◇1年前

『増元さんを紹介してください』


 2年前の真夏日も、太一は私の部屋で土下座した。

 夏休みの宿題である英語の問題集の上にシャーペンを一旦置く。座ったままチャーを回転させて、床に座る太一を見下ろす。


『雫のこと好きなの?』

『まだそこまでじゃなくて、先週学校で見かけて気になるようになった感じ。でも、話しかける用事なくて』


 雫は無口で大人しくて、休み時間になると友だちの席に行くようなタイプじゃない。私ももし美術でペアにならなければ、自分とは真逆のような雫に話かけることはなかったと思う。千尋にも私が雫と仲良くなったのは意外と言われた。


『雫に連絡先教えていいか聞けばいい?』

『その前に、さりげなく、自然に、認識してもらいたい』

『面倒は嫌だから』

『2学期になったら、昼休みに英和辞典借りに行くってのはどう?』

『まだ2週間もあるから忘れそう』

『俺が覚えてるから大丈夫』


 新学期に入って、太一が私のクラスまで辞書を借りに来た。前日に再度頼まれた通りに私はその休み時間に雫の席へ出向いていて、流れで雫に太一のことを紹介した。

 ふたりが顔を合わせる瞬間を目の当たりにして、取られる、と思った。その後自分に問いかける。誰に? 誰を?

 太一が緊張気味に自己紹介をはじめる。ひとまずこの違和感を隅に追いやり、ぎこちない会話に助け舟を出すように話に加わった。


 まだふたりで話すのは緊張するからと、はじめ太一は雫と私がセットでいるときに話かけてきた。紅葉が散る秋の終わりに私がいなくても話すようになり、太一から雫が好きだと聞いた冬のさなか、雫からも太一の話が出るようになっていた。


 太一が相談やのろけを話しに私の部屋に来る頻度が増えたから、家族に付き合ったのかと誤解されたほど。幼なじみと友だちのクッションでしかないのに。


 劇的な出来事が起こるわけではない、日常におたがいいの存在が溶け込むような、ゆるやかな過程を見守りながら、胸にわだかまる、名前のわからない複雑な気持ちの正体を探していた。



 ○

 


 高校2年生の夏。風が通らない、体育館がサウナみたいに蒸し暑い日だった。

 サポーターをつけた肘と膝が蒸れて少しかゆい。アタックに合わせて声出しをしながら順番を待っていると、突然視界がぐにゃりと揺れた。自分の番になっても動きだせず呼吸を整えていると、セッターの持ち場にいた千尋に顔をのぞきこまれる。


『顔色悪い』

『貧血。ちょっと休憩する』


 体は丈夫でも、寝不足や生理になるとたまに貧血を起こす。多分昨夜寝つきが悪かったのが原因だ。

 中断させたのを謝って体育館の外に出た。視界が回り十分に開けられない目で、フェンスの向こうを歩くふたりを見つけた。


『明日告白する』


 昨日わざわざ宣言しに来た太一に、私は何て言った?


(私の方が先に出会ったのに)


 その瞬間、あれほどわからなかった気持ちの正体に気づいた。気づきたくなかった。認めたくなかった。だって、こんなの叶わない。


 私は何も伝えない。これからだって伝えるつもりはない。

 この位置にいることを選んだのは自分。無くなってしまえと願った思いはいまだに消えないまま、季節だけが巡った。

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