第89話
両目に滲んだ涙が気恥ずかしくて、私は咄嗟に両手の掌で顔を擦り上げた。
「あー……えーと……あ、あのさっ………ケイって、呼んでもいいかな?」
声の調子を無理矢理明るくして、半ば強引に話を逸らす。
彼の言葉にどう答えて良いか分からなくて、そうせずにはいられなかったというのもあるけれど……。
彼の呼び名が【ケイ】かも知れないと解った以上、交渉しない手はないから。
2人きりの時間では「ねぇ」とか「あのさ」とか呼びかければ、大概、用が足りてしまうので、彼に呼び名を付けるきっかけを失っていたけれど。
彼を名前で呼べる方が、親密度が増すような気がして、なんとなく嬉しい。
彼も、そう呼ばれることを嫌がらないといいのだけれど……。
反応をうかがうように見上げた私に、彼は笑って頷いた。
『いいよ……それじゃあ、君の事も…………』
「せっ、芹花っ。芹花って呼んでっ」
私は思わず、身を乗り出して名乗ってしまっていた。
彼はきっと、私の名前なんて知らない……ううん、仮に知っていたとしても思い出せていないだろうから。
『セリカ………可愛い名前』
そう言って微笑む彼の、その眼差しが、今は私だけにそそがれている。
その事実が、私の喜びになっていると……。
私こそが、彼の傍に、と、望んでいるのだと……。
その瞬間、私は、そう実感せずにはいられなかった。
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