第2話 夏がまた始まる
肌に感じるのは、少し湿った空気。
東の空がほんのり明るくなり始めたばかりの朝早く、僕はまだ誰も起きていない家を抜け出し、車に道具を積んで出かける支度をする。
本来の松明かしにはまだまだ日が早いのだが、お盆の期間に入ると予定通りに毎日墓地に通う訳に行かないことも多い。お盆の時期は思いがけない来客もあるため、前倒してやっておけることは済ませておこうと思ったためだった。そして、本来の日程からずらして行けば、誰か他の人に会う心配もないだろうという打算もあってのことだった。
この地方では、『松明かし』と呼んでいるお盆の伝統的な風習があった。
よく肥えた松の根などに多く含まれる
他の地方でも、『迎え火・送り火』として行われているらしいが、うちの地方ではお盆の入り前日の『迎え』と最終日の『送り』の他にも、お盆の期間中はずっと、お墓参りの度に毎日この松明かしを焚くのが習いだった。
僕は、この松明かしが大好きだ。
松脂の香油のような香りと飴のような質感、火を点けたときの焦げるじりじりとした音、揺らめく炎と立ち上る煤煙……それらが混然となって、僕に季節と時の流れとを感じさせてくれるのだ。
子供の頃に見たお盆の墓参りの期間、夕方墓所に行くと夕闇の中で幾重にも焚かれた松明かしの揺らめく炎の光と熱気、その中を先祖を迎える人々と一緒になって大勢でお墓を巡るあの空間と体感が────、大人になった今も僕の心と魂を掴んで離さない。原始から連綿と繋がる人々の営みを肌に感じられる、そんな空間がそこにはあった。
だけど、そんな松明かしの風習は今では殆ど消えつつある。何年か前に墓地の区画整理があり、どこのお墓も現代風の造りに様変わりしてしまった。
以前なら、むき出しの地面の上にたくさん並んでいた天然の火受け石も今は全て取り除かれ、地面はコンクリートと石畳で舗装され、以前のように直接火を焚くわけにもいかなくなり『松明かし』の風習はあっさりと無くなっていってしまった。今でも稀に見かけることはあったが、周囲の新しくした舗装面や墓石が煤煙で煤けると言って、あまり歓迎はされないらしい。
そんなお盆の伝統を、僕は今、一人静かに味わうべく墓地に向かっていた。
墓地のある場所の前まで来て車を停め、道具を持っておりる。
この辺りは奥まっていて道路に停めておいても通行の邪魔になることもないし、そもそもこんな時間だ。僕は気にすることもなく車を放置し、そのまま石段を登って行く。
さほど長くもない石段を登ると景色が開ける。きれいに区画整理された墓石が整然と並んでいるのが見渡せた。
我が家のお墓は、その区画の奥の方にこぢんまりと在る。そこに足を運び、墓石に相対する。
『三崎家之墓』と刻まれた墓石と、隣に並ぶ墓誌碑。
僕はその墓碑に刻まれた祖父母の名を確認してから荷物を地面に置き、軽く礼をして手を合わせた。そして荷物の中から、ろうそくと線香を取り出す────
と、僕はそれに気づいた。
きれいにしてあったはずの墓石の線香立てに、誰かが線香を供えた跡が残っていた。古いものではない、つい先程か……あるいは、昨日にでも訪れたのだろうか。
あの事件があってから、うちの墓を訪れる者はそれほど多くはない。本当に近しい親族か、あるいは遠くに住んでいる事情も知らないような遠い親戚か。いずれにしても、まだそんな人がいたのかという感じですらある。
そんな雑念を振り払い、僕は墓石の前に裏返しておいたステンレス製の火受け皿を元に戻し、そこに松薪を小さなキャンプファイヤーのように積み上げていく。そして、マッチを擦る……。
じりじりという音を立てながら、火は一気に薪に燃え移る。よく肥えた松の根を割って干しておいた、極上の松薪だ。炎とともに、季節の香りとも言える松脂の焦げる匂いが辺りに広がり始めた。その立ち上る炎と煙をしばらくぼんやりと眺めてから、改めて線香とろうそくを灯し、手を合わせて先祖の霊に祈りを捧げた。
誰もいない早朝の墓地で、一時の感傷と思い出に浸る。
今では、こうして松明かしをする者も殆どいない。
風習としては、そう重いものでも面倒なものでもないのだろうが、近代化されたこの墓地の佇まいにはそぐわないということなのだろう。昔の、自然に抱かれた墓地が好きだった僕にとって、この清潔で整然と立ち並んだ今の墓地は、どこか無機質な作り物っぽくてあまり好きではなかった。
だが、これも時代の流れ。一人で抗えるものではないのだろう。
僕は、持ってきた手桶から柄杓で水を掬って墓石にかける。
そして、もういちど手を合わせて、
「じゃあね。じいちゃん、ばあちゃん……またくるよ」
そう声をかけて、その場を後にした。
それから僕は、もうひとつ別のお墓の前に立ち寄る。
そこには、僕のうちのお墓と同じ『三崎家之墓』と刻まれた墓石が置いてある。もとより、この辺りは三崎姓が多く、この墓所に刻まれている名前は半分以上が『三崎』だ。名字だけでどこの家の墓であるかを判断するのは、地元の人間でもなければ無理だろう。
その墓石の端には小さく『
ここは、僕の幼馴染で家族ぐるみの付き合いがあった、夏子ちゃんのうちのお墓。
墓碑を見ると、真新しい名前が刻まれている。
『
夏子ちゃんの……お父さんの名前だ。
数年前、突然亡くなってしまった、夏子ちゃんのお父さん。
それからの彼女と僕らの家族の暮らしは、一変した。
生きることが、これほどまでに大変で残酷なのかということをまざまざと見せつけられているようで、この時は運命を呪ったものだった。僕らの家族も、彼女の家を支えようと奮闘したが、はたしてそれが正しいことだったのか……今となっては疑問もある。紆余曲折あって、夏子ちゃん母娘は今は別の街に暮らしている。
明かりの消えた彼女の家は、今も僕の家族が管理しながら家主の帰りを淋しく待っている。いや、もう帰って来ることは無いだろうという諦観さえ漂っているほどだった。
僕はかつてお世話になった故人へ、感謝と挨拶を兼ねてお線香を上げさせてもらう。
手に持っていた点火済みの線香を立てようとして……それに気付いた。すでに、誰かが線香を供えた跡がある。気のせいかもしれないが、うちのお墓にあった痕跡と瓜二つだった。
……彼女の親戚でも、お墓参りに来ていたのだろうか。
お盆参りにはまだ早いが、ともかく誰かが訪れた跡があったのだ。
一ヶ月ほど前に聞いた噂を、僕は思い出す。
鼓動が、少し早くなるのを感じた。
期待と恐怖が入り混じったような、そんな……どこか奇妙な不安さだった。
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