第十六章 悪役令嬢の本当の役割

 皇太子アンリ――彼の話をカトリーヌはできるだけ避けていた。

 断罪された過去を思い出したくないというのが一番の理由だが、ほかにも細かな恨みつらみが無数にあった。

 いくら悪役令嬢会議という場では現実の愚痴を言っても問題はないといっても、拗らせた感情と言うのは、自分自身のものであっても取扱い注意だ。

 下手につつくと、そのときの感情が強くよみがえり、自分が闇にとりこまれるような感覚に陥る。


 ディアナが現れるまでのアンリは完璧とまでは言えないが、婚約者としてはけして悪い相手ではなかった。

 短く切りそろえた黒髪にすみれ色の瞳。

 皇帝に似て、軍人気質のよく表れた容貌をしており、皇立幼年学校時代から、たいそう女生徒に人気があったのだという。

 実際、彼の顔がいいことはカトリーヌも認めている。

 皇帝によく似た長男で、帝国の跡継ぎ。

 彼もまた幼いころから帝王教育を叩きこまれ、皇太子としての仕事をこなしていた。


 カトリーヌと違うところがあるとするなら、のちに皇帝となる彼にはことだ。


 具体的にどうのか。

 たとえば、国内の大公との食事会のときだ。

 万が一にもアンリがフォークを落とすようなことがあれば、


「カトリーヌ、フォークを落としたぞ。仕方ないやつだな……誰か、カトリーヌに新しいフォークを」

 ――ということになった。

 カトリーヌは自分のフォークをそっとアンリのカトラリに移し、何事もなかった顔で給仕がフォークを持ってくるのを待つのだった。

 要するに、彼が失敗したことを公的な記録に残さないために、カトリーヌの失敗にされるのだ。


 食事のささいなマナー違反はまだいい。

 もっと問題なのは外国の貴族や大商団の前で失敗をされることだ。

 皇太子は皇帝の代理として外交を担うこともあり、相手の肩書きと名前を正確に覚える記憶力が求められる。


「西ジャミル帝国の第四皇子エオンさまです。このたび交換留学生としてやってきました。覚えてください」

 相手の肩書きや名前を間違えるのは失礼に当たり、外交問題になりかねない。

 そのたびにカトリーヌのせいにされるのも限界がある。

 おかげでカトリーヌは小言を言う姑よろしく、アンリに注意ばかりする羽目になっていた。

 別にアンリに完璧であってほしいとは言わない。

 しかし、彼を完璧に見せかけるために、カトリーヌに失態がつくのは自分のプライドが傷つく。


「皇太子殿下、商人の言葉を鵜呑みにしないでください。交渉ごとというのは、相手の言葉を疑ってかかるところからはじめるのです」

「帝国の皇太子に市井の商人の真似事をしろというのか! カトリーヌ、おまえは本当にかわいげがない女だな」

 カトリーヌが完璧に皇太子妃の役割をこなし、皇太子が失敗をすればするほど、二人の溝は深くなった。




「……――というわけで、わたしに恋話なんて期待されても困るの」

 カトリーヌがアンリとの婚約時代の話をすると、モルガンは顔色を変えた。

「そ、それは確かに……ごめんなさい、カトリーヌ。婚約者だったというからにはもう少しなにか甘い話があるかと思って……」

 ふたりで外国に使節団として出向いたときに一緒にデートをしたとか、そういう素敵な話ができたら、カトリーヌとしてもどんなによかっただろう。


 しかし、アンリがその国の皇族の名前を覚えるより先に買い物に出かけてしまい、残されたカトリーヌはまた自分の失敗を増やされないためにと、客室にこもって皇族リストを暗記する羽目になった。

 ときには皇太子の失敗を隠すために相手に睡眠薬を盛ったこともある。

 あれはほとんど黒歴史だった。

 カトリーヌが遠い目になっていると、お茶を飲んでいたサロメが絶妙なタイミングで口を挟んだ。


「私はむしろ、ユージン皇子とのお話が気になりますわ」

 思わず声がした方を振り向くと、サロメは黒い瞳をカトリーヌに向け、その心の奥をのぞきこむかのようにつづける。

「だってカトリーヌは一度目に死に戻ったとき、皇太子ではなくユージン皇子の手をとったのですわよね? ユージン皇子とはもう少し違う思い出があるのではなくて?」

「う……」

 普段から「ヨカナンと婚約破棄なんてしませんわ」などという完全な恋愛脳だからだろうか。サロメは鋭い。

 実際、カトリーヌは死に戻る前にユージンとの思い出がわずかばかりあった。

 皇太子がディアナをエスコートしている間、ユージンとダンスをしたり、舞踏会を抜け出して密談をしたこともある。

 そのときの彼は、十才のユージンとは違い、口も達者で、遊び慣れたようにカトリーヌを口説いてきたのだった。


「あ・る・の・で・す・わ・ね?」

 サロメの目は真剣だった。

 体の小さなカトリーヌを威圧するように、愛らしくも黒い笑みを近づけてくる。

「でも、ユージンはそれこそ本気じゃなかったと思うし……」

 彼の言う「僕を選んだらどう?」という誘いは、カトリーヌ以外の女の子にも言っていたはずだ。

 当時の彼は皇太子とは正反対の容姿を余すところなく活用して、令嬢たちに人気があった。


(あのときユージンにも婚約者がいたはずだけど……誰だったかしら?)

 第二皇妃が亡くなり、後ろ盾のなくなったユージンは、誰でもいいから婚約者が欲しかったはずだ。

 自分と直接、関係がないことはさすがに記憶が曖昧だ。


「ユージンは……いまはともかくリヴウェルに夢中なのよ。わたしじゃなくて」

 ――端からわたしとユージンがどう見えているかを考える余裕すらないほどに……。

 そう、問題はそこなのだ。

 ユージンはリヴウェルしか見えていない。

 カトリーヌを呼ぶのもリヴウェルのためだ。

 それなのに、周囲はそうは見ない。

 ドラゴンをバスケットのなかに隠していたのだから当然と言えば当然だが、


「ユージンだって呼びだすときにもう少し気を遣ってくれていいと思わない!?」

 カトリーヌの本音としては、せめて皇立幼年学校を卒業するまでは、ユージン狙いの女生徒と面倒を起こしたくなかった。


「カトリーヌさまったら、皇太子殿下の婚約者候補でいらっしゃるのにユージン皇子殿下にまで手を出すなんて」

「許せませんわ……ユージン皇子殿下がおやさしくていらっしゃるからってつけあがって」

 ユージンに話しかけられるたびに、聞こえよがしにそんなことを言われる。

 いままで必要最低限の会話しかしていなかったのに、突然、親しそうに話しているのだから周囲の目も変わって当然なのだろう。

 もっとも皇太子と婚約したら断罪される確率が上がる。

 断罪から逃れれば北部に着く前にユージンに殺される。


(でも、いまはまだユージンの力が必要だわ……)

 前世と前々世と違うこと――まずは時系列で対処するために情報が必要だ。

「ユージン、週末、わたしの家に遊びに来ない?」

 カトリーヌはあえてほかの人にも聞こえるように誘ったのだった。

 それが悪役令嬢としての道を進む第一歩になるとは夢にも思っていなかった。


「――カトリーヌ・ド・メディシス。ユージン皇子殿下をもてあそぶなんて許せない」

 そんな台詞とともに殺意に似た黒い視線を向けられていたことに、カトリーヌが気づく由もなかった。

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