカトリーヌのせいにされた。
(恨みはあるけど、リヴウェルとユージンにまで累を及ばせるわけにはいかない……)
ここは平身低頭で乗り切らないと。
「おまえが……メディシス公爵令嬢か」
名前を覚えられていたことにカトリーヌは驚いた。
しかし、すぐにその理由はわかった。
「皇太子の婚約者候補に名前が挙がっていたのに、なぜ、第三皇子と婚約したのだ?」
アンリと同じことを問われ、カトリーヌはとまどった。
ユージンがメディシス家に遊びに来たときの、父親と祖父の反応を思いだす。
いま思えば、あのときすでにカトリーヌをアンリの婚約者にどうかという内々の打診があったのかもしれない。
(でも、わたしがユージンと仲がいいと知ってアンリとの婚約を断ってくれたんだわ)
もちろん、メディシス家としては、皇太子との婚約で得られるメリットのほうが大きかったはずだ。
それでもユージンを選んだのは、やはりカトリーヌがひとり娘だからだろう。
(ユージンの言うとおりだ。皇太子や第二皇子と違い、第三皇子ならメディシス家に婿入りする余地がある)
親戚筋から養子をとるより、ひとり娘に婿をとって後を継がせたい。
父親や母親はそう考えたのだろう。
(――だからわたしの答えは決まっている)
「わたしがメディシス家のひとり娘だからです、皇后陛下。父は母を愛しており、愛人を作っておりませんが、母はわたしを産むときにたいそう大変だったそうで、両親は二番目の子どもをあきらめました……ですから、わたしはメディシス家を継ぐ義務を負っております。皇太子殿下にすべてを捧げることはできないため、皇太子殿下の婚約者には不向きでしょう。もちろん忠心は別ですが」
貴族が皇族に忠誠を尽くすのは当然の義務だ。
それでもいくつかの例外があり、そのひとつが跡継ぎ問題だった。貴族の跡継ぎは戦争での徴兵の免除をはじめ、様々な優遇がある。
だから、カトリーヌがメディシス家の跡継ぎだと言えば、皇后でさえ皇太子の婚約者にしろという無理強いはできないはずだった。
「おまえはユージンの婚約者となってから皇子妃教育を受けたのか? 先日の皇太子の婚約式では、アンリとゴティエ侯爵令嬢の失態をさりげなくフォローしていたな?」
皇后の言葉に内心でぎくりとしていたが、表情に出さないように努めた。
――あれを見られていたのか。
「ただの偶然です。わたしはメディシス家のひとり娘で、将来は家業を継ぐ可能性があります。それで、メディシス家の取引相手に連なる国の重鎮は覚えていただけのことです」
これならやんわりとアンリとの関係を断りつつ、カトリーヌが相手を知っていた十分な理由になるだろう。
しかし、ソフィーはよほど皇后のお眼鏡にかなわなかったのか、まだ彼女はあきらめるつもりはないようだった。
「後継ぎのことなら、一時的に公爵位を保持して代理人に任せて、生まれた子どもに継がせればいいではないか。おまえの資質は第三皇子にはもったいないと思わないか?」
「皇后陛下、ユージンはとても素敵な人なんです……皇立幼年学校でもとても女生徒に人気があるんですよ。それに先日は新しい物質の発見でしょうまでいただいたとか。婚約者としては鼻が高いですわ」
カトリーヌはあえて皇后の言葉を遠回しに否定してみせた。
――だってユージンクラスじゃなかったら、相手と婚約破棄させて、わたしを皇太子の婚約者にしたでしょう?
とまではさすがに口にできない。
「たまたまユージン皇子殿下と同級生だったおかげで良縁に恵まれて運がいいと思ってますの」
皇后はメディシス公爵家とゴティエ侯爵家、ほかにも名家の令嬢の釣書を並べて、誰をアンリの婚約者に選ぼうか悩んでいたはずだ。
(ゴティエ侯爵家は商売上手でお金持ちだが、その分、外戚として皇室に口を出しそうだと思われていたのだろう)
実際、ユージンがゴティエ侯爵令嬢と婚約して逆らえなかったのだから、その懸念は正しい。
ここからどうしたものかと退出する機会をうかがっているところに、助けが入った。
「カトリーヌ! 来ていたんだ……遅くなってすまない」
ちょうど帰ってきたところなのだろうか。高等学校の制服を着たユージンが駆けてきた。
「皇后陛下にご挨拶申し上げます。私の婚約者が遊びに来るはずで……待ち遠しくて探しに来てしまいました」
ユージンはすっとカトリーヌをエスコートするように腰に手を回す。
こういうところがユージン推しの女生徒が騒ぐところなのだろう。興味あることしか夢中にならないくせに、カトリーヌのことをとても大事そうに扱ってくれるし、貴族の礼儀作法もそつなくこなしている。
端から見れば、仲がいい婚約者同士にしか見えないだろう。
「皇后陛下のお時間を奪ってしまい、申し訳ありません。緑影宮に向かう途中でしたので失礼いたします」
カトリーヌはすかさず、挨拶のお辞儀をした。
行きなさいと言う手振りを確認してから、後ろに下がる。
皇后とその従者から十分離れたところで、ようやく肩の力を抜いた。
「よかった……リヴウェルを見られてしまってどうしようかと思ったの……蜥蜴だと思っておいでだったみたい」
「リヴウェルがバスケットから飛び出してしまったんだな。最近、好奇心が旺盛で外に出たがってしょうがないんだ」
ふたりで歩いていると、遠くから「お嬢さま」と叫びながら、侍女のモリーがやってきた。バスケットを受けとり、リヴウェルをなかに入れる。
(しかし、モリーも変な白い蜥蜴だと思っているんだろうな……)
ドラゴンなんて物語のなかでしかありえない。空想の産物だから興味がない人は姿形すら知らないだろう。
「皇后になにか言われていたみたいだけど……」
「いつものことよ。皇太子殿下の婚約者はゴティエ侯爵令嬢に決まったのに、いまだになぜかわたしがアンリの婚約者候補だと思っているみたい」
本当に危ないところだった。
あのとき、リヴウェルの卵のことを相談されて、そのあとユージンがメディシス家に遊びにこなかったら、両親も皇太子側からの申し出を受け入れていただろう。
(悪役令嬢だというわたしの運命は、思っている以上にアンリと強く結びついているのかもしれない)
自分の時間を彼に捧げさせられたあげく、殺されるなんて冗談じゃない。
「こんなふうにずっと目をつけられるなんて……まだユージンと婚約破棄できそうにないわね……」
ふう、とため息をつくと、ユージンがカトリーヌの手をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫。僕はカトリーヌと婚約破棄するつもりはないから」
にこっと少年の綺麗な顔で微笑まれると、見慣れているはずのカトリーヌでさえどきりと心臓が甘く跳ねた。
それぐらい、このところのユージンは背が伸びて格好よくなった。
綺麗な顔立ちが少しずつ大人びていくさまはまるで神の寵愛を絵にしたかのようだ。
やわらかい金髪に宝石のような赤い瞳。
少年らしい骨張った体つきは、すらりと手足が長くなった。ブラウスの袖が少し短すぎて手くるぶしが見えているのも視線を釘付けにさせられる一因だった。
(前世でも女の子には人気があった記憶はあるけど、早くからアンリと婚約したせいでユージンとはあまり関わりがなかったのよね)
白皙の美貌という言葉があるが、赤い瞳は彼の肌の白さを際立たせているようだ。
普段は興味のあることにしか表情を変えず、無表情にも見えるせいで、余計にその笑顔が特別なものに見える。
(ユージンはわたしにとってアンリに対する盾――それだけのはずなのに……)
握られた手をぎゅっと握り返す。
ユージンが迎えに来てくれたことが少しだけうれしかった。
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