第二十六章 なぜカトリーヌは私の婚約者ではないのか?
――皇太子は失敗してはいけない。
それはアンリ自身、子どものころから親に言い聞かされた訓戒だった。
失敗をすればそれは皇室の隙となって、帝国の威信を揺るがしかねない。
どんなに巨大な堰も蟻の一穴から崩れるのだというたとえ話を何度聞かされたことか
万が一にも、うっかりマナー違反をしたときには、
「ゴティエ侯爵令嬢、フォークを落としたぞ。仕方ないやつだな……誰か、彼女に新しいフォークを」
そう言って、婚約者のゴティエ侯爵令嬢――ソフィーと打ち合わせて、アンリの失敗をなかったことにする。
それが当然のこととして育った。だから、アンリの身の回りの使用人はよく入れ替わる。失敗をなすりつけても受け入れるものしか残らないからだ。
しかし、なかにはその役割を理解できないものもいる。
「え、わたくしはフォークなど落としていませんけど?」
ソフィーもそんなひとりだった。
彼女は元々はユージンの婚約者候補だったから、皇后教育を受けていない。
それがアンリの婚約者候補だったカトリーヌとユージンが婚約してしまったことにより、急遽、アンリの婚約者となった。
(こういうときカトリーヌなら、すっと機転を利かせて、フォークを私のカトラリに差しだしてくれるのに……)
一瞬頭の中をよぎった光景に心を奪われそうになり、そんな記憶はどこにもないことに呆然とする。
(おかしい……カトリーヌが……メディシス公爵令嬢が私の婚約者だったことなどないはずなのに、なぜ私は彼女が私のフォローをしていたなどと思ったのだろう?)
ユージンの婚約者カトリーヌ・ド・メディシス。
自分の婚約者候補にもなっていたから名前ぐらいは知っていたが、顔と名前が一致しているぐらいの知り合いだ。
十才の彼女はまだ社交界デビューしておらず、公の場で顔を合わせることはなかったからだ。
叔母である彼女の母親と一緒に挨拶に来たことはあったはずだが、親戚がたくさんいたから、個人的になにを話したのかすら記憶にない。
年が近い分、ユージンのほうが親しかったのはわかるし、皇立幼年学校で仲よくなったから婚約したという話も理解できる。
しかし、二人の婚約パーティでカトリーヌを見たとき、
――なぜカトリーヌは私の婚約者ではないのだ?
という理不尽な怒りが涌きおこった。
その感情の赴くままに、
「おまえは私の婚約者候補だったと聞いたが、なぜ突然、ユージンと婚約した?」
そう問いかければ、答えを返してきたのはカトリーヌではなく、弟のユージンだった。
「おそれながら、兄上。僕のカトリーヌをとろうとしても無駄ですよ。兄上は皇太子ですから、メディシス家に婿養子には入れないでしょう」
真っ赤な瞳は、まるでアンリの感情を見透かしているかのように鋭く釘を刺していた。
――カトリーヌは僕のものだ。
ユージンの瞳には紛れもなく独占欲が現れていた。
確かに、婚約パーティの席で尋ねるにはふさわしくない言葉だったと思うが、あそこまで警戒心を露わに牽制されるとは思わなかった。
(海洋国家シーエンとの会話も……なんだか違和感があった……)
――『畏れながら、皇太子殿下。国によって商人の地位が違うということを念頭に置いても話しいただいたほうがよろしいかと……彼らのなかにはシーエンで高い地位についているものが混じっているかもしれませんよ?』
カトリーヌの進言で無難な言葉で収めたものの、アンリのなかにはなぜか別な記憶があるようにも思えて、それが大変な事態に発展したという罪悪感にも似た感情があった。
「カトリーヌ・ド・メディシス……あの娘はなぜ私の婚約者ではないのか?」
自室で頭を抱える皇太子の呟きに答えるものはいなかった。
† † †
リヴウェルが鼻をくんくんと動かして、温室の外へと視線を向ける。
鋼鉄とガラスに覆われた温室の外には冷たい北風が吹きはじめていた。
今日はユージンがメディシス公爵家に遊びに来ていた。
ユージンが来たときは温室を貸切にする――そんな暗黙の了解がメディシス家にはできており、バスケットの蓋はずっと開きっぱなし。
生まれて三才半になろうという小さなドラゴンは温室のなかを好きに飛び回っていた。
初めのうちこそ毒のある植物を手当たり次第に食べようとしたものの、カトリーヌが適度に毒を食べさせ、魔力を与えると、その挙動は落ち着いてきた。
(あれは……わたしの心情の影響もあったのかもしれない)
気のせいかもしれないが、両親が助かったとわかってからリヴウェルも落ち着きを見せるようになった。
そして、両親に毒を盛るという決意ができたのは、リヴウェルの存在が大きかった。
お腹を壊すだけの毒とはいえ、確実に効くようにやや多めに口にさせてしまった。
それでも、万が一のときにはリヴウェルの玉があるから大丈夫と、自分に言い聞かせることができたのだ。
「リヴウェル、おいで……ほら、おまえのためにとっておきのベラドンナをあげる」
小さなドラゴンの優先順位は初めて食べる毒、次が強力な毒だ。
危険な毒である一方、効能を求めて自ら口にする毒もある。
ベラドンナ――美しい女性という意味を持つ植物はそんな毒のひとつだった。
鼻から根まですべてが有毒で、特に根から抽出した汁を目につけると、瞳孔を開かせ、女性を美しく見せることができると、ひそかに買い求めるものがあとを絶たない。
リヴウェルの好物でもある。
「きゅううう!」
小さなドラゴンが毒を食べているときにカトリーヌが魔力を与える。ユージンの魔力もあるとなおよい。
すると、リヴウェルは数時間後ではなく、すぐに解毒薬となる玉を吐きだすことがわかっていた。
カトリーヌとユージンは、その玉を種類別に保管している。
「第二皇妃殿下が妊娠なさってもう五ヶ月目……外出できないと退屈でしょう。今度はわたしが緑影宮におうかがいするわ」
「ぜひ近いうちに泊まりがけで来てくれるとうれしい……カトリーヌが来てくれると、母上がよろこぶんだ」
カトリーヌの心配をよそに、ユージンはのんびりした口調で快諾してくれる。
(子どもが生まれるのは、わたしとユージンのデビュタントが行われる少し前……)
彼の母親が殺されないために、カトリーヌとしてはごく自然に、普段から緑影宮に行きやすい環境を整えておく必要があった。
「そろそろ緑影宮のユージンの部屋だけでリヴウェルを育てるのは難しくなってきたわね……」
「うん。尻尾まで含めると、子どものころから二倍は大きくなってる。北部の領地なら、僕しか入れない大きな庭に放していたけど、皇宮の庭はどこも人の目があるから難しいな」
そういうユージンもいつのまにかカトリーヌより背が伸びていた。
(十才のときはほとんど変わらない身長だったのに……なんだか悔しい)
皇立幼年学校を十二才で卒業して、いまは皇立高等学校に通っているが、このところ急にユージンは身長が伸びた。
おかげで関節が痛いと言って、ときどき寝こんでいるくらいだ。
もとから整っていた顔立ちはより凜々しく、骨張った手足は長くなり、格好よさと少年期特有の儚さをかけあわせた魅力が漂っていた。
婚約者のカトリーヌがいつもそばにいるから、表立ってユージンに近づく勇敢な女生徒はいないが、高等学校では、ひそかにユージンの顔を推すソサエティまで存在する。
それは人気の舞台俳優に憧れるようなもので、いくら婚約者といえど、カトリーヌがどうこう言えるたぐいのものではない。
しかも彼女たちはいわゆる箱押し――ユージン×カトリーヌのふたりをセットで推しておりユージンがカトリーヌを自然にエスコートするだけで、「きゃあああっ」という萌えと悲鳴が入りまじった声があがるのだった。
高等学校ではそんなふうに注目されていたから、バスケットに入れてリヴウェルを連れ歩くことは難しくなっていた。
いっそリヴウェルは異国のペットとして公表して飼っていることを公にしようかと話をしたこともあったが、それはそれで面倒なことになりそうなので却下した。
どちらにしても、高等学校もペットは持ちこみ禁止である。
幼年学校よりも校則が厳しく、見つかったら不名誉な処罰をされる可能性もあった。
バスケットも大きく特注して三代目。手乗りにはもう大きくなりすぎたが、ぎゅっと抱きしめるにはちょうどいい大きさだ。
(こんなにかわいいリヴウェルが誰かにさらわれたら大変だもの。学校に連れ歩くのは危険だわ)
カトリーヌは相変わらず小さなドラゴンにめろめろだった。
ユージンが治める北部では外に放していたという話をしていたからだろうか。
「きゅうううん……」
遠い北部を懐かしむように、北の空を眺めるリヴウェルを見て、ふとカトリーヌは思いだした。
(そういえば……わたしのデビュタントの年は、冬の寒波が酷くて北部は特に大変だったっけ……)
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