第4話 おかえり
「
そんな思いに耽っていた僕の耳に、不意に声が聞こえた。
一瞬、空耳かとも思ったが、その声には間違いなく聞き覚えがあった。
でも、何故────
彼女はもう、この村にはいないはず
僕は恐る恐る、声のした方に振り返る。
そこには、いるはずの無い彼女が立っていた。
その姿は、記憶の中とは少し違っていたけれど面影は確かに見覚えのあるものだった。遠慮がちで罪悪感の残る微笑みに、懐かしさと同時に鈍く疼く胸の痛み。年月は人を変えるのだと実感するが、今はむしろそれがありがたかった。記憶のままの姿だったら、僕は逃げ出していたかも知れなかったから。或いは、変わってしまったのは僕の方なのだろうか。
「
僕の呟くような問いに、目の前の女性は微かに頷いた。
そこで、僕は名前で呼んでしまっていた事に慌てて訂正した。
「あ、ごめん。田端さん、だったよね」
しかし、
「ううん、夏子でいいよ。私、元の姓に……
彼女のその言葉が、嫌が応にも僕を揺さぶる。言外に、離婚したという例の噂を肯定するものであったから。
また、胸がちくりと痛む。
彼女の声を聞いて、長らく蓋をしていた記憶の深淵が口を開けるのを感じた。
ずっと明るく優しかった、夏子お姉ちゃん。
いつも朗らかで僕らとともにあった、彼女の家族。
そんな温かく柔らかな日々が、この先も続くのだと信じていた。
あの日、夏子ちゃんのお父さんは、亡くなった。
そして、付け入るように事件は起こり、家族は尚一層追い詰められていった。
その時、夏子ちゃんは隣町の企業に就職していたのだが、事件の半年ほど後、急に結婚すると言いだしたのだ。相手は仕事先で知り合った男性だという。随分、唐突な話だったので僕ら家族は驚いたものだった。決め手になったのは、その結婚するという相手がお母さんの美春さんとの同居にも前向きだった、という事らしい。
夏子ちゃんは、住みにくくなったこの村を一刻も早く離れ、お母さんと静かに暮らしたかったのだろう。結局、彼女と会ったのは引っ越しの日が最後だった。結婚式も無く、葉書で「結婚しました」という報せが届いたきり──。それ以来、彼女とは二年以上連絡を取り合うことも無くなっていた。
だが先月の始め頃に、嫌な噂を耳にしたことがあった。
その夏子ちゃんが、離婚してお母さんと共にこの村に戻ってきているらしいという噂。そればかりか、その離婚原因はお母さんが同居していることに起因するらしいという内情までもが漏れ伝わっていた。
僕ら家族は、他人の家庭の内情までも平気で噂する田舎の空気というものに辟易していたし、夏子ちゃんやお母さんが下賤な噂の種にされる事も耐え難かった。なによりその噂の出所が、住所変更で訪れた役所の人間の流したものであったということが、僕らの苛立ちを増長させていた────。
僕は、そんな噂を敢えて聞かなかったつもりで過ごしていた。いくら義憤に駆られようと、彼女たちを住みにくくしてしまった責任の一端は、僕ら家族にもあるのだから。
────三崎姓に戻った。
離婚して旧姓に戻ったということを、彼女の言葉は示している。もちろん知っていた事だ。聞かなかったことにしたところで、記憶を消せるわけでもない。僕の心は、醜くも再び揺れ動いてしまっていた。
僕は、ずっと夏子ちゃんが大好きだった。
もう、必然でさえあったように自然とそう思っていた。小さい頃からずっと一緒だった。子供の頃は一緒にお風呂に入ったこともある。一緒に勉強したり、お互いの家で夕飯を融通し合ったり、家族同士も親密に付き合いがあったのだ。心を通わせるなという方が無理な相談だった。
彼女がいなくなる事はもちろん寂しかったし哀しかったが、二人が静かに暮らすことができるのならと、僕ら家族も後押ししたのだ。
そんな夏子ちゃんが今、目の前にいる。
少し痩せて髪も短くなっていた彼女は、それでも変わらずに美しかった。
だが同時に、どこか遠い人になってしまったような雰囲気も纏っており、その事がたまらなく僕を苛んだ。
もう、幼馴染だったあの頃とは違う……。
でも、いまはその事を考えるべきではないだろう。
彼女が止むに止まれぬ事情があってこの村に戻ってきたことは、間違いない。そして、ある意味で助けを求めて僕の家にやってきたのだということも────。
「元気だった? 玲弥くんは、変わってないね」
そう話す彼女の声は、それでも思っていたよりずっと明るいものだった。その声に幾分励まされ、僕も勇気を持って話すことが出来た。
「うん、相変わらずだよ。夏子ちゃんは、少し痩せたね。髪も───」
彼女の長かった黒髪は、首が見えるほどの長さで切りそろえられていた。なんとなく、既婚者の雰囲気を漂わせているようで、また少し胸が苦しくなる。
僕がそんな事をいうと、彼女は少し照れたように
「引っ越しとかいろいろ、ばたばたしてて、挨拶が遅れてごめんね。でも、大丈夫。もう落ち着いたから────。おじさんやおばさんは、いらっしゃる? 母さん、先に母屋の方に顔出してたけど」
そう言えば、母屋の方からなにやら感情的な響きの声が聞こえる気がする。きっと、彼女のお母さんである美春さんを見て、僕の母が感激しているのだろう。毎日お話をするのが楽しみだった母も、あの日以来どこか空気の抜けたように感じていたから。
「上がっていってよ。きっと、夏子ちゃんを見ればみんな喜ぶよ」
僕は、彼女を促し一緒に母屋の方へと向かった。
…………………………
母屋の戸口では、母が美春さんと少し興奮気味に話していた。
僕は、夢中で話している自分の母に知らせるように、夏子ちゃんを促しそっと背中を押した。
「まぁ……! 夏子ちゃん!」
姿を見せた夏子ちゃんに、母さんは、つんのめるようにしながらもサンダルをつっかけて飛び出してきた。そして、夏子ちゃんの手を握る。
「おばさん……」
夏子ちゃんも、感極まったような顔をしていた。
母さんは、その顔を見て辛抱できなかったのだろう。両手で夏子ちゃんの頬を包み、それからしっかりと抱きしめて、
「ごめんなさいね、ほんとうに……。おかえり、夏子ちゃん……」
そう声を震わせ、母は涙を流していた。
「ううん、あたしたちこそ、ごめんなさい……。ただいま、帰りました」
誰かが悪いわけではなかったはずだ、
それでも、お互いに謝らずにはいられなかったのだろう。
二人はそうして、抱擁を交わし合っていた。
僕はそんな二人を横目に、隣にいる美春さんにも顔を向ける。
「玲弥くん、ただいま……。また会えて嬉しいわ」
そう言った美春さんは、変わらずに優しく美しいままだったが、どこか翳りの差したような雰囲気のある顔だった。
事情を鑑みれば、それも無理からぬことだろう。
次々に押し寄せる世間の荒波、それらを受け止めきれなかったことが感じられるようで、僕は少し辛かった。つくづく、なんでこんな事になってしまったのだろう、ずっといっしょに暮らしていれば────そう思ったが、あの時は引っ越すことが最善に思えていたのも事実なのだ。
それでも、母と再会したことが美春さんに安心感をもたらしている事が感じられて、嬉しくもあった。
過去を悔やんでもしょうがない。今、こうして再び新たな時が動き出したことを、喜ぶべきなのだろう。
賑やかな声を聞きつけて、僕の父も昼寝から起き出してきた。
戸口の前で、はしゃいでいる僕らを見て、
「そんな立ち話も何だから中に入って休みなさい」
と父は穏やかに声をかけていた。
勿論父だって嬉しいはずだが、やはりいつも通り泰然としていた。しかしそれが無理をしているようにも見えて、なんだか可笑しかった。
改めて、夏子ちゃんと美春さんは僕の家に上がり、まず仏壇に向かって手を合わせていた。二人が引っ越したときには、既に祖母は亡くなっていた。今は、そこに祖父の位牌も並んでいる。
「これ、おじいちゃん?」
夏子ちゃんは、新たに増えていた位牌を見て僕に尋ねた。
「うん、一昨年の暮にね。癌だったよ」
「そう、なんだ。ごめんなさいね、お葬式に出られなくて」
隣りにいた美春さんは、そう言って謝った。
「いえ、連絡もしなかったうちが悪いんです。すみませんでした……お知らせもせずに」
僕は、そう答えた。
田舎の葬儀というのは、付き合いの深さよりも血縁関係の方を重視する傾向がある。たとえ家族同然で付き合っていても、血縁関係で云えば夏子ちゃんの家族とは全くの他人なのである。そのため葬儀の際には、当然のように夏子ちゃんの家族は重視されることがなかった。それに、既に二人は向こうの家の人になっていたという認識もあった。親戚でもない人間の葬儀に呼び出すには、理由が乏しいという意識が働いていたのは確かだった。
…………………………
着替えを済ませた父も交えて、僕ら五人は縁側のある客間で麦茶を飲みながらお互いの
一昨年の暮、つまり彼女が結婚した翌年にじいちゃんは亡くなったということ。それ以外は、殆ど変わらずに過ごしているということ。そして、彼女の住まいだった家は、今もうちで管理しているということを伝えた。
夏子ちゃんは噂の通り田端家と離婚して、美春さんと一緒にこちらの村に帰ってきていたということ。今は、村外れにある村営住宅にお母さんと二人で住んでいるということ。引っ越しの片づけも落ち着いたので、こっちで仕事を探そうと思っているということなどを、彼女は語っていた。
話が一段落すると母は台所に下がったが、美春さんはそれについていった。女二人だけで話したいこともあったのだろう。
僕の母は、我が家の中では一番の陽の気の人だ。次点で、今は亡きじいちゃんだっただろうか。明るい性格は家の中を明るくしてくれる。そんな人が家の中に一人いるだけで、なにかと暗くなりがちな世相では救われるような思いがした。
夏子ちゃんの家では、お父さんの敏弥さんがそんな立場だった。だから、お父さんが亡くなった後の家の中は、余計に寒々しいものだったかもしれない。
父は夏子ちゃんに、
「家は、時々手入れをしていたから、掃除すればすぐにでも使えると思うよ。お母さんと一緒に、またこっちの家に住んだらどうだい?」
そう言って、元住んでいた家の状態を語って聞かせていた。
その話を聞いて、夏子ちゃんは少し驚いているようだった。
「まだ、売りに出していなかったんですか?」
彼女たちがこの村を離れる時、住んでいた家は売りに出すということで承諾を得ていたからだ。
だが、それなりに年季の入った建物でもあり買い手がつくかどうかも分からない。それに、もし仮に帰って来ることがあった時に生家が無いというのも忍びない話だ。
『──亡くなった敏弥くんだって、家が無くなったら寂しかろう』
僕の父は以前からそう言っており、彼女の家を買い取ったあともそのまま残しておく事にしたのだ。あの時は、餞別とせめてもの罪滅ぼしの意味もあったのだろう。
話を聞いた彼女は、視線を
「ここから見えるんですね、うち」
彼女は意外そうに言って、縁側に座ったまま隣家の方を見つめていた。
「ああ、じいちゃんが木を
父さんはそう答えたが、細かい事情までは伝えなかった。
……あの事件のあった当時は、屋敷林が視線を遮っており僕の家から直接、夏子ちゃんの家の様子は見えていなかった。
『樹が無ければ、気づけたかもしれんのにな──』
じいちゃんは、そう言って自分の育てた屋敷林のことを死ぬまで悔やんでいたのだ。実際は、樹が無かったとしても事件を防げた保証など無い。それに、伐り始めたときには、母娘は既に引っ越してしまっていたため、
────これは、自分が生きているうちに片付ける責任だ
そう決めて、じいちゃんは自分の手で一本一本、伐り倒していた。
或いは、いつかまた二人が、あの家で暮らしてくれれば。
じいちゃんだけではない。いつしか、僕たち家族はその事を願っていたのかもしれない。
父さんは、仏壇の引き出しから家の鍵を取り出し、夏子ちゃんに手渡していた。
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