第2話 きっかけ
借りた本を片手に帰ってきた。
家の横に喫茶店があって、裏口から行き来できるようになっている。
店側のすりガラスの扉を開けると、鈴がカランカランと鳴った。
「ただいまぁ父さん、眞奈」
ゆったりとしたBGMが流れる店内で、エプロン姿の眞奈が一瞬俺を睨んだ。
童顔でセミショートの黒髪、体格は華奢で栄養が少し足りないんじゃないか、って感じの子。
中学からの友達というか、家族同然。
すぐ営業スマイルに戻って、常連客たちに愛想を振りまいてる。
「おかえり大河、図書館に寄るなんて珍しいな」
厨房から顔を出した父さんは、優しい口調でからかってくる。
「眞奈から聞いたの?」
「あぁ、それにいつもより1時間も遅い、心配するに決まってるだろ」
「う、ごめんなさい」
「無事ならいい。それで、何を借りてきたんだ。純喫茶のメニュー?」
ニヤニヤと表紙を覗いてきた。
気恥ずかしさから後ろに隠してしまう。
「俺にもできそうなやつあるかなって」
「大河にその気があるならいつだってメニューを教えるさ。そうだな、パンケーキから始めるのも悪くない」
パンケーキ……頑張ってみよう。
「じゃあ、また今度教えて」
「あぁ、約束だ」
父さんはいつも誠実で、誰もが慕う頼れる人。
なのにどうして離婚したんだろう、と疑問に思うときがある。
ブレーキが効いて一度も訊いたことがない――多分、これからもない――裏口から家に帰った。
夕食を済まし歯磨きもして、シャワーを浴びる。
午後7時前、そろそろ喫茶店も閉まる頃。
ちょうど玄関に向かう途中で、裏口から父さんが入ってきた。
私服で今から出かけようとする俺を一瞥する。
父さんは腕を組んだ。
「ずいぶんとオシャレな寝間着だな?」
俺は目をあちこちに動かし、笑って見せる。
「実は、友達と待ち合わせで……ダメ?」
「友達」
「う、うん」
父さんは口を硬く閉ざして唸った。
「午後10時……そうだな10時までに帰ってくるようにな。スマホ、落とすなよ、変な誘いに乗るな、少しでも怖いと感じたら走って帰ってきなさい。走りながら俺に電話してくれ、すぐに駆け付ける」
走りながら電話ってなかなか難しい気がするけど、心強い言葉を貰う。
「ありがとう父さん。行ってきます」
「あぁ、行ってらっしゃい。ずっと心配してるからな」
心配かけ過ぎないよう早く帰ろう……。
家を出ると、ちょうどバイト終わりの眞奈とばったり。
「こんな時間にどこ行くの」
「え、あー友達とちょっと待ち合わせ」
「友達」
父さんも眞奈も、俺の交友関係の狭さを知っているから言い訳として使うには無理があった。
でも他が思いつかない。
俺は目を逸らし、少しの間立ち止まる。
眞奈の手がカバンに――あぁ、来る――咄嗟に身構えた。
カバンから取り出した小さな紙箱が飛んできた。
目の前から減速もしないでぶつかる。しかも角、地味に痛い。
軽い音を立てて紙箱が落ちた。危ないから回収しておこう。
「眞奈、すぐ帰るって父さんとも約束してるから、大丈夫。今度、映画一緒に観よう」
「ばか大河」
毎度の拗ねた罵り方に肩をすくめる。
「じゃあ、おやすみ。また明日な」
「おやすみ」
眞奈は喫茶店から少しだけ離れたマンションに帰っていく――。
——公民館前、図書館の受付にいたお姉さんが車のそばで立っている。
綺麗なお姉さん。下目に結んでいたはずの髪を下ろしていた。
「あのー」
「こんばんは。どうぞ、車に乗って」
挨拶もほどほどに、流されるまま助手席に乗り込んだ。
ボディソープの心地いい匂いが充満してる。
「君、未成年の子ね。周りの噂を聞いて、興味本位に来たわけだ?」
優しい落ち着いた声だけど、怒っている感じもする。
「あーえと、はい。好奇心とか――あとは、まぁ自信とか」
運転しながら、お姉さんは「ふふっ」と微笑む。
「自信をつけたくて私に? 君なら相手に困らないんじゃないかな」
「俺、恋愛とか全然興味沸かなくて……なんていうか、全部分からないんです。とりあえず前に進めるきっかけになれるかなって思った、感じです」
「そっかぁ、君も色々考えちゃうわけか――」
隣町のマンションの地下駐車場に入っていく。
そこからエレベーターに乗り込んだ。
全てお姉さんにまかせて、大人しくついていった。
胸がドクドク動いてる感じがする……女性の部屋。眞奈以外の部屋に初めて入った。
思っていたよりすっきりした印象で、あるのは卓上の鏡とパソコン。
寝室はベッドと備え付けのクローゼットだけ。
「他の子だったらメモなんて無視しちゃうけど、君は少しだけ特別。お互い名前なんて言わない、知らない。全て終わったら全部夢だった。オッケー?」
「お……オッケー、です」
これから捨てるんだ……きっかけのために、名前も知らぬお姉さんと――。
――もう、何がどうなって、どう達したかも覚えていない。
でも思っていたより霧は晴れなかった。
温かったかな、気持ち良かったかな、それもうろ覚えで、童貞を捨てた達成感すらない。
吐息を漏らしたお姉さんは天井を見上げて、
「私ね、既婚者、彼女持ちとは関係をもたないって決めてるの。関係持ってる途中で彼女ができたら、即解消」
淡々と優しく切り出す。
「え……ぁ、へー」
正直まだのぼせてるから、今真面目なことを言われても困る。
「まぁつまりずるくて、臆病な人間で、傷つくのが怖いわけだ。君は前に進めそう?」
「……分かんない、です」
「そっか、ごめんね。励ましになるか分からないけど、君はいいものを持ってる」
形について指折り教えてくれる。
だからってそれがなんの役に立つんだろう。
「あーえと、ありがとう、ございます?」
「自信持っていいってこと」
自信、ないわけじゃないんだけどな……。
お姉さんは俺に微笑んでくれる。でもすごく遠い場所を見つめているような気がした。
「お姉さんはどうして、男遊びしてるの?」
「うーん……どうしてだろうね。残念だけれど私の生き方は参考にならないかも。君にしかできないことがきっとあると思うなぁ」
お姉さんはベッドから起き上がると大きく背を伸ばす。
どこか晴れやかな横顔で俺を見下ろす。
そんなお姉さんがどうしてか眩しく思えてしまう。
「さてさて、君のお父さんが心配するといけないから送ってくね」
最後に優しく、お姉さんは頭を撫でてくれた——。
翌日以降の噂、
「受付の人、なんか急に辞めたって」
図書館のお姉さんは町からいなくなった。
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