◇7月23日(水)晴
今日で1学期が終わる。夏休みがはじまればいよいよ受験勉強に本腰を入れないといけないので、これまでで一番憂鬱な終業式だった。
水やりも今日が最後になる。週2回、植物に囲まれた時間は息抜きになった。一昨日の月曜に雨が降って残念に感じたほどに。
(オープンキャンパスに一緒に行く話は残ってるのかな)
昇降口を出たところで立花さんとはち合わせた。きゅっと結ばれた口元を見て、私にはできる限り会いたくなかっただろうと思う。けれどばっちり顔を合わせて無視するのも変だから、「こんにちは」とだけ言ってすれ違おうとした。
「大会の後告白して、ふられたけど、ありがとうって言われました」
野球部は日曜の試合で延長の末、惜敗した。マウンドで立ち上がれなくなった太一をタケ君たちが肩を組んで整列しに連れていった。泣いていたのはそのときまで。礼をした後対戦チームの選手たちと声をかけ合い、サード側の応援席の前に並んで「応援ありがとうございました」と声を大きく張り上げた。
ひとり制服姿だった立花さんも列の端に並び、目を赤くさせて頭を下げた。ベンチでの様子を見ても、ボードに書き込み、選手と一緒に声を出し、きっと野球自体も好きなのだと伝わった。
そんな彼女の凛とした見つめる。やっぱり根性がある子だ。
「すごい。がんばったね」
立花さんはきょとんと私を見上げて、なぜか拗ねたような態度になる。
「イケメンの彼氏のいる先輩に言われても嫌味なだけです」
「彼氏いないけど」
「嶋先輩は?」
何言っているんですか、みたいな顔をされたけれど、あなたこそ何言ってるのと声を大にして言いたい。
「嶋は違うから」
忘れずに訂正しておく。その話まだ残っていたんだ。
中庭ではすでに嶋がホースの準備をしていた。遅れたことを謝り、水道の水を出してそれぞれの定位置につく。
「引退試合どうだった?」
「1年には勝ったけど、2年に負けたー。部長挨拶もなんとか終わった」
嶋の言う通り、部員に伝えたいことを考えていたら、多分中学のときだったら見つからなかったと思った。
中学校の部活はあまりいい思い出がない。校則で部活に全員入部しないといけなかったから、部員みんなが熱心というわけではなかった。ミスを指摘しただけのつもりが後輩を泣かせたこともあったし、同級生にも『楽しくできたらいいじゃん』と言われ、自分との温度差にやる気を失った。
高校の部活は、練習はずっときつかったけれど、その分団結力があった。話し合いを重ねながら、みんなが勝ちたいという気持ちで練習や試合に打ち込めるのが楽しかった。顧問や部員に恵まれた。
前に出てそんなことを緊張でつかえながら話せば、予想外な事が起こった。
「話している途中で3年だけじゃなくて後輩たちも泣きだすし、もう最後カオスだった」
『美帆の挨拶、意外だった』
帰り道、学校の最寄り駅でみんなと別れ、自転車で千尋とふたりだけになってから言われた。
『変なこと言ったっていう気まずさしかない』
『貴重なデレの効果もあるけど、定形文じゃなくて、美帆の気持ち聞けてうれしかった』
「美帆ちゃんも泣いた?」
「緊張と、みんなが泣き出した混乱でそれどころじゃなかった。それに、もともと人前で泣くのは苦手なの」
ひとりのときに泣くこともしばらくない。最後に泣いたのはいつだろう。高校最後の大会に負けた日も、1年前のあの夏の日も、私は泣かなかった。
「さっき立花さんに会った。太一に告白したんだって」
「がんばったんだね」
「だよね。素直にほめたら、嶋と付き合ってる私に言われても嫌味だって勘違いされた。訂正したけど、あの顔信じてなさそうだったな」
「立花さん強い」
嶋が笑う。こうして笑い話にすることができたのも嶋のおかげだ。
「やっぱり立花さんと話すときに嶋についてきてもらってよかった。関係ないことに巻き込むのどうかと思ったけど、頼ってって言ってくれたのに甘えた」
嶋は目を見開いた後、「関係なくても頼ってよ」また人たらしのことを言う。
ホースを片付けて、すべて倉庫にしまった。鍵を閉める。最後だと思うと達成感と少しの寂しさがあった。
「手伝ってくれてありがとう」
「結構楽しかった」
本心からだった。こんなことがなければきっと嶋と話すことはなかった。
前に立つ嶋は、私も背が高い方だけれど、もう少し高い。近くに立たれても威圧感を感じないのは、穏やかな雰囲気が大きい。
「これ、美帆ちゃんのだよね」
嶋がポケットからとり出したのは、探して、だけど見つからなくて諦めた水晶だった。
「どこにあった?」
「あじさいの枝にひっかかってた」
(よく探したつもりだったのに)
ほっとして、そんな自分に苦笑がもれる。見つかってほしかったのか、見つかってほしくなかったのか。それでも石を受け取らないという選択肢はなかった。
「ありがとう」
「ストラップは増元さんと作ったんだね」
水晶からゆっくりと顔をあげる。
信頼している嶋の、唯一今も緊張が解けないその瞳に、
「美帆ちゃんは、これからも伝えないまま友だちでいるの?」
心を見透かされる日が来ることを、私はどこかでわかっていたんだ。
「――何のこと?」
それでも私は気づかないふりをする。何もないふりをする。
「伝えてないことなんてない」
嫌われるのが怖い。『美帆ちゃん』と笑いかけられなくなるのが恐ろしい。
(なんでそんなことを聞くの)
嶋は私に何を言わせたいんだ。どうさせたいんだ。人の気持ちを暴いて、嘲笑うのか。
気持ちが卑屈になっていく。水晶を持つ手にもう片方の手を重ねてぎゅっと握りしめる。手のひらに爪が食い込むのも構わないくらい、強く。
その両手を自分よりも大きな両手が包んだ。
「誰かを好きになるって、どれも特別なことだと思う」
俺が言うと説得力あるでしょう。軽やかな声には軽蔑も嫌悪も含まれていなかった。
「自分の気持ち、大事にしてあげて。難しいなら俺が覚えておくから」
その優しさが心に溶けていく。
去年の夏、フェンス越しに裏道を歩くふたりを見て、嫉妬した相手に
こんなこと誰にも話せなくて、この気持ちを認めることもできなくて、否定して否定して、けれど無くすこともできなかった。
胸がきしむ音を聞きながら居場所を守り続けて季節が巡った。
もう手のひらを傷つけないように、握りしめていた指をほどかれる。
――夜が明ける。
私は自分で認められなくても、誰かにこの気持ちが間違いじゃないと言ってほしかったのかもしれない。
◆
「それでも、私は雫に何も伝えない」
美帆ちゃんはきっとひとりになっても泣かない。
「私は、雫と一番仲良い自信がある」
「そう思う」
「親友のポジションって、彼氏に負けてないと思わない?」
冗談めかして預けてもくれない。これからも何も伝えなまいままふたりのそばにいるんだろう。
重ねていた手を離すと、真面目な空気を振り払うように美帆ちゃんがからかう。
「優しいのも大変だ。みんなの気持ち背負ってたら、嶋が潰れる」
「誰にでも言わない」
知らないふりだってできた。追い詰めるように隠していた気持ちを言わせたのは、美帆ちゃんの感情を彼女自身に否定してほしくないという、傲慢な理由からだ。
「美帆ちゃんだから」
泣きたいときも、泣けないときも、ひとりでいようとしないで。強がりに戻るまで近くにいさせて。
白い頬に赤みが差す。初めて見る表情に笑みがこぼれた。
end
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