第二十章 契約婚約と既成事実と
――噂って怖い。
翌週の月曜日。
皇立幼年学校に登校したカトリーヌは、馬車を降りた瞬間から注目の的だった。
公爵家の紋章旗がついた馬車はつねにほかの貴族から注目されていたが、今日の注目はいつもとは違う。
「殿下からカトリーヌ様に愛の告白をしたんですって」
「このところおふたりともずっと一緒におられたのはそのせいでしたのね」
そんなうらやましそうな囁きが女生徒たちの集まりから聞こえてくる。
(いくら大勢の使用人の前でプロポーズされたからって翌日にはもう学校で知っている人がいるなんて……)
公爵家のなかでの話だからと油断していたが、誰がこの噂を流したのかと探るのはさすがに無駄なことだろう。
奥まった室内の出来事ではなく、廊下で、しかも、ユージンの侍従や大勢の使用人がいる前での告白だったのだから。
ユージンの帰宅とともに正式な使者でのやりとりまでしたあとだ。この手の話に聡い皇都の貴族たちに気づかれても不思議はない。
「あーあ……私もユージン皇子殿下とお近づきになりたかった……」
ため息まじりの声まで聞こえてくる。
顔立ちが綺麗なユージンは黙っていれば理想の王子さまに見えるのだろう。
(ユージンの頭のなかはリヴウェルのことしか考えていませんけどね)
みんなうらやましがってくれていて、その期待を裏切るようで悪いが、カトリーヌへの告白というより、リヴウェルの子育てを手伝って欲しいという話だ。
毎日、お互いの家を行き来するのがめんどくさいから、結婚しようと言いだしたのだろう。
ここ数日一緒に過ごしていたカトリーヌには、ユージンの思考が手にとるようにわかった。
(でも卵から孵してしまった以上、わたしにも子育てする義務があるわけよね……)
カトリーヌとしてもそれは当然だと思っている。
だからこそ、学校の帰りも週末もユージンと過ごしていた。
(客観的に見れば、わたしとユージンが急に仲良くなったように見えるのはわかる……)
考えているうちに頭が痛くなってきた。
子どもが生まれたせいでママが必要だから結婚しようだなんて、普通は逆じゃないだろうか。
自分が皇太子の子どもでも孕んでいれば、皇太子を繋ぎとめることができたのだろうかとは、前々世で何度か考えたことはある。
愛されるとまでは言わないが、少なくとも断罪されることはなかったかもしれない。
ともあれ、今世は、リヴウェルが生まれたことで、ユージンと婚約することになった。
(そこらの貴族相手ならともかく、皇族と婚約してるわたしを、わざわざ婚約破棄させてまでアンリの婚約者に選ぶことはないでしょうからね)
正式な婚約式はまだだが、ユージンとの婚約は生存へ近づく一手だった。
† † †
「考えたんだけど、ユージン。婚約は契約婚約にしない? いまはわたしと婚約したほうがリヴウェルが成長するのにいいかもしれない。でも、ユージンはあとでほかに婚約したい人が現れるかもしれないでしょう?」
放課後、いつものように緑影宮を訪れたカトリーヌは、ユージンの部屋で切りだした。
期間を決めて婚約しておけば、皇太子に婚約者が決まったあとでユージンと婚約破棄できるし、そうなればカトリーヌは自由の身となる。
(北方のどこかにあるという魔法学校に行ける……!)
「もちろん、婚約している間、リヴウェルが成長する上で必要な協力はわたしもする。でも、一定の条件が整ったらお互い相談の上で婚約破棄することもできる……それでどうかしら?」
カトリーヌとしては穏便に婚約破棄も見据えた条件を提示したいところだ。
(理想は、アンリに正式な婚約者ができるまで……)
皇太子に婚約者ができれば、さすがに一度ユージンと婚約しているカトリーヌにまで話が及ぶことはないだろう。
過酷な皇后教育から逃れられるはずだ。
ところが、リヴウェルを膝に乗せて遊んでいたユージンは予想外のことを言いだした。
「そうだね。結婚するための条件を決めておいたほうがいいだろうね。リヴウェルがどこまで大きくなるかわからないし。緑影宮で暮らせなくなったら、北部に連れていってもっと広い部屋を用意してあげないと」
「え、ユージン……皇帝になりたいんじゃなかったの?」
北部に行くと言われて、とっさに訊ねていた。
――皇帝になりたかったから、前世のユージンはカトリーヌを仲間に引きこんだはずだ。
それとも、まだ幼いから野心もないと言うことだろうか。
前世とは運命が変わっているからなのだろうか。
困惑するカトリーヌに対して、
「別に僕は皇帝になんかなりたくないよ? カトリーヌと結婚できればいいから」
ユージンは屈託のない笑顔でそう告げたのだった。
(前世と今世……いったいどっちがユージンの本音なの!?)
いまのユージンに言われると、確かに彼の性格なら皇帝位にこだわらないだろうと思う。
でもそれなら、前世で皇帝位を簒奪しようと思ったきっかけがあったはずだ。
前世では彼との接点がなさすぎて、それがわからない。
「その……わたしはユージンと婚約できると助かるわ。でももしユージンにほかに婚約したい人が現れたら婚約は破棄していい。さしづめ……そうね。一旦は五年間は婚約を保持するということでどうかしら?」
「カトリーヌは五年経ったら、リヴウェルと僕を捨てるつもりなの?」
ドラゴンを腕に抱いたユージンはまるで捨てられた仔猫のような顔をしてカトリーヌをじっと見つめてくる。
子どもながら整った顔で瞳をうるうるとされると、カトリーヌのほうが悪いことをしているような気にさせられてしまう。
「別に捨てるなんて言ってないでしょう? わたしはただ、いま提案した婚約は一種の契約婚約にしましょうという提案をしているだけです」
「そうだね。婚約もひとつの契約だから……じゃあ、契約内容についてだけど、週に一回はどちらかの家でリヴウェルの相手をすること。正式なパーティでは必ずお互いをパートナーとすること。婚約破棄に関しては僕はカトリーヌと結婚するから問題ないね。まさかカトリーヌ、僕たちの子を……リヴウェルを捨てるとは言わないよね?」
「う……」
本当の子どもでもないのに、小さなドラゴンを盾にとられると弱い。既成事実というのはこんなにも重いものか。
(確かにリヴウェルはわたしとユージンの魔力のおかげで孵ったのだから、成長する過程でわたしの魔力を必要とするだろうし……仕方ない。仕方ないのよ、カトリーヌ)
ひとまずは皇太子との婚約を阻止することが先だと自分に言い聞かせる。
ユージンの言葉に丸めこまれたという事実はこの際、見ないふりをするしかなかった。
帰宅したあと、カトリーヌは自分の部屋で過去の記憶を思い返していた。
――『ねぇ、カトリーヌ……君にとっても悪い話じゃないだろう?』
一度目の転生――断罪の四年前に転生したとき、ユージンがカトリーヌを誘ってきたのは、皇太子アンリを陥れるためだった。
最初の人生で、カトリーヌと婚約していたにもかかわらず、ディアナに入れあげてしまったアンリ。
最終的には、長年、彼の失敗を引き受けてきたカトリーヌを断罪し、ディアナをとった。
(思い返してみれば、あのときディアナを聖女だと決定づけたのはわたしの断罪裁判だったのかもしれない)
アンリは彼女と会っている理由を、『ディアナは聖女で、私は神に告解しているにすぎない』などと言い訳したのだ。
そんな言い訳を認めた裁判官も皇太子の手が回っていたのだろう。
だから、転生したときにはユージンと手を組み、皇太子は完璧な人間ではないと知らしめた上で、ディアナとの逢い引きの場を差し押さえ、正当な理由で婚約破棄を勝ちとったのだ。
(でも、死んでしまった……それは悪役令嬢の役割を外れたから殺されたのかもしれない……)
今回は皇太子と婚約するより先にユージンの手をとった。
それがなにか大きな変化をもたらすだろうか。
(前世のように自由になれば殺されるというなら、わたしは悪役令嬢のままだって生き抜いてみせる)
――そう決意したカトリーヌは、ユージンとの婚約が正式に決まった席で、悪役令嬢にせしめた本人、皇太子アンリとも対面することになるのだった。
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