契約解除 -吉村のその後‐

芳江 一基

第1話

 いつも通りの朝だった。目を覚ました僕は少し疲れていた。

 僕は吉村正人40歳。

 離婚歴2度の独身おやじだった。

 僕はいつも通りの時間にベッドを出ると、出勤の準備を始めた。

 時間は5時30分。


 晩秋のこの季節、夜が明けるにはまだかなりの時間があった。

 会社の同僚から比べると出勤準備を始めるにはかなり早い時間だった。

 まるで案山子のようにゆらりと立ち上がった僕はだらしなく衣服の散らばった煙草臭い部屋の電気をつけ、いつも通り顔を洗おうと、洗面所に向かった。


 部屋は去年に引っ越してきた2K、家賃は僕の給料ではぎりぎりのものだった。

 おかげで僕はいまだ母親に借金をすることがあった。

 が、そのかなりたまっている母への借金を僕は返すつもりはなかった。

 どうせ母も覚えちゃいまい。

 彼女は80歳。そろそろ認知症の症状が出始めているのだった。

 とりあえず僕はこの部屋を気に入っていたのだった。

 すばやく顔を洗った僕はまず朝食をとることにした。

 

 その時だった、昨日の課長のあの一言が僕の耳に響き渡った。

「契約解除」!

 そうだった!


 僕は会社をクビになったのだった。

 

 課長はクビとまでは強く言わなかったが「契約解除」つまるところクビなのだ。  

 「契約解除」!

 それはクビとは言わなかった、課長の最後の僕に対する思いやりの言葉だったのかもしれない。

 

 とにもかくにも、僕はもう会社に行く必要はないのだった。

 正直なところ、そろそろ覚悟はしていたのだが、「契約解除」の事実は僕にとって、やはりショックだった。


「何をしよう・・・」僕は思った。

 暫く僕は考え込んでしまっていたが、取り敢えず部屋を出る準備を始めた。

 何時も寝間着にしている紫の汗臭いパンツにトレーナーを脱ぎ捨て、ベッドの上に放り投げた。

 晩秋の夜明け、部屋の中の空気は、いつもより冷たく重かった。


 僕は通勤用に使っている1週間続けて履いている黒のチノパンと3日間着ているタバコ臭い緑のトレーナーに着替えた。

 そして先月中古の家具屋から3000円で買った、座り心地のいい木製の椅子に座布団を敷いて、腰を掛け、TVのスイッチをつけた。

 

 出勤、いや、出かける時間までにはまだ30分はあった(部屋にいてもしょうがないのでいつも通りに出かけることにした)。ニュースを見ながら30分経つのを待った。交通事故に殺人事件、おまけに戦争ときたが、ニュースの中の出来事は、僕にとってはまるで、すべて、ただの他人ごとに思えた。

 いや、事実それはただの他人ごとなのだ。

 

 その日の30分はいつもよりゆっくりと、とても長い30分で、僕にはじれったくもあった。

 ようやく30分経つと、僕は立ち上がり、黒のダウンを少しだらしなく引っ掛け、テーブルの上のタバコとライターを無造作につかむと、ポケットに突っ込んだ。

 

 部屋のドアを開け、外に出ると、いつも通りに階段を降りた。そして歩道に降りた僕は、まだ暗い道路をまるで犯罪者のように素早く左右を見渡し、道路を横切り、 

 そしてやはりいつも通りにうつむくと、ダウンのポケットに手を突っ込み、電車の駅へ向かってあしばやに歩き始めた。

 

 この時間、風もなく、まっすぐな歩道には、人一人歩いていなかった。

 所々で赤黒いカラスが捨てられたゴミを奪い合うようにつついていた。

 道路は時々、空車のタクシーが走っているだけだった。

 少しいくとコンビニが見えてきた。

 その時、僕は今日、まだタバコを吸っていなかったことに気が付き、ダウンのポケットに無造作に手を突っ込むと、タバコを取り出し、口にくわえた。

 

 タバコに火をつけ、僕は腕時計を見た。

 今日はいつもの時間より少し早いかもしれない。

 僕はポケットから携帯灰皿を取り出し、立ち止まった。

 100円の安物の携帯灰皿だった。

 以前この辺でタバコを吸いながら歩いていた時に、近所の住人ににらまれたことがあったのだったが、灰皿は常に持ち歩くようにしていた。


 中には吸い殻が詰まって膨らんでいる。

 立ち止まった僕はタバコを大きく吸い込むと空を見上げた。

 まだ真っ黒な空。何も見えなかった。

 僕は突然大きな不安に包まれ、加えていたタバコを路上に捨てて踏みつけると、携帯灰皿をズボンのポケットの入れ、足早に行きつけの100円喫茶に向かって歩き出した。


 金のない一日というのは非常に単純なものだった。することが毎日決まってしまうのだ。その日も昼飯は近所のすき屋で済ませることにした。結局それ以上の事をすることもできないし、それ以下の事にする訳にもいかないので、毎日が非常に単調なものになってくるのだ。

 

 だが僕はまだ40歳だった。

 当然、あちらのほうにもそろそろ欲求を感じていた。僕はその日、パソコンで調べておいたデリバリーヘルスとやらに思い切ってTELしてみることにした。

 金は残り少ない残高の通帳からATMで引き落としてきた。


 そして部屋に戻って、僕は女が来るのを待つことにした。

 

 TELしてから女が来るまでの間に僕は部屋をかたずけた。

 流し台の皿とコップを洗い、ベッドの布団をそろえ、消臭剤をかけた。

 散らかってる衣類を箪笥にしまい、部屋の中に掃除機をかけた。

 すると連絡してから1時間程たち、部屋に女がやってきた。


 僕が思っていたより若い女だった。

 長い黒髪がいやに美しく、厚化粧の白い顔に真っ赤な口紅がなまめかしく輝いていた。女は美しくはなかったのだった。

 その女をみた瞬間に僕の胸中の男としての欲求は、何故かろうそくの灯が消えていくように消えてしまっていた。

 

 女は部屋に上がり込むと何も言わずに寝室へ向かい、赤いウールのコートを脱ぐと、続けざまに着ていたピンクのワンピースと黒の下着を脱ぎ捨てた。

 僕は部屋の中央にすえた炬燵の上に二つのコップをおいて、それに安物のインスタントコーヒーを入れると彼女に進めた。

「飲まないかい?」      

「どうしたの?」

 寝室のベッドに腰を掛けた彼女は少し不思議そうな顔で、僕を見つめながら言った。

「時間は40分よ」

「いいんだ」

「こっちに来て坐って」僕は少し微笑むように言った。

「それならいいけど」女はやっぱり不思議そうに僕を見つめ、素っ裸のまま炬燵に入ってきた。

「・・・・・・」しかし女とまともに向かい合ったことがここ最近、全くなかった僕は微笑みながらも言葉を失ってしまっていた。

「出身はどこだい?」僕は苦し紛れに女に何とか尋ねた。

「あなたに関係ないでしょ」女は怒った様に僕を睨みつけた。

 正直、初めて女が自分の部屋に入ったということで僕の心は満足し、僕のその男の欲求は十分に満たされてしまっていたのだ。

 

 ニコニコと微笑みながら僕は女を見つめてコーヒーを口にした。

「気持ちの悪い人ね」

「どうせならビールでも無いの?」女が言った。

「酒は飲まないんだ」僕が言った。

 僕が酒を飲まないのは事実だった。

 

 彼女はあきれたように表情を崩し、コーヒーに手を差し出しながら言った。

「料金は安くならないわよ。金はあるんでしょうね」

「大丈夫、お金は準備してるよ」僕は言った。

 

 そして40分経つと素っ裸の女は立ち上がり、僕に向かって右手を突き出した。

「時間よ」女が言うと僕はいつもの黒いリュックの中の財布を取り出し、中から新品の1万円札を一枚取り出し女に渡した。

 すると女はポケットの中からしわくちゃの千円札を取り出し、3枚そろえると投げつけるように僕に差し出した。

 

 僕は「おつりはいらない」、そう言いかけたがさすがに言葉にはならなかった。

 そしてそのしわくちゃの千円札を3枚素直に受け取った。

 女は部屋に投げ捨てていた真っ赤のウールのコートに身を包むと

「私はサチコ。またよろしくね」

「次があるから」そう言うと玄関に出て靴を履き、まるで真っ赤な猫のように素早く部屋を出て行った。

 僕は満足していた。

 今度の時はビールを用意しておこうと僕は思った。

 炬燵の上のコーヒーカップをかたづけ、そのままベッドに入って僕は目をつむった。

 いい一日だと僕は思った。

 僕はそのまま眠りについた。


 その日、僕が部屋を出ると街中にはまるで雪が降る様に雪虫が跳ねていた。

 思わず空を見上げると、空には雲が満ちていた。

 財布の中は千円札1枚しかなかった。僕は結局、認知症の母をあてに、ポケットからスマホを取り出し、母にTELをした。


「生きてるか?」僕は言った。

「そう簡単にくたばりゃしないよ」母は言った。

「今から帰る」僕は言った。

「どうした、金か?」

「コメか?」母は聞いてきた。

「帰ったら話す」そうして僕はTELを切った。

 

 その日、久しぶりに僕はバスに乗った。

 僕がバスに乗り込むと、バスは空いていた。

 僕は一番後ろの窓際の席に深々と腰を掛け、窓から外を見つめた。

 家までは40分だった。


 ターミナルに着くと僕はそこで降りて昼食を取ることにした。

 僕はターミナルにある食堂の唐揚げ定食が気に入っていた。

 僕は母からの借金を当てにして、少し贅沢をすることにした。

 家に帰っても食事は魚ばかりで肉は出てこないのだった。

 母は帰ると必ず稲荷寿司を作り、僕の好きなホッケか鮭を焼いてくれたのだ。

 しかし母は自分が食えないからと言って肉は焼かないのだった。

 

 家に着くと母はもうすべて知っているように僕に行ったのだった。

「何があったんだい」

「会社をクビになった」

 母は少しうつむき、その表情に陰りを見せたようだった。

 そして僕に向って言った。

「金はもう貸さないよ。失業保険が出るんだろう」僕は驚いた。

「そんな、失業保険が出るまで3か月もあるんだ。その間収入がないんだよ、お袋の借金当てにしてたんだよ」

 僕は懇願するように母に泣きついた、しかし母は一度行ったことは変えない人間だった。

「頼むよ・・・」僕は苦し紛れに泣きついた。

「うるさいね、お前、私にいくら借金があるのか知ってるのかい」

 おふくろは僕の借金を覚えていた・・・・・。

 その日僕は部屋に帰ると飯も食わずに、いや、食えずに眠った。


                             

                               おわり




 


            

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