◆7月15日(水)晴

 夏休みを目の前に、授業に代わって球技大会がはじまった。


 蒸し暑い体育館で応援が反響する。自分たちのバレーボールは2回戦で3年生の別のクラスに負け、得点の係で太一とコートの端に残っていた。自分側のコートの、多分バレー経験者がアタックを決める。得点板を1枚めくる。


「女子の方、雫と美帆いる」

「ほんとだ。勝ってる」


 舞台側のコートでは美帆ちゃんと増元さんが試合に出ていた。後衛の美帆ちゃんがサーブをレシーブして、前衛の頭上にとりやすいボールを落とす。


「太一が増元さんを好きになったきっかけって何?」

「嶋がそういう話出すのめずらしい」

「……不自然だった?」

「いいや。話したいこと話せばいいじゃん」


 恋愛の話が苦手だったのを見透かされていただろうか。気まずく思うのは自分だけで、太一はあっけらかんと言う。やっぱり太一みたいになりたい。


「話したことなかったっけ?」

「付き合うまでの様子は聞いたけど、はじまりは知らない」

「1年の夏休みに中庭で雫が絵を描いてるのを見かけて。でも、顔だけで気になったわけじゃなくて」


 ボールがコートの外に出た。太一側のチームの得点になり、話を止めて札をめくる。「顔も好きだけど」隠さないところが太一らしくて笑った。


「甲子園に出た3年生が引退しても、1軍の遠征にも、うちの学校でしてた2軍の練習試合のベンチにも入れなくて、すげー落ち込んでたの。でも雫が、外の暑い中夢中でスケッチブックに描いてるの見て、まだやめるのやめようって勝手に励まされた」


 太一が増元さんを好きになった瞬間を、俺は穏やかに聞くことができる。美帆ちゃんは、それからの相談も、付き合ったという報告も、どんな気持ちで聞いてきたんだろう。


『好きな人に彼女がいるのと、諦められるのは別だよね』


 立花さんに言ったことは、美帆ちゃんに言ったことでもあり、そして自分にはまだわからない気持ち。

 太一がいいやつだっていうのはわかる。でも、つらい思いをするぐらいならやめればいいのに。そう思うのは自分が本当に誰かを好きになったことがないからだろうか。

 男なんて、太一以外にもいるのに。自分ならあんな顔させないように大事にするのに。


「雫が今日の水やりするんだってな」

「増元さんから聞いた?」

「美帆からも今朝聞いた」

「幼なじみはなんでも話してる」


 なりすましの騒動について、美帆ちゃんは頼ってくれた。もし太一に秘密にしなくてもいい事なら、あの日教室に来た美帆ちゃんは俺じゃなくて太一を呼んだと思う。

 美帆ちゃんがバスケットボールの大会中に注意した理由を省かれたまま悪く言われたとき、その場がしらけるなんて構わず、太一は美帆ちゃんをかばった。あの瞬間、ふたりの信頼関係には敵わないと、太一に憧れと同時に嫉妬した。


「幼なじみいいねって言われたって話も聞いた」

「そのときは幼なじみっていう存在がうらやましいって意味で言った。でも本当は、美帆ちゃんが幼なじみだからうらやましいんだ」


 太一と美帆ちゃんが過ごした年月に比べたら、たったの1ヶ月。それでも俺にとっては風景の彩度が変わった。あの時間がもうすぐ終わってしまうことを惜しいと思うほどに。


「嶋って、美帆のこと好き?」


 ちゃかさない、真っ直ぐな問いかけに、やっぱり太一はいいやつだと思う。

 舞台側でブザーが一際長く鳴る。試合に勝って美帆ちゃんは友だちと笑っていた。



 ○



 美帆ちゃんは自分の気持ちを隠して、友だちと好きな人を応援している。

 友だちが、増元さん。好きな人が、太一。

 そう思っていたけれど、話すほど太一への態度に恋愛感情が見えてこない。今ではどこかでかけ違えているような気もする。

 それでも、泣きそうな顔を袖で拭っていた姿を忘れられない。


 美帆ちゃんが隠したい気持ちは何だろう。




 倉庫の前に増元さんが立っていて、午前中に太一に話したばかりだったのに、今日はバレー部の引退試合だったと思い出す。


「ごめん。お待たせ」


 増元さんが俺に気付き、少しぎこちない感じで微笑んだ。『超人見知り』と美帆ちゃんから聞いた話も思い出す。

 倉庫の鍵を開けて、滑りの悪い引き戸をがたがたと音を立てながら引く。手前にあったホースリールを細い腕がふたつとも持ち上げるので、慌てて大きい方を受け取った。


「増元さんって力あるね」

「大きなキャンバスも運んだりするから」

「今日は美術部の方は大丈夫?」

「昨日完成したから大丈夫」


 背中合わせで水やりしながら、日曜日の野球の試合の話をした。

 試合はコールド勝ちだった。うちの野球部が強いのは全国大会の常連だし、何度も表彰されているから知っていたはずだったのに。普段わちゃわちゃと昼ごはんを食べている友だちが活躍する姿は純粋に感動した。次の試合も応援に行くつもりだ。

 太一が授業中に夢でも野球をしていた話をすると、増元さんの顔がほころぶ。かわいいな、と思った。反応が大きいわけではないのに、透き通るような瞳が目に留まる。


 自分の水やりの範囲が終わったので、増元さん側の範囲にもそのまま水をまく。色褪せたあじさいに水をやっていたとき、中から一瞬光が反射した。近づいて目を凝らすと枝の間に透明な石が挟まっている。

 腕を伸ばせば枝が濡れていて冷たい感触がした。石をつまんで腕を引く。シャツに灰色の線ができた。


 屈んでいた体を起こして後ろを振り返ると、増元さんはホースのシャワーを地面に置いて、クチナシの前にじっと立っていた。暑さで立ちくらみを起こした? 心配になってホースを置いて近づくと、増元さんはスマホで写真を撮っていた。画面は白い花ではなく、枝にかかった小さな蜘蛛の巣にピントが合わせられている。家主のいない網目状の糸にさっき拾った宝石みたいな大きな粒の水滴がぶらさがり、蜘蛛の巣を見てきれいだとはじめて思った。

 増元さんは俺がそばにいたことに気づき、すぐにスマホを下げた。


「宝石がたくさんついたネックレスみたい。美帆ちゃんが増元さんといるときれいなものに気づくようになったって話してたけど、こういうことか」

「美帆ちゃんが嶋君のこと優しいって言ってたけど、こういうこと」


 強張った面持ちがようやくやわらぎ、太一の話をしたときと同じ微笑が浮かぶ。クチナシの濃厚な香りが匂い立つ。


「そのストラップもきれい」


 増元さんの手にあるスマホには、紫とピンクの石が使われたストラップが下がっていた。


「修学旅行で美帆ちゃんと作ったの」


 そう言って、すくうように下からストラップを手のひらにのせる。


「美帆ちゃんっていい子だよね。本人は自分のことそうは思ってないけど」


 増元さんがストラップからこちらに顔を向ける。そしてゆっくりと、はじめてきちんと目を合わした。澄んだ瞳が揺れる。こめかみに汗が伝う。


「私はいつも緊張して、人とうまく話せなくて、でも、美帆ちゃんは絵うまいねって、さっきみたいなときも何見つけたのって、初めて話した日から立ち止まって聞いてくれる」


 勇気をふりしぼって紡がれる言葉を、頭上から降る蝉の鳴き声にかき消されないように、耳を傾ける。


「絵を描くだけと思ってた高校生活が変わったはじまりは、美帆ちゃんなんだ」


 俺は最初から思い違いをしていたのかもしれない。

 感情の種類が違っても、おたがいを大事に思っているのは真実だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る