第3話 パンケーキ作り
生地をフライパンに落とす。
どろどろと中心から円になって、ちょっと歪に拡がっていく。
艶やかで綺麗なクリーム色に、蛍光灯の明かりが反射している。
「火はゆるめ、急がず焼き過ぎず」
「うん――」
あのお姉さんは本当に実在していたんだろうか。
よくある学校の怪談みたいな感じで、語り継いできた噂話を信じた結果、俺の前に現れた幻覚だったのかもしれない。
昨日だって、図書館の受付にはおばさんがいつも通りといった感じで座っていた。
「大河……図書館の人と何かあったか?」
「えっ――な、なんの話?」
なんの前触れもなく、今さっき考えていたことを否定して突っ込んできたから、フライパンがずれてしまう。
父さんは穏やかな表情を浮かべ、横目で俺を覗いた。
「図星だったか? 確かに綺麗な人だな、まさか惚れたのか?」
爽やかにニヤニヤした父さんに、俺は軽く咳払いをする。
惚れたというより、俺はお姉さんの話をもっと聞きたかったのかもしれない。そうすれば目の前の霧を抜け出せるような気がしたんだ。
「違うよ。別に、どうして辞めたのかなって思っただけ」
「あの人は有坂家に嫁ぐことになったんだ」
「えっ結婚……有坂家って?」
有坂家、聞いたことがあるような。でもピンと来ない。
なによりざわついたのは、お姉さんが結婚するということ。
自分の幸せのために結婚するような人には見えなかった。
俺の疑問に、父さんは少し眉をしかめて小さく笑う。
「おいおい、有坂家は町じゃ知らない人はいない有名な事業家さんだぞ。あそこに籍を入れたら安泰と言ってもいい」
そういえば学校の先生から聞いたことがあったかも。
俺はフライパンの位置を直して、軽く息を整える。
「というか父さん、あのお姉さんと知り合いだったの?」
「常連さんだ。土日はいつも店に来てくれていた。つい先週結婚報告を貰ってね、彼女は県外に引っ越したんだよ」
優しく目を細める父さんは続けて言う。
「彼女も幸せになってほしい。結婚が全てとは言わないが、有坂家ならきっと問題ないさ……多分」
有坂家ってそんなに凄いんだ。
安泰ってことは、安心で安全で幸せってことだろう。
「眞奈も、有坂家の人と結婚したら幸せになれる?」
父さんは「えぇ?」と小さく零す。
「……それはどうかな、眞奈ちゃんはもう三崎家の一員だ。決めるのは眞奈ちゃん自身だよ」
「けどさ、ここにいたらあの人、来るでしょ」
あいつが来るから眞奈が苦しんでしまう。
せっかく離れられたのに、あいつが近づける場所にいたら意味がない。
「まぁな、けど有坂家より厄介な相手なんてこの町じゃいない、大丈夫さ」
「安泰だけど、厄介なの?」
「非常にな」
父さんは眉を下げて優しく笑ってくれた。
それから顎をさすって「うーん」と小さく唸る。
「でもまさか彼女が未成年に手を出すなんて意外だったなぁ」
「えっ――」
不思議な顔して、眉を顰める父さん。
「なんもなかったって! は、話しただけ!」
知られちゃいけない気まずさから、つい誤魔化してしまった。
父さんは目を点にしたあと「ははは」と渋く笑う。
「そろそろひっくり返そう」
フライパンの内側にあるちょっと歪な丸を指す。
泡みたいなのがいくつか浮かんでいる。
はぁ、顔が熱くなってきた。
渋々フライ返しを掴み、生地の底に差し込んだ。
抵抗なく、するりと入り込んでいき、手首を返せば裏面が見えた。
「あ」
「よし、いい感じだ。初めてにしちゃ上出来だよ。バイトする気があるならデザート係を任せようかな」
僅かに端っこがまだらになってるけど、中心は食欲をそそる焼き目で染まっていた――。
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