第35話

 あと一五分で、部長と約束した時刻になる。

 昨晩遅くに村を出た私は、国道の脇にぽつんと佇むコンビニの駐車場で一夜を明かした。それからずっと、ここにいる。東の空は朱と青が徐々に混ざり合い、日没が近いことを示している。

 このコンビニは、真識の村へ向かっていた日に前を通りかかり、記憶に残っていた。あの時は夜明け前だった。山が連なる黒いシルエットに囲まれた、ひっそり寂しい世界の中に、まるでこのコンビニだけが生きているみたいにホンワリと明るく浮かび上がっていたのだ。どこにでもある見慣れたコンビニの灯り。それが、町田会長が紹介してくれた療術所が一体どういう所なのかイマイチつかめず、不安だらけだった私の心を慰めてくれた。

 だから、部長と会う場所もここにした。必ず誰かはいるし、なんとなく、ここなら上手くやれそうな気がしたから。

 そういえば、村に向かっていたあの日、正面にそびえていた山の中腹あたりにも小さな光が見えたんだった、と今更になって思い出す。

 位置から考えて、あれは『ましき』の灯りだったのね……。

 空が藍色に侵食されていく。もうすぐあの山の中腹に、あたたかい光がまた灯る。

 みんな、どうしているだろう。

 私のスマホには、大屋敷からの不在着信履歴が沢山溜まっている。それから、知らない携帯番号からも。もしかしたら、浅葱さんなのかもしれない。

 勝手に出ていって本当に申し訳ないと思うけど、相談なんてしたら、きっとあの人達は私を止めただろう。

 やり遂げる為には、手紙を置いて出てくるしかなかった。それでも、今日一日で何度も心が折れかけ、そのたびにグミのジャムを見つめて気持ちを奮い立たせた。

 部長には、『ましき』の大きな情報が手に入ったから直接渡すと言って、受け渡し場所にこのコンビニを指定した。『了解』という返信があったから、きっと来るはず。

 約束の時刻は、十九時。

 指先がとても冷たい。緊張してる。グミを収穫していた時は汗ばむほど温かく感じたのに、今はなんとなく寒い。私は、車のエアコンを切った。

 助手席のシートに置いていあったスマホが鳴る。また大屋敷からかと思ったら、スマホの画面には『お母さん』の文字が出ていた。思わず手にとる。

 受話ボタンをタップして、「おかあさん?」と応じると、『恵理。元気?』という、いつも通りの柔らかい声が聞こえてきた。

「元気だよ。どうしたの?」

 努めて明るく答える。

『町田さんが紹介してくだすったところ、どう? 足は楽になってきた?』

「うん。まだ腫れは残ってるけど、松葉杖を使わなくてよくなってきたの。体のほうに力が付いてきたみたい」

『ああ、よかった……』

 心底ほっとした様子の、お母さんの声。

『いい人達に出会えたのね。ありがたいわ』

「うん、そうだね。感謝してる」

 私は心の底から同意した。

 お母さんがまた、『ねえ、恵理』と話しかけてくる。

『感謝してるんなら、何か一つでも、お役に立って帰ってきなさいね』

 ここで私は、はっとした。そうか、問診表には、第二の連絡先として実家の番号を書いたんだった、と。

 大屋敷から、お母さんに連絡がいったんだ。お母さんは、私が消えた事をもう知ってるんだ。

 お母さんは昔から、本当に私を改めさせたい時には、責めたり怒ったりせずこうやって、回り道をするように諭してくる。だから、今もきっと……

 私が黙っていると、電話口でお母さんがふっと笑う気配がした。

『恵理。あなたが心配するほど、お母さん弱くないわ。だからお母さんの事は、気にせずいなさい』

「え?」

 前触れもなくいきなり核心を突かれ、私は面食らった。お母さんには、お父さんの浮気はもちろん、部長に脅迫されていることも話していないのに。

 どうして分ったんだろうと内心おろおろしていると、お母さんはまた電話口で笑った。

『あなた昔から、困った時はまずお母さんに話す子だもんね。それができないんでしょ。分るわよ』

 一拍おいて、スマホから深い吐息が聞こえる。

『……お父さんはね、もういいの。結婚する前からずっとあんなだったんだから。浮気するたび、お母さん以外には上手く隠せてたのに。歳のせいかしらね。今回はちょっと失敗したみたい。……許してあげるつもりは無いけど。だからって、崩れるような人生も歩んでないのよ。私達』

「ええっ?」

 思わず叫んだ。

 お父さん、今回だけじゃないって。結婚する前から常習犯だったって。本当に? 私、全然知らなかった。お父さん、殆ど家にいない人だったけど、お母さんと私の誕生日には必ず帰って来たし、結婚記念日には毎年、手書きメッセージ付きの花束をプレゼントしていたから、お母さん一筋の人だとばかり思っていたのに。

「信じられない……」

 愕然と呟くと、『夫婦って色々なの』とお母さんはおっとり言った。

『笑顔で帰っておいで。お父さんもお母さんも、待ってるからね』

 どんな時でも電話口のお母さんは、穏やかで明るい。この強さは、一体どこからくるんだろう。

「うん、わかったよ。ちゃんと笑って帰るから」

 最後に、「ありがとう」と告げて電話を切る。

 私、随分頼りない娘だったみたい。ごめんねお母さん。私、ここで頑張ったら、少しは強くなれるかな。



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