◇6月3日(水)晴
昨日の太一とのやりとりを
「私が代わったのに」
「雫は部活と予備校で忙しいでしょう。私はバレー部引退したから」
雫は3年生の4月から美術の予備校に通っている。さらに美術部でも学生のコンテストに向けて作品に取りかかっていて、土日も登校しているらしい。賞を取れたら受験でプラス点になるらしいけれど、もともと絵に手抜きするような子じゃない。『美術部ってゆるそう』という私の中にあった偏見は、雫に覆された。
雫と仲良くなったのは、1年の選択美術で人物画のペアになったのがきっかけだ。おっとりした雫は体育会系の私と全然違うタイプ。それでも不思議と相性がよかった。
(それに、あのばかが大事な彼女を男とふたりきりにさせるわけない)
心の中でつぶやけば、ちょうど噂していた人物が教室に入ってきた。
「ちょうど太一君の話してた」
雫の言葉に太一が顔をしかめて私を見る。
「変なこと言ってないよな?」
「保育園のとき予防注射を」
「ちょっとおおお!」
予防注射を嫌がって泣きに泣いて、看護師たちに羽交い絞めにされていた。
叫ぶ太一を無視して隣を見やると、ゆるりと微笑まれた。
「これ美帆」
水やりを交代することについて話は通してあるらしい。ただし説明が雑過ぎる。「これって」と嶋も苦笑している。
一方的に名前は知っていたとはいえ、嶋とこんなふうに顔を合わせるのは初めてだった。左目の目尻にあるほくろが色っぽい。
「美帆ちゃんに迷惑かけることになってごめん」
「ううん」
返事してから、今名前で呼ばれたと気づく。前からの知り合いかと錯覚するほどの自然さだった。
「今日の放課後当番だけど、来れる?」
「うん。制服のままでいいの?」
「水やりとゴミ拾いだから、制服で大丈夫」
太一は私を紹介しただけで自分の役目は終わったと思っているらしい。私たちが話す隣で雫と放課後の予定を話している。
「今日何時まで描く?」
「7時ぐらいまで」
「俺も部活それぐらいだから、一緒に帰ろう」
(締まりのない顔して)
こんなにわかりやすい人によくピッチャーが務まるものだ。バッテリーを組んでいるタケ君のリードがうまいのも大きいけれど、普段の能天気さとマウンドでの集中力のギャップには、長い付き合いでもふいに驚くことがある。
「水やりってどこに集合?」
ふたりから嶋に視線を戻すと、思いがけず見つめられていてどきまぎした。
「ゴミ捨て場の近くの倉庫わかる?」
「わかる」
「そこにホースが片付けてあるから、掃除終わったら倉庫の前で待ってて」
さっきと変わらない柔らかな話し方でも、私はほんの少し警戒心を抱く。決して嫌な感じではない。言うなれば直感だ。太一には野生の勘だと言われたことがあるけれど、自分の勘は案外侮れない。
放課後、掃除を終えてからゴミ捨て場に行くと、嶋はまだいなかった。ホースが倉庫に片づけられているなら鍵が必要だ。ここの鍵はどこにあるんだっけ。事務室? 校務員室?
取りに行こうと歩き出したところで、嶋が来た。
「倉庫の鍵いるよね?」
「取ってきた」
嶋は小さな鍵を見せた後、1段の階段を上がって倉庫の鍵を開けた。床にホースリールが小さいものと大きいものと2種類あった。奥にある小さい方を先に取って私に渡し、大きい方を持つ。
「あと袋もだった」
嶋は備え付けられた棚にあったビニール袋から1枚取り出し、今度こそ倉庫から出てきた。
渡り廊下を横切り中庭に出る。通路がタイル敷きで、中央に花壇や木、中庭を囲う校舎側の端に低木や背の高い花が植えられている。ベンチがあちこちに置かれて、天気が良い日は生徒がそこで昼食を取っているのを見かける。
「水やりの範囲は中庭だけ。ゴミも見つけたら拾って」
「どっちから水やりすればいい?」
嶋は中庭全体を見渡す。
「俺は奥からするから、美帆ちゃんは水道に近い方からしてもらっていい?」
「わかった」
蛇口にホースを取り付けて移動する。反対側のホースの先には散水用のノズルが取り付けられていて、レバーを引いて水を出した。
6月に入って気温と湿度が上がり、今日は体育でも汗をかいた。水しぶきであたりの空気が涼しくなって気持ちいい。
校舎の下ではクチナシが白い花を咲かせ、花壇ではマリーゴールドが花開いている。他にも名前の知らない草木の花の色や葉の緑が鮮やかだ。
自分はあまり中庭を利用しない。私ひとりなら渡り廊下も脇目も振らずに歩くから、こうしてじっくり植物を眺めるのもいつぶりだろう。
日曜日に高校最後の大会が終わり、昨日、一昨日は脱力して授業に身が入らなかった。太一に頼まれたときは面倒だと思ったものの、水やりは気分転換になりそうだと思った。
気持ちに余裕が出てきたところで、水をあげながら離れた横顔を盗み見る。
(嶋のどこがいいんだろう)
誰にでも優しいとか、誰と付き合っていつ別れたとか、部活の休憩中に千尋から時々嶋の話を聞いた。長くは続かなくて、でも別れても元カノとは険悪にならずに友だちの関係に戻るということも。
千尋はイケメンが好きだ。私が学校の生徒や芸能人をある程度把握しているのは、千尋の話を聞き流してきたから。
ふいに嶋が振り向いた。視線に気付かれたかとどきっとする。
「終わった?」
「終わった」
「片付けようか」
ホースを倉庫に片付けて鍵をかける。30分もかからず水やりは終了した。
「次は月曜日に来ればいい?」
「美帆ちゃんは塾とか用事は大丈夫?」
「塾行ってないし、部活ももう引退したから」
「バレー部だったよね」
知っていたことに驚いていると、「太一から聞いた」嶋が付け足した。
「用事できたら遠慮なく言って。アドレス教えてもらっていい?」
「うん」
ブレザーのポケットからスマホを取り出す。
「そのストラップきれい」
連絡先を交換した後、嶋は私のスマホにつけているストラップをほめた。青のインディゴライト、白のセレナイト、そして誕生石の水晶を「I」の形に縦に連ねたもの。そっと触れると太陽の光を反射してきらめいた。
「誰かのプレゼント?」
「え?」
「大事そうにしてる」
「パワーストーンでアクセサリーを作ってもらえる店で、自分たちで作った」
突然着信音が響いた。ごめん、と謝ってから嶋が電話に出る。
「俺も今終わったところ。鍵返してから行く」
電話の相手は彼女だろうか。電話を切ったタイミングで話しかける。
「鍵なら私が返しておく。どこに返したらいい?」
「事務室だけど、こっちが手伝ってもらっているから」
「待たせてるんでしょう」
今の言い方きつかったかも。言った後にきまずく思う。たまに怒っているとか非難しているように聞こえると言われる。
だけど、嶋はありがとうと微笑み、私に鍵を渡した。ごめんと言われるよりそっちの方がいい。
嶋の今の彼女は2年生と千尋が言っていた気がする。名前も顔も知らなくても、昇降口でひとり待っていた女の子が嶋を見つけてふわりと笑ったから、この子だとわかった。
嶋は「ありがとう」ともう一度言って、彼女の元に向かう。私は事務室に鍵を戻し行くためにシューズに履きかえた。
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