アビーたちの食卓

 スプーンを持ったまま、わたしはしばらく手を止めていた。ラジオからは、まだニュースの残り香のような声が続いていて、その調子で、やがていつものアニメが始まった。オープニングの音楽が鳴りだすと、シャナが少しだけ顔をほころばせるのがわかった。あの曲を聴くと、どこか安心する。毎週同じ時間、同じ音。世界が崩れていない証のようにも思える。


 ベーコンはもう冷めかけていた。トーストも、バターが染みて、少しだけへなっとしている。わたしはスープの器を持ち上げて、湯気の中のハーブの匂いをかすかに吸い込んだ。ほんの少しだけ、鼻の奥がすっとするような香り。自分なりに工夫したブレンドだった。母がよく使っていた本を見ながら、どれとどれが相性がいいのか、昨夜のうちに少し試してみた。乾燥させたタイムとフェンネル、それにほんの少しだけセージ。効能を確かめるたびに、母がページの端に書き残していたメモが浮かんできた。


「今日は……トラクターの練習、だったよね?」


 自分で言いながら、少し息が詰まるような気がした。何度目かの練習だけど、やっぱり緊張する。あのペダルの重さ、ハンドルの感触、エンジンの音。クラッチのタイミングがうまくつかめないまま、何度もエンストしてしまった記憶がよみがえる。


「うん、ボブおじさんのところに行くって」


 シャナがこくりと頷く。スプーンを動かす手つきが、ほんのすこしだけ慎重だった。たぶん、さっきのシェルターのこと、まだ少し引きずっている。


 わたしも気づいていた。シャナはあの場所が苦手だ。でも、あのシェルターにはちゃんと意味がある。地下にあるあの空間が、何かが起きたとき、わたしたちを守ってくれるかもしれない。ちゃんと使えるようにしておかなくちゃいけない場所だ。わたしがそう思うのは、きっと、例のパンフレットのせいでもある。


「時間、余裕あるかな……。今日こそ、スムーズにいけるといいけど」


 わたしは口元にスープを運んだ。熱い。少ししょっぱかった。味の調整、またしておけばよかった。たぶんハーブを多く入れすぎたせいで、塩加減がずれたんだと思う。シャナは気づいてないふりをしているのか、静かにスプーンを動かしている。わたしが得意げに作った料理を、いつもそっと受け取ってくれる。


 窓の向こうでは、風に揺れるカーテンが、外の空気を少しずつ運びこんでいた。プレイリーの春は、急に暖かくなったり、また冷えこんだりする。今日は、穏やかに晴れているみたい。明るくて、風がやわらかい。空気がなめらかで、遠くの木々もやさしく揺れていた。


「ニュース、聞いてた?」


 わたしが言うと、シャナが少しだけ首をかしげた。


「ちょっとだけ。よくわからなかった」


「うん……。でも、なんか、前より少し、声の調子が深刻になってるような……気がした」


 言いながら、なんとなくスプーンを握りしめていた。言葉の端々に混じる言い回し――“可能性は否定できません”、“事態の推移を注視しています”――みたいな、あいまいで怖い言い方が、わたしの中に残っていた。


 本当に何かが起きるとは思えない。でも、政府が出しているパンフレットは、そんな“不安”に備えなさい、ってはっきり言っている。あの分厚い冊子。表紙の色は薄い青で、どこか頼りなさそうな雰囲気だけど、書いてあることはとても真剣だ。


「パンフレット、読んだ?」


 わたしがそう尋ねると、カーラはスープを飲み干しながら「あれでしょ、“協力と備えで生き延びよう”ってやつ」と笑った。


「……そう、それ」


 わたしは真面目にうなずく。あの冊子には、物資の備え方とか、地下室の整備とか、いろんなことが書いてある。でも、一番大事なのは、たぶん“家族で協力すること”って書かれていたところ。みんなで話し合って、乗り越える。わたしは、それが正しいと思う。だって、そういうときこそ、誰かを頼りにしていいってことだから。


 ページの端に「感情を共有する時間を持ちましょう」と書かれていたのも、強く心に残っていた。わたしは、そういうのが、とても大事だと思う。心配なことは黙ってしまうより、少しずつでも話すほうが、きっと前に進める。だからこそ、今日はうまくやりたい。誰も怒らせたり、気まずくなったりしないで。きちんと、安全に、できる限りうまく。


 わたしたちは、子どもかもしれないけれど、それでもちゃんと、今できることをしないといけない。パンフレットの最後に載っていた「あなたにできることは、きっとある」という言葉が、どこか自分に言われた気がした。


 スプーンを置いて、わたしは両手を膝の上に重ねた。姿勢を正して、呼吸を整える。


「……準備、ちゃんとしてから行こうね」


 カーラは「はーい」と軽く返して、もう立ちあがっていた。シャナも静かに頷く。


 朝の食器の音が、テーブルの上でかすかに響いていた。その音がどこか静かで、落ち着いたリズムを作っているように感じた。時計の針がカチリと動き、わたしたちはそれぞれの役割へ向かって動きはじめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る