◇7月17日(金)晴
雫の後に美術室に足を踏み入れると、油絵具独特の匂いが鼻についた。美術室に入るのは1年生以来なのに、この匂いはいつの間にか慣れ親しんだものになっていた。
1週間の終わり。雫から放課後美術室に来てほしいと頼まれた。
人が誰もおらず窓を閉め切っていたせいで、むわっとした暑さに眉をひそめる。すぐに水道の上の窓を開けて、ようやく呼吸ができた気がした。
雫が教室の後ろの方で何かをしている間、イーゼルに立てかけられたサイズも色彩も様々なキャンバスを順に見る。そして、ある油絵の前で足を止めた。
海と空。暗闇が中心に向かって徐々に淡くなり、水平線が白みを帯びる。真ん中でイルカが大きく跳んで、青の光を浴びて水飛沫と輪郭が輝く。
「それ、私の絵」
後ろから声が聞こえ、視線を絵に留めたまま尋ねる。
「コンテストに出す絵?」
「うん」
「きれい」
この絵にふさわしい言葉を探すけれど、語彙力が乏しくてありきたりの言葉になってしまう。
描いた人を知る前からこの絵に惹きつけられた。やっぱり雫の絵が好きだと再確認する。
「それで、用事は?」
聞いたそばから雫が何かを持っていることに気づく。緊張しているのだろう、こきざみにその手が震えている。
「大分遅くなったけど、16才の誕生日プレゼントです」
差し出されたのは、銀色のフレームの写真立てに入れられた、小さいサイズのあのイルカの青の絵だった。
「美帆ちゃんが、前に絵が欲しいって言ってくれたから」
何も言えないでいると、雫が縮こまりながら説明する。緊張で今にも倒れてしまいそうで、慌てて頭を巡らしてようやく思い出した。
私は4月生まれで、仲良くなって誕生日を聞かれた時点で16才の誕生日は過ぎていた。それでも雫が気にするから、雫の描いた絵が欲しいと答えた。
「言った。覚えててくれたんだ。うれしー」
両手で受け取ると、雫はほっと安心した表情になった。自分に負荷をかけてまで渡してくれようとしたその気持ちまでうれしかった。
写真立てをひっくり返す。隅の方に青のペンで書かれた手書きの英語を見つけた。
「ブルーモーメント?」
「絵のタイトル。夜明け前や夕焼けの後に見える、あたりが青い光に照らされてみえる現象のこと」
「これは、夜明け前?」
「うん。絵を人にあげるなんて初めてだから緊張した」
「ありがとう。大事にする」
ずっと大事にする。
友だちに美術を選択した人はいなくて、先生に人物画を描くのにペアになるように言われたとき、私と同じようにひとりだった雫に声をかけた。
第一印象はおっとりした子。
ペアがいなくても焦った様子はなく、ぼんやりと周りを見ていた。あとからコミュニケーションが苦手で、初対面の人に話しかけられなかったのだと聞いた。
向き合って座り、簡単に自己紹介をした。そのとき美術部だと知った。
長くて艶のある黒髪、背が低くて、伏し目がちに話す。男子が守ってあげたいと思うのはこういう子なのだろうと、自分と真逆のような女の子を眺める。
先生がデッサンを始める合図を出すと、手首につけていた飾りのない黒のゴムで髪を後ろでひとつにまとめだした。鉛筆を手に取り、澄んだ瞳を向けられる。さっきまでの自信なさげな雰囲気は消え去った。
迷いなく手を動かす。うつむく度にサイドに残した髪が揺れる。白の画用紙にはグレーの濃淡でなめらかな自分の顔が浮かび上がっていく。
先生に注意されるまで、私は手を止めてその様子を眺めていた。
初めて雫と話した日のことを、心が震えるような感覚を、今でも鮮明に覚えている。
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