第16話 絶対に事務所を守らなくてはいけない

園田ありさが社長室から出ていった後も、仁川はしばらく出てこなかった。

「そもそも何で移籍の話になったの?」

夏樹が小声で塚口に聞くと、前からその話はあったんだよ~、と塚口も小さな声で答えた。

エスポワールは弱小の事務所で大手事務所とは比べ物にならない。

ありさの今後のことを考えると、大手事務所への移籍は考えられる話だった。


「でも、ありささんが売れたのは、最近の話じゃないだろ?何で突然?」

湊も小さな声で尋ねる。

「今津さんがいたからこの事務所にいてくれたんだよ~。でも今津さんにヘッドハンティングの話が来たらしくて、この事務所にいる意味もなくなったってわけ」

「え!」

夏樹と湊は同時に小さく声を上げた。


「ヘッドハンティング?」と夏樹が言い、「二人はそういう関係なの?」と湊が同時に声を上げた。

塚口がしーっと言いながら、コクコク首を縦に振った。

その後は、なんとなく無言の時間が流れ、荷物を置いて帰ろうとしていた夏樹も湊もなんとなく帰ると言いづらく、ただぼんやりと座っていた。

すると、帰るよ、と後ろから声がした。

振り返ると、神崎川が身なりを整えて、カバンを持っている。


「ご飯行くよ!」


思わず「お酒なしでお願いします」と夏樹と塚口は声をそろえた。


お酒を飲まないようにするために、大手のファミレスへ行くことにした。

神崎川は不服そうだったが、また酒をあんなに飲まされてはかなわない。

「あんた達、ライブちゃんと成功させたそうね」

「はい、なんとか。CDも売り切れましたし」

夏樹がそう話すと、湊も少しドヤ顔になっている。

「まぁまだまだだけどね」

神崎川はそう言いながらも、まぁ今日はおごってあげるわと言って、メニューを広げた。

ファミレスはよく行くのに、おごりだというと何を食べていいのかわからなくなる。

結局いつものメニューをと頼んでしまう。

夏樹は自分はやはり気が弱いなぁと思いながら、いつものパスタを注文した。

それに対して、塚口はハッキリと一番高いやつ~!といって注文していた。


ある程度料理が届いて食べ始めると、塚口が「うちの事務所どうなるんでしょうね」とつぶやいた。

「そんなもん考えても仕方ないわよ」

神崎川はフっと笑った。

「神崎川さん、不安じゃないんですか?」

夏樹がそう聞くと、こんなことで不安になるならこの事務所に来てないわと笑った。


「この事務所は仁川のものだもの。仁川がしたいようにするのよ」


でも、と言って、お酒の代わりにジンジャエールをぐっと飲んだ。

「私たちが路頭に迷うようなことは決してしない」


「仁川さんのこと信じてるんですね」


「・・・えぇ。信じてるわ」


夏樹は過去に仲間に裏切られたことがある。

信じられる人は強い人だと思う。


「私は、誰よりもそばで仁川が働く姿を見ていたんだもの」

「そういえば、神崎川さんって前は社長と同じ会社で働いていたんですよね~?」

「えぇ、そうよ」


仁川と神崎川が出会ったのは、前の職場の新入社員歓迎会だった。

大きな会社だったので、別部署の二人は、歓迎会の日まで顔を合わせたことすらなかった。

仁川は豪快でその飲み会でも、大きな声で冗談を言いながら、仕切っていた。

神崎川は自分の酒癖が決して良くないことは理解していたが、先輩に勧められたら飲まないわけにはいかない。


もちろん、結果大暴れした。


神崎川が意識を取り戻した時には、飲み会の会場は悲惨なことになっており、生ける屍が何体も転がっていた。

またやったと頭を抱えていると、「お前面白れぇな」と後ろから声が聞こえて振り返ると、仁川が笑って立っていた。


翌日から周りが神崎川を冷ややかな目、いや恐怖に怯えた目で見てくるようになった。

自分でやらかした結果なので仕方ないと仕事で信頼を取り戻すべくとにかく真面目に誠実に働いた。

だんだんと飲み会のことが過去になり、神崎川の仕事ぶりを認めてくれるようになった頃、仁川のいる営業部へ異動になった。

あの時のことを思い出して、一緒に働けることにわくわくしたが、その気持ちはすぐに冷めた。


仁川の営業はめちゃくちゃだった。


理由が不明な居酒屋の領収書を出してくる、締め切りは間に合わない、書類に不備はあるで、営業事務としてはかなり振り回された。最初は上司だからと我慢していたが、その内はっきりと注意するようになった。

仁川先輩によく言えるな、と先輩から言われたが、遠慮していたら厄介ごとばかり押し付けられてしまう。

神崎川は遠慮なく言い続けた。

ただ遠慮なく言うだけでなく、仁川の営業力をリスペクトもしていた。

仁川も神崎川に色々言われるのが嫌ではないらしく、上手く仲良くやっていた。


そんなある日、突然「ちょっといいか」と仁川にご飯に誘われた。

神崎川としては、女子としてドキドキしながらついていったのだが、居酒屋に着くなり、「起業するからついてこないか?」と言われた。

「は?」

「俺を上手く操縦できるのはお前だけだ」

いや、というと、仁川がまっすぐに神崎川を見た。

「俺がお前と仕事をしたいんだ」

神崎川は、仁川から目を離せなくなった。


「それで、気づいたらこの事務所にいたってわけ」

神崎川は、ふふっと笑いながら、お酒の代わりにジンジャエールを飲んだ。

「起業して何をするかもわからないのに、ついていきますって返事しちゃったんだよね。だから最初はびっくりしたわよ、こんな事務所を立ち上げるなんて」

「知らずにですか?!」

「どんな仕事だとしてもついていくのは決めてたしね」

(あの頃とあの人は何も変わらないのよね)

仁川が芸能事務所を立ち上げたいと言った時には、神崎川も相当驚いた。


エンタメでみんなを幸せにしたいと子供のように嬉しそうに話す仁川をみて、あぁもう止められないなというのと同時に一緒にわくわくしたいと神崎川は思った。


仁川と一緒に夢をみていたい。その為なら何でもする。

そう思ってあの日神崎川は腹をくくった。


(私もあの人もあの時と何も変わっちゃいない)


“妃花、これから俺らが育てるタレントも俳優も歌手もみんな絶対幸せにしてやろうな”


事務所の看板を一緒に取り付けた時、仁川が言った言葉を思い出した。


夏樹と湊と塚口が口喧嘩しながら、チキンを取り合っている。

(絶対に事務所を守らなくてはいけない)

神崎川はぐっとジンジャエールを飲み込んだ。

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