第3話 迎え火

 墓地から戻り、家の敷地に入って車を停める。


 車を降りると東の山の稜線から日は登り始めており、既に明るくなった朝の景色。自宅では母が起きているらしく、中からは朝食を準備している温かな空気も漂っていた。

 お墓参りの道具を玄関に仕舞い、今度は庭の端に建っている小さな山小屋風の小屋に入る。そこは、ストーブにくべる薪を貯めている小屋だった。

 小屋の入口には、薪割りやら草刈りやらの道具が揃えてある。そしてその傍らに、取り分けてあった松薪が木箱に入って用意されていた。

 量は充分残っている。少なくともこれだけで二、三年分はあるだろう。


 そんな、さほど必要もない確認を済ませ、薪を入れていた手提げ籠を小屋に仕舞って母屋に戻る。

 台所の勝手口まで来ると、朝食の匂いが漂ってきた。そして、日の光が木々の間から狙いすましたように僕の顔を差す────


 「ただいま……」


 申し訳程度に声をかけて、家に入ると母が声をかけてきた。


「おかえり。誰も来てなかったでしょう? まだ早いから……。お墓、汚れてなかった?」


 先週、母はお墓の掃除を済ませておいてくれていた。それも、お盆を迎える前の恒例だった。 

「うん、きれいだったよ────」

 そこまで言って少し躊躇したが、僕は見てきたことをそのまま話す。

「誰か、お線香供えてくれてたみたいだ。……お隣さんのお墓にも」

 そう言うと、母は料理をしながら半分だけ顔を向けて何かしら思案した後、「そう……」とだけ答えた。

 きっと、母も僕と同じことを考えている。そして、あの噂も同様に聞いていたのだろう。



 隣の家に住んでいた、夏子ちゃんの家族。

 その家長、お父さんの敏弥としやさんは、ある日突然亡くなってしまった──。

 仕事の現場での事故だったらしい。



 あまりに突然のことで、残された家族は状況を整理できないまま慌ただしく葬儀を執り行い、事後を進めなければならなかった。

 亡くなったばかりでまだ気持ちの整理もできていないというのに、ひっきりなしに用件は舞い込んでくる。そんな悲しみと混乱の最中に済ませなければならなかった、各種役所への手続き、保険の処理、遺産の相続……そして、借金の返済。一度、葬儀屋のふりをした詐欺まがいの業者までが訪ねてきたこともあった。


 僕はその時、社会というのはどこまでも無情だと思ったものだった。


 他人の死を悼むより、自分の事の方が大事だというのはどうしようもないことなのかもしれないが、せめて静かに故人を偲ぶ時間くらい持たせてくれないのだろうかと、あまりに優しさの無い人の世を、僕は酷く恨んだ。

 

 僕らの家族は、せめてもと思い、彼女の家族のためにできることをした。

 もとより、両家はずっと家族同然の間柄だった。当然僕ら家族も大いに悲しんだが、彼女の家族よりも悲しい顔をするのは、それはそれで思い上がりであろうという思いもあり、僕の両親はあまり感情を見せることを良しとはしなかった。求められる範囲で、できる手助けだけをしよう、それが私達に許された行いだと。


 ようやく粗方の始末が済んで一応の事の区切りを見た時、夏子ちゃんと夏子ちゃんのお母さん……美春みはるさんは静かに遺影の前で泣いていた。葬儀の間は色んな人が出入りして騒がしかった家が、がらんどうになったような静けさに包まれ、落ち着いたのとは違う空虚さに満たされた仏間で、ずっと気丈に振る舞っていた、遺された母子二人にようやく……ようやく本来の悲しみを感じられる時間が訪れたのだと解って、僕は何も言わずに彼女の家を立ち去ったのを覚えている。


 大黒柱を失い残された家族の暮らしは、楽ではなかっただろう。だが、彼女の父親……敏弥さんの勤めていた会社はそれなりに大きく、多額の見舞金が支払われることになった。それに、敏弥さんは保険にも入っていてくれたため、お金の面で切迫することが無かったのは幸いであっただろう。少しずつ、穏やかさを取り戻していくことができれば、僕ら家族はそう思っていた。


 だが、田舎の歪んだ感情はそんな夏子ちゃんたちを更なる苦難へ陥れた。

 葬儀が終わってしばらくした頃──その事件は起こった。


 夏子ちゃんのお母さん、美春みはるさんは若くて美人でもあったため、寡婦となったことを知った村の男たちから頻繁に声をかけられるようになってしまった。どこで聞きつけたのか知らないが、遺産を狙って近づいてくる男までいた。まだ、四十九日も済んでいないというのに家にまで押しかけてくる悪党までいたほどだった。

 僕ら家族はなんとかお母さんを守ろうとしたのだが、下劣さに全て注ぎ込んだような悪漢に対抗しきれるものではなかった。


 とうとう、ある時────

 家に上がり込んだ村の男に、お母さんが乱暴されるという事件が起こってしまった。


 美春さん本人は、「私が悪いんです」と言い、騒ぎにすることを良しとしなかったのだが、僕ら家族が、そしてなにより娘の夏子ちゃんがそれを許せなかったのだ。僕らは、警察に被害届を出し捜査をしてもらい、程なく村の一人の男が犯人として捕まることになった。

 社会的に見れば当然の報いであったはずだが、村で醸成された因習と空気の中では別な思惑が溢れ出した。

 村に要らぬ騒ぎを起こしたとして、通報した僕ら家族が、そして何より被害者であるはずの夏子ちゃん母子までもが村中から睨まれることになってしまったのだ。

 捕まった犯人の男が、いわゆる村の権力者に近い立場の人間だった事もそれに影響していたのだろう。

 以来、僕たち家族と夏子ちゃん母子は、住みにくくなった村の淀んだ空気の中で生きる事を余儀なくされてしまったのだった。


 

 ……………………………



 不景気なる世間、僕の働いている金属加工の町工場はお盆が近くなると夏休み希望者を募る。もちろん働いたほうがいいのは分かるが、もともと暑さの苦手な僕は例年通り早くから休みの申請を出してあった。有給ではないが、閑業期の休暇は査定に響かない仕組みなので、僕はいつもこの制度を利用して長めの夏休みを取得していた。

 さりとて、休んだからといって別に特別なことをするわけではない。車で出掛けて車中泊を繰り返し、まだ行ったことのない地域、それも観光地ではない土地をのんびりと見て回るのが、僕のささやかな趣味であったから。


 お盆が近くなり、僕は今年も早々と夏休みに突入していた。もちろん、学生の頃とは違い何週間も休めるわけではなかったが、一応なりとも夏は休むものという身体になってしまっていたので、今年もそれに倣うことにしたのだ。

 風通しのいい和室にごろごろと寝転んで積み置きしていた本を読んでいたが、ふと、外の風の匂いが変わりだしたのに季節を感じる。

 幾分暑さが和らぎはじめた昼下がりに、僕は母に声をかけた。


「もう、家の前の迎え火焚いても大丈夫かな?」

 すると母は、家事をしながら、

「あんた好きだねぇ……? まだまだ早いよ。まぁ、点けたいなら別にいいけど……。皆でするお盆の準備の方も、忘れずにしておいて頂戴。御札おふだもね」

 そう声だけで返事をして寄越した。


 例年の惰性で休みを取っていたものの、今年は出かける予定さえまともに組んでいなかった。つまり完全な手持ち無沙汰なのである。

 そこで僕は、まだ早いのを分かりつつもお盆の恒例を済ませてしまおうと今朝、松明かしをしに墓地に赴いたのだった。

 なにやら火遊びでもしている気分だったが、に火を焚ける少ない機会でもある。

 僕は準備しておいた松薪を手提げ籠に二掴み分ほど取り分けて、小屋から持ち出す。それに、火種と御札を持って、僕は家の敷地の入口近くにある、火受け石のところまで歩く。

 松明かしはお墓でも焚くが、このように迎え火として家の敷地の入口の隅にも同様に焚くのだ。そして、家の脇で焚くに関してはお墓とは違い、まだどの家でも続けられている。せめてこの迎え火だけでも、松明かしという文化は残っていて欲しいと願ってしまう。火を焚かないお盆など、夏休みの無い夏のようなものだ。最早そうなったなら、僕にとってそれは夏ですらないのかもしれない。


 勿論、これをしないからといって、物理的になにかが変わるという訳じゃない。

 年中行事というものは、単なる習慣として以上に人の心に作用するものだと思う。そして同時に、故人に対する感情を整理する機会でもあるのだ。一応は、僕も世俗を生きる人間である以上、故人への思いに囚われてずっと物思いに耽っているわけにはいかない。たとえ悲しみがいつまでも生々しかろうと、生きるためには社会に出て働かなければならないのだ。

 重さが和らいだからといって、悲しみは決して消えたのではないし、忘れたわけでもない。誰もが眼の前のを言い訳に、それを誤魔化して生きているに過ぎない。

 だからこそこうして感情と記憶を物質化、顕在化し、行為として消化していくことはとても健全なことだと思う。これが無かったら、きっと僕は精神に失調をきたしてしまっていただろうから。


 ……僕は、長年使い込まれて黒く焦げた石の上に、僅かに積もった砂埃を払ってから、今朝と同じように松薪を積んで火を灯す。

 じりじりと音を立て煤煙を上げ、炎が大きくなっていく────


 しゃがんだまま僕は、揺らめくその炎にしばらく見入っていた。



 そのままぼんやりとしていたが、時期外れの松明かしにいつまでもひたっているわけにもいかず、まるでぬるま湯のような放心からしぶしぶ抜け出し、僕はのそのそと立ち上がった。


 ……耳を澄ますと、家の前の道の向こうから車が近寄ってくる気配がしていた。

 この道の先には、我が家の他に民家など無い。つまり、必然的に我が家に用事のある車なのだろう。そして、その要件の相手は大抵の場合は、父である。

 僕は、先程までの心地よく緩んだ気持ちが世俗に引き戻されるのを嫌って、踵を返しその来客の目につかないように、あえて庭の端の小屋の影に足早に駆け込んだ。

 別に隠れる必要もないのだが、なんだか今は人に会いたいような気分でもなかったのだ。さりとて、こうしてここでかくれんぼのようなことをしているわけにも行かず、僕は手持ち無沙汰の言い訳として、また松薪を割っておくことにした。


 小屋の中からまだ割られていない松の根をいくつか取り出して並べる。そして、薪割りの時に台として使っている切り株の上に立てて、そこになたを振り下ろす。

 たんっ、たんっ、と音を立てて、松薪が細く割られていく。

 この作業は、無心になれるのがいい。なにか煮詰まったり悩みが渦巻きそうな時には、よくここに来て薪割りをしたものだった。

 数年使う分くらいは十分に割ってストックしてあるのだが、使った分はなるべくすぐに補充する習慣にしていた。冬に使う薪と同じで、いざ集めようと思っても都合よく準備できる訳では無い。それに、松薪は薪ストーブの焚付けとして普段遣いもされる。気付いたときに少しずつでも貯めておく、というのが祖父の教えであった。それに、割った後は広げて日に当て乾かしたほうがより質の良い使い勝手のいい薪になる。こうして割っておけば、足りなくなることもないだろう。


 以前ならこんな事は気にしなくても、じいちゃんが知らずのうちに割っておいてくれていた。他にも、家の周りのちょっとした綻びや、草刈りと樹の枝の剪定、庭の水はけが悪くぬかるんだ場所の整地など、目立たない部分の生活の繕いはじいちゃんが本当に知らず知らずのうちにやっておいてくれていたものだ。

 じいちゃんが亡くなってからというもの、家の周りが妙に荒れたように感じる。その事が、縁の下で支えてくれていた人がいなくなったことを如実に表していた。だから今度は、僕がその役目を負うのがいいだろうと思い、生前のじいちゃんの作業する姿を思い出しながら、こうして家の周りを繕っている。

 他人が見たら取るに足らない作業だろうけれど、田舎で暮らす上ではとても大切なことだ。放っておくと、自然というのは容易に人の暮らす領域を侵食してくる。これをスローライフと考えれば憧れる者もいるかもしれないが、田舎暮らしというのは存外忙しいものでもある。

 人間の日々の弛まぬ営みが、生活の領域を維持してくれているということを、じいちゃんはその身を以て僕に示してくれていたのだと、今になって思うのだ。


 僕は鉈を振るいながら、小屋の陰から母屋の方を伺う。

 思った通り、先ほど気配を感じた車が敷地に入ってきて止まった音がしていた。続いて家の中に呼びかけている声も聞こえた気がした。僕は、そのまま来客が帰るまでやり過ごそうと再び鉈を振るい、松薪を割っては箱に投げ入れる。それから思い出したように、今度は母屋とは反対側の少し離れた隣の民家に目を遣った。


 以前は、僕の家と隣家との間には屋敷林と云われる木立があって直接隣家は見えなかった。じいちゃんが生前最後に手掛けた仕事は、その屋敷林を伐ることだった。

 この屋敷林というのは、家の普請が必要になった際にそれに適した材料がすぐに手に入るとは限らない為、将来必要になるであろう材木用の樹をあらかじめ育てておいたものである。昔はどこの家でもそういった山や林を持っていたのだが近年ではそういった風習も廃れ、今ではほんの数件残るくらいだろう。そして、我が家の屋敷林も既に無い。


 必要なものだからと大切に育てていた林だったが、じいちゃんは自らの手で全て伐り倒してから、亡くなった。

 本来なら材木の使い道ができてから伐るものだが、今の御時世、樹を伐り倒すのにもそれなりにお金がかかるものだ。善かれと思って遺した物が、残った家族の負担になるようではいかん、自分で始末をつけられるうちに……そう言って、じいちゃんは自らの手で一本ずつその屋敷林の大木を伐り倒し、それが全て片付くと時期を図ったように亡くなった。


 口ではそんな理由を述べていたが、本心ではあの事件のことでじいちゃんも責任を感じていたのだろうと思う。

 今では、彼女の家が見通せるようになり、そこには痕跡として切り株が点々と残るだけの空き地になっている────。 


玲弥れいやくん……?」


 そんな思いに耽っていた僕の耳に、不意に声が聞こえた。

 一瞬、空耳かとも思ったが、その声には間違いなく聞き覚えがあった。

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