第36話

 一九時三〇分。コンビニの駐車場に、黒い乗用車が入って来た。部長だ。約束の時間を三〇分も過ぎている。会社では遅くても早くても文句を言う人が、勝手なものだ。

 私は車から降りた。部長が停車させたのは、店に向かって正面右端の駐車スペース。そこへと歩いてゆく。

 仕事を終えてから来たのだろう。運転席から出てきた部長は、スーツ姿だった。白髪交じりのオールバックと、両の口角がこれでもかというほどに下がった、不機嫌そうな顔。二週間ぶりくらいに見る。懐かしいとは感じない。

「来ないかと思いました。部長はいつも時間に厳しいので」

「『ほう(報告)・れん(連絡)・そう(相談)』に甘い君だからな。少々遅れるくらいが丁度いいと思ったんだ」

 皮肉を皮肉で返された。

「松葉杖を使わなくてよくなったんだな。おめでとう」

 下がっているのが標準の口角が上がり、薄い唇の下からやや黄ばんだ歯が覗く。一応笑顔だけど、この嫌味全開な顔を向けられて嬉しいと感じる人は、きっといないだろう。ここからの会話は最小限で済ませたいと思った私は、早速本題に入る事にした。

「部長にお渡しする情報があるというのは嘘です。すみません」

「まあそうだろうと思った」

「会社も辞めます」

「君の机の引き出しの中に辞表があった。ここに来る前に出しておいてやったよ」

 確かにいつでも辞められるように、辞表は用意してあったけど。勝手に何やってるのよ、この人。

 部長は私が睨んでも動じない。動じるどころか、嫌味な笑顔を一層深くする。どうせ、鼠が威嚇してる、くらいにしか思ってないんだろう。

「教えて下さい。部長はあの人達に、何をしようとしてるんですか」

 訊ねると、部長はポケットからシガレットケースを取り出した。一本抜きとり、咥えた先に火をつける。

「天明の大飢饉、て知ってるか?」

 ふう、と煙を吐いてから、部長が訊いてきた。

 どうしていきなり歴史の授業? 眉をひそめた私に構わず、部長は話し続ける。

「二〇〇年くらい前の話だ。今の日本じゃ考えられんような、酷いもんだったぞ。生き延びるために、人も食った」

 だから何? 大昔の飢饉が、部長と『ましき』と、何の関係があるの。

 そう返したかったけれど、どうせ勝手に話し続けるのだと考えて、私は言葉を飲み込んだ。

「その時、俺は農民でな。当時は社会の最下層だ。嫁も子供も餓死させちまって独りになった俺は、近所の飢えた奴らに家族の肉を食われないよう、遺体を山中深くに埋めたんだ。けど、下山する力がもう残ってなくてな。しかもぐずぐずしてるうちに、感染症まで発症しちまった」

 そこで一人の薬師に出会った。と語ってから、部長はまたタバコを吸って、煙を吐く。

「こんな時に作り話はやめてください」

「作り話だと思うか?」

 ぞくりとした。上目使いに睨んできた目が、ギラギラしている。いつもは、世界中の不幸を背負ったみたいな暗い目をしているのに。

 部長は「まあ聞け」と言うと、また話し始めた。

「薬師は、三〇歳くらいの男だった。そいつも痩せ細ってはいたものの、健康そうでな。俺を山の猟師小屋まで運んで、看病してくれたのさ。薬を売りながらほうぼう旅をしていたが、この飢饉でにっちもさっちもいかなくなっちまって、とりあえず捨てられた猟師小屋で生活していると、奴は言っていた。キノコや植物に詳しいから、何とか生き延びてこれた、ってな」

 小屋の隅には、これくらいの薬籠が置いてあったよ。と部長が、米袋三〇キロサイズ程度の長方形を、両手で形取る。

「そうだ。お前、薬籠って知ってるか? 薬棚が背負えるようになってるやつだ」

 知りませんよ。いちいち答えないけど。

「その男は、自分は『真識』という古い民族なんだと言ったよ。本家は福井藩の山の中にあって、みんなそこを拠点にしながら、医者のような真似をして生計を立てている、ってな。事実、そいつに飲ませてもらった薬は実によく効いた。お陰で俺は命を繋いで、そいつと一緒に、食える草やキノコを探したりできるまでになった。上手い具合に、小動物が罠にかかる時もあった。ひび割れた畑を耕してるより、よっぽどいい生活だったよ」

 だから、ついて行かせてくれって頼んだんだよなあ。

 部長は、すっかり藍色になった空を見上げて、煙の含んでいない息をふーと吐いた。

 なんだか口調が変わってきてる。昔語りをしているせいかもしれない。……二〇〇年前の自分を、思い出しているから?

「農民でいるのもほとほと嫌になったし。どうせ村のもんも、俺は死んだと思ってるだろうし。俺もなれるものなら真識の一人になって、薬を売って歩きてえ。雑用係でもなんでもいいから、仲間に入れてくれ。そう土下座して頼んださ」

 断られたけどな。とこぼし、またタバコを吸う。

「歳は離れてたけどな。結構仲良くなってたんだ。薬籠の引き出しを開けて、自分の商売道具を見せてくれるくらいにな。だから期待してたんだ。それだけに、断られたショックは大きかった。カッと頭に血が昇ってさ……。気付いたら、傍にあったナタで斬りつけてた」

 凍りついている私の前で、「殺す気は無かったんだが」と部長は小さく付け加えた。

「仕方なく俺は、主を失った薬籠を背負って山を下りた。けどなぁ。薬の知識も、医学の知識もねえ俺が、薬屋なんざできるわけがねえ。結局また腹を減らす羽目になって、病気にかかっちまった。でも薬だけはあったから、どれか飲めば治せるだろうと思ってな。全部ひっくり返した。そこで見つけたのが、不老長寿薬だ。唯一、薬の袋に用法と効能が書いてあった。その時俺は字が読めなかったんだが、絵があってな。だからとりあえず絵の通りにやって、それを飲んだんだ」

 病はたちどころに治った。しかし――

「それから二〇〇年、俺はこのままだ」

 その後、字を読める人に薬の袋を見せて初めて、効能と副作用を知る事ができたのだと言った部長は、小さくなったタバコを地面に捨てて足で揉み消した。

「あいつ言ってたんだよなぁ。一つだけ、絶対に人に飲ませちゃならん薬があるって。旅をしてるのは、世の中に出ちまったそれを回収する目的もあるんだって」

 両手をズボンのポケットに入れ、タバコを右のつま先で踏みつけたまま、部長は「あー……」と悔しげに、低い呻き声を上げる。

「……なあ斎藤よ。長生きってのは、するもんじゃねえぞ。楽しいのなんてな、最初の五〇年だけだった。残りの一五〇年は地獄だ」

 解毒剤は? と訊くと、そんなものがあったらこんな真似はしていない、と掠れた声が即答した。

 じゃあ、あなたは何がしたいのか。

 その問いに「報復」という二文字が返ってくる。

「自分勝手ですね」

 嫌悪を隠さず言うと、部長はスーツの胸ポケットから茶色の薬瓶を取り出して、「じゃあお前も試しに一〇〇年生きてみるか?」と振ってみせた。チャラチャラ、と瓶の中で硬い物がぶつかる音がする。

 一粒一〇〇年。ここにあと一〇〇年分が残ってるのだと、部長は口角を上げた。

「俺の仲間には、報復どころか制裁を与えると息巻いてる奴がいる。そいつよりはマシだろ」

 ちょっとまって!

「仲間がいるんですか?」

 何人なの? と詰問したけれど、部長は「裏切り者に教えるわけがないだろう」と嘲るように笑って、薬瓶を胸ポケットに戻した。

 裏切り者ですって? どうせ使い捨てるつもりだったくせに!

 自分でも、怒りで顔が真っ赤になっているのが分る。思いきり罵倒してやりたいけれど、頭に血が昇っているせいか、これといった単語が出て来ないのがとても悔しい。掌が痛いと思ったら、拳を強く握るあまり、爪がくいこんでいた。

「まあ、ゴミみたいなお前の情報も、少しは役に立ったがな。真識の場所が特定されたお陰で、色々と偵察できたし。あとは、災害に備えて屋敷に補助電源がある、というのは、知れて本当によかったよ」

 なんだか嫌な予感を覚えさせる台詞だ。

「もうやめてください。お願いします」

 どうやって報復するかはまるで分らないけれど、とにかく部長を止めなければという思いで一歩前に出る。部長は、私が前に出た分距離を取ることで、私のお願いを拒絶した。

 部長のズボンのポケットから、ピコンという耳慣れた電子音が聞こえた。取り出されたのは、スマホだ。部長はあかあかと光る画面に視線を落とすと、にやりと笑う。

「真識の小娘が目を覚ましたらしい。もう行くよ」

 踵を返し、早足で車へと向かう。

 真識の小娘って誰? その娘に何したの?

「部長! まだ話が――」

 追いかけようとしたけれど左足に痛みが走り、思わず立ち止まる。昨晩から無理をし過ぎたせいで、炎症が酷くなったみたい。こんな時に!

 左足に気を取られている間に、部長は車で走り去ってしまった。私も急いで車に戻ろうとしたその時。

 世界が闇に落ちた。

 正確には、電気が消えた。コンビニも、街灯も、信号も。人工的な灯りの全てが。

 けれど、真っ黒い山のシルエットの中に星がぽつんと落ちたような光が、一つ見える。あれは多分、『ましき』の大屋敷の灯りだ。

 補助電源があるというのは知れて本当によかったよ。

 部長の台詞が、不気味な響きを持って頭の中に蘇る。

「丸見えだ……」

 光を凝視し、恐怖する。

 私達はここですよ、と小さな光が言っている。あの光は、山中に入った部長らに、どれくらい利を与えるのだろう。

 ただの寒さではない。悪い予感が、背中をぞくりと震わせた。

 私は痛む足を引きずりながら車に戻ると、助手席シートに転がしておいたスマホをまっ先に掴んだ。

 電話をかけると、コール二回目で繋がる。

『はい』と低い男性の声が応答した。浅葱さんだ。村を出てから一日も経っていないのに、もう懐かしい。

 涙ぐみかけたが、今はそんな場合ではないと、気を引き締める。

「斎藤です。今すぐ照明を切って下さい! 見つかってしまいます!」

『はあっ?』

 浅葱さんが声を裏返らせた。


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